先輩のむかし
私の両親は聖司の存在に対して、娘をどれだけ束縛しようが執着しようが寛容だった。むしろ、いつだって大歓迎で聖司のことを娘婿候補というよりも、実の息子のように可愛がっている。ほとんど自宅のように聖司が長い時間を我が家で過ごしても、喜びこそすれ邪険にすることはない。
そんな両親が、唯一制約したのは、夜は必ず自宅で眠るようにすること、だった。両親の言葉を借りればけじめの為らしい。もちろん、私が夏目家で過ごした日も、どれだけ寝落ちしてしまいそうになっても、必ず自宅へ帰って寝るようにしていた。
だから、深夜から早朝は聖司も自宅に戻っていて、私の行動が制限されることはない。これまで一度も深夜に家を抜け出す、ということをしてこなかったので、聖司の注意が薄いことを自覚していた。
両親が仕事の為に起床するのは朝六時を過ぎてから。聖司が私の家に来るのは七時半を過ぎてから、だ。だから私は、朝五時に目を覚ますと物音を立てないように慎重にパジャマから私服に着替え、最低限の荷物だけを持って部屋を出た。足音を立てないように細心の注意を払って階段を下り、玄関に向かう。鍵を開けるときだけはどうしても錠の外れる音がするが、できるだけ小さくなるようにゆっくりと鍵を回した。
玄関を開ければ約束通り、すでにその人はその場に立って私を待ってくれていたらしい。
「すみません、お待たせしました」
「いや、僕も今来たところだし、気にするな。おっ、なんかこの会話デートっぽいな」
悪戯っぽく歯を見せて笑う。その人――――仁見先輩は緩めのジーンズを履き、大きめのざっくりとした白いシャツを着て、スニーカーを履いている。以前見た私服を思い出し、大きめの制服が動きにくそうだと感じていたが、彼は元々ゆるっとした服が好きなのかもしれない、と思った。
「よし、じゃあとりあえず行くぞー。あんまりここに長居して夏目に見つかったら元も子もないし」
八月の朝は、五時でもすでに太陽が眩しい光を放っている。穏やかな風は少し涼しい気もするが、あと数時間もすれば暑いばかりのぬるい空気に変わる事だろう。
仁見先輩に促され、駅に向かって並んで歩き始める。事の発端は、先日深夜に仁見先輩から届いたメールだった。
何の事かと問う私に、仁見先輩は自信満々に私が知りたいことを教えてやろう、と言った。どうやら彼は、非常に悔しいことに聖司の秘密を知っているらしい。聖司の本音も、もちろん私をどう思っているかさえ。私の方がずっと長い付き合いなのに、と思うと正直妬ましかった。
だからといって妙な意地を張るつもりはない。私はすぐに仁見先輩の言葉に食いついた。しかし、仁見先輩はただでは教えられない、と言う。そんな彼に提示された条件が今日だった。家を抜けだして、一緒に行って欲しいところがあると言うのだ。
一体どこへ、と問う私に仁見先輩は『水島も行きたいところだ』と確信した様子で口にし、それ以上語ることはなかった。多少納得はいかないものの、背に腹は変えられない。私は仁見先輩の言葉に縋り付き、すぐにこうして家を抜け出す計画を立てたのだ。
「そろそろ教えてくれませんか?どこに連れて行ってくれるんです?」
「あー、まあそろそろいいだろう。教えてやろう」
斜め前をいつも通り陽気に歩いていた仁見先輩は、私を振り返ると悪戯っぽく笑って見せた。
「勝見原市の南久木町!水島と夏目が前に住んでたところだ」
早朝五時半の駅の構内は流石にまだ人がまばらだった。駅に入っているコンビニでそれぞれ朝食を買い、普通電車で十分ほどで大きな駅に着く。仁見先輩との雑談曰く、こういう路線図の真ん中にあるような大きな駅をハブステーションと言うらしい。元々は自転車の車輪の中心部分を指す言葉でそれが語源になっているそうだ。特にこの先使えそうにない知識だが、一つ賢くなれた気はする。
その駅から、本数は少ないが主要な駅にしか止まらない電車に乗り込み、ここから一時間半ほど移動し、私鉄の各駅停車に乗り換え、二十分ほど揺られた先に目的の町があるらしい。仁見先輩は時刻も料金も乗り換え方法もきちんと確認していたらしく、今のところ円滑に移動出来ている。
通路を挟んで、進行方向を向いて二席ずつ並んでいる座席に二人で座る。時間が早いからか、休日の昼間に乗ればどこを見渡しても人でいっぱいのこの電車も今は空いており、二人並んで座ることができた。長旅になるので、流石に一時間半立ちっぱなしは辛い。
「ほらほら、水島。ちゃんと食べておけよ。今日も暑くなるらしいからなあ。きちんと食べておかないと体力がもたないぞ」
自分のメロンパンの袋を開けながら、仁見先輩は妙に上機嫌だった。私も彼の言葉に従って手の中のおにぎりの封を開ける。私はおかかとたらこのおにぎりを一つずつ、仁見先輩はツナマヨのおにぎりとメロンパンを買っていた。
電車で食事となると、マナーとしてはよくないのだろう。しかし、どこかのお店に入るほどの時間的余裕はなく、かといって寝起きで感じる空腹も無視できない。匂いのしないものを手早く食べてしまうことにした。
「ご機嫌ですね」
「んん?そうか?うーん、まあ、そうかもしれないな。何せ友達とこんな風に出かけるのなんて初めての体験だからな。少しはしゃいでるかもしれない」
……………ちょくちょく、こういうデレを挟んでくるのはやめてほしい。普通に嬉しくなってしまう。元々が素直な性質なんだろうな、と思う。何も取り繕わないで生きられる仁見先輩が、少し羨ましい。
「まあ、僕は帰ったら夏目に殺されるかもしれないけどな!」
私が羨望を向けていると、仁見先輩はあっけらかんとそんなことを言う。早朝に先輩と遠くへ旅立つというちょっとした非現実に意識を向けていたのに、途端に現実へと引き戻された。
「怖いこと言わないで下さいよ………」
聖司の監視は夏になるとより激しくなる。そんな中で早朝からこっそりと私を連れだした仁見先輩に、聖司がどういう感情を抱くのか、想像するだけで恐ろしいものがある。私が望んで仁見先輩の手を取ったのだと言っても、聞き入れてくれるとは思えない。当然私への束縛もより一層激しいものとなるだろう。
もちろん、それを覚悟の上で仁見先輩の誘いに乗った。彼へ聖司の怒りが向かないかだけが心配ではあるが、私はどうしても昔のことが知りたい。私に何があったのか、どうして誰も昔のことに触れないのか、聖司が何に苦しんでいるのか。その答えの全てがきっとあの町にあるのだ。
「一応覚悟して水島を連れだしたからな、それはいいんだ。ああでも、夏目を犯罪者にさせる訳にはいかないなあ」
どこまで本気なのか、仁見先輩がそんな風に呟く。聖司がどんな風に怒るのかは想像するだけで恐ろしいものがあった。それでもさすがに、何も本気で警察沙汰になるようなことはないと思うのだが。たぶん、おそらく…………そう信じたい。
ペットボトルのお茶で喉を潤し、一度迷ってめまぐるしく変わっていく電車の窓の外の景色に目をやり、言葉を選んで慎重に仁見先輩へと問いかけた。
「そんな心配をしなきゃいけないのに、どうして私を連れだしてくれたんですか?」
仁見先輩は豪快に食べていたメロンパンの最後の一欠片を口に押し込む。可愛い顔が台無しになるかと思いきや、そんな食べっぷりさえどこか愛らしく感じさせるのだから美少女顔は得だ。口を開けば普通に男の子なのだが、身なりを整え、黙ってお上品に座っていれば、お人形さんのようになる事だろう。
もぐもぐと大量に頬張ったメロンパンを飲み込み、仁見先輩は口を開いた。
「今のままじゃ、夏目の為によくないと思ったんだ。きっとこのままだとダメになる。本当のことを知れば水島は辛い想いをするかもしれないけど、ごめんなあ。僕は夏目の味方でいたいんだ」
困ったように笑う。仁見先輩はごめん、と口にしたけれど実はそんなに悪いと思っていないのではないかと思った。彼の言葉にあまりに迷いがなかったからだ。きっともうとうの昔に決めていたのだろう。例えば彼の言うように私が昔のことを思い出し、辛くて目の前で泣きだしてしまっても、仁見先輩は少しも揺らがない。それでいいと思った。端から見れば、私と聖司の関係はあまり褒められたものではない。特に聖司は、その過剰な監視癖は人から敬遠されるものだ。それをおかしい、と言った智美の言葉こそが正しいのだ。だからこそ、少なくとも仁見先輩には聖司の味方をしてほしかった。
「夏目が何を隠しているのかを水島が知って、それで何かが変わるのかどうかは僕にも分からない。でも、知らないよりはいいと思った」
「仁見先輩はどうして、昔に何があったか知ってるんですか?聖司に聞いたんですか?」
「いやあ?ぽろっと漏らした言葉を拾って、勝手に色々調べて憶測をぶつけたら、売り言葉に買い言葉で答えてくれたんだ。大喧嘩になったけどな」
仁見先輩が肩を竦めて笑う。私達が降車する駅はまだまだ先だが、ちょうどそのとき、沢山の駅を通りすぎていた電車が大きな駅で停車した。人波が一気に車内へと押し寄せてくる。出勤する社会人が多いようで、固まって会話をしている人はあまり見られなかったが、人が一気に増えただけでどこか賑やかしくなったような気がした。
「なあ、水島。夏目は僕の恩人なんだ」
ぽつりと、あまり仁見先輩らしくない、静かな調子で呟いた。その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいて、だからこそ真剣な話だと思い、黙って耳を傾けた。
「僕の母親はどうしようもなく股が緩い人でなあ、僕が生まれたのは避妊を怠ったからなんだ。父親は候補がいすぎて誰だか分からなかったらしい」
真面目に聞くつもりであったが、思った以上にハードな話を軽い調子で語られて、思わずどぎまぎと動揺が表に出てしまった。そんな私に仁見先輩は困ったなあとでも言いたげに、いつも通りの明るい笑顔を浮かべた。
「けして賢い人ではなかったが、代わりに僕が言うのもなんだが綺麗な人だった。母親はその美貌と股の緩さで恋人を捕まえては、金をもらって生活していたんだ。その沢山の恋人の中で、もしかしたら一人くらい『本物』もいたのかもしれないけど、僕の目から見れば取引にしか見えなかったな。母親は愛と金が欲しい、相手はセックスがしたいという取引だ。それがずっと普通だと思ってたんだ。誰かに何かをするのは、相応の見返りがあるからだと」
語られる仁見先輩の母親を想像する。容姿が美しいのは、なんとなく想像がついた。仁見先輩の容姿は、驚くほど整っている。その母親ともなれば、さぞ異性の目を惹きつけてやまなかった事だろう。だからといってその生き方は、正直あまりいい感情を抱けない。
「母親は僕を可愛いがってくれたが、あれは僕を通して自分を可愛がっていたんだろうなあ。自分によく似て可愛い容姿で、けれどけして同じ土俵には立てない異性だから。僕もあの人に素直に従って、母親の『可愛い息子』でいることで生活に必要なものを得ていた。ああ、勘違いするなよ。けして悪い人じゃなかった。時々金を置き忘れて家を空けられるのは困ったが、その程度で、あとはよくしてくれたと思う。あれは単純に考えが浅いだけの人なんだろうな」
難しい顔をしていたのだろう。仁見先輩はひらひらと私の顔の前で手のひらを振った。彼の言葉を信じるなら、悪い人ではなかったのかもしれない。けれど、相手のことを全く知らないのにこう判じるのはよくないかもしれないが、いい母親ではなかったのだろう、と思った。私はまだ十代の子どもで、当然母親の苦労の全てを理解することはできない。それでも、仁見先輩のお母さんの話を聞いて、彼女はまだ『母親』ではなく、『女』だったのではないか、と思った。もしくはもっと単純に、『子ども』だったのかもしれない。
「そういう価値観で生きてきたから、夏目に出会って驚いたんだ。夏目はずっと水島の為に生きてるだろう?心の底から水島のことだけを考えてるんだ。誰かの為に生きられる人がいることに、それはそれは驚いた。驚いて、理解できなくて、色々ちょっかい掛けたけど、その内本気なんだと分かって、また驚いた。そうしたらなあ、いろんなことが分かったんだ」
「いろんなこと?」
「…………この世界、案外お人好しが多いんだな」
私の問いに、仁見先輩は苦笑して見せた。
「親切にしてくれる人は、何かしらの見返りを求めているんだと思ってたが、そんなことはないんだな。ただ純粋に親切なだけなんだ。それが、夏目を見ててようやく分かった。僕は優しい人に囲まれてるんだと気付けた。だから夏目は、僕の恩人なんだ」
仁見先輩が笑う。その顔を見て、ああ好きだなあと素直に思った。私は彼の笑った顔が好きだ。裏表がなくて、明るくて、気持ちのいい笑顔だと思った。仁見先輩がそんな風に笑えるのは、彼の言う見返りのない優しさを知ったからじゃないだろうか。それに対してただ単純に良かったな、と思った。
同時に、彼にそう思わせるほど、私を想いやってくれる聖司のことを想った。聖司は私を恋愛対象として見ていないのかもしれない。けれど、彼が他の何より、自分自身よりも私を大切にしてくれていることは、間違いようのない事実だった。
だからこそ、私は知りたいのだ。私はずっと聖司のそばで生きてきた。一番近くで、ずっと聖司を見てきた。それなのに、聖司に関して分からないことが多々ある。それも、もしかしたら、昔のことを覚えていないから、彼と私の根底が違うから理解できないのではないかと思った。
何より単純に、私は聖司のことが知りたいのだ。彼のことを好きだから、彼の全てを理解したいと思う。例え彼の心が恋ではなかったとしても、私の恋が叶わなかったとしても、聖司が大切な人であることは変わりないのだから。