彼の本音
テレビを見つつ、ダイニングバーだけではなく夏休みの日中はラーメン屋でもバイトをしているらしい仁見先輩の珍体験に耳を傾けていると、私のスマートフォンが着信を告げた。マナーモードにしていたスマートフォンはメールに比べると長めのバイブを鳴らしている。
画面を確認すると、智美の名前が表示されていた。
「すみません、ちょっと電話してきます」
そう断って立ち上がると、気にせずゆっくりしてこいよ、と仁見先輩に声を掛けられる。リビングを出て、廊下に踏み出して通話ボタンを押し、受話口を耳に押し当てて歩きながら電話に出た。
「もしもし?どうしたの?」
『え!あれ!?千穂!?』
しかし、発信者であるはずの智美の方が、電話に出た私に対して素っ頓狂な声を上げる。電話の向こうはドタバタと騒がしげな物音が聞こえ、慌ただしい様子が伝わってくる。
二階にある自室で話そうと階段を上りながら通話を続けた。
「千穂に掛けたなら千穂でしょうよ」
『えー!ごめん!掛け間違っちゃったみたい』
「あ、そうなの?」
『アドレスの『千穂』の上に『父』がいてさー。ほんとごめん!』
「ああ、なるほど。そういう間違いか」
『ごめんね、掛け直すから切るね。またメールするー!』
階段を半分ほど上ったところで足を止めれば、そう言ってすぐに通話は切れた。どうやら随分急いでいたらしい。普段、どちらかと言うとマイペースなタイプの智美が、ああも慌てているのは少し珍しかった。
何かあったのかな、と心配しつつも、自室に向かう用事がなくなったので、また階段を下りてリビングへ向かった。リビングへ繋がる扉の前にたどり着くと、少し扉が開いている。スマートフォンの画面を眺めながら後手に扉を閉めたので、きちんと扉を閉められなかったらしい。これではエアコンの冷気が逃げてもったいない、と反省しながら扉を開けようとして、
「夏目は、水島が好きなんだな?」
聞こえてくるのは、確認するような仁見先輩の問いかけ。とっさにドアノブに掛けていた手を引っ込める。
「好きだよ」
聖司からの返答はすぐに返ってきた。どうやら二人で私の話をしているらしい。猛烈に部屋に入りにくい。一人廊下で気まずさを感じ、たたらを踏んだ。廊下は冷房が効いていないので、むしむしと暑い。できれば早くリビングに戻りたかったが、今部屋に戻るのはどうしようもなく気恥ずかしい。
「ふうん」
仁見先輩の気のない相槌が静かに聞こえた。
「好きな女の子と毎日自宅に二人っきりか。やりたい放題だな!」
その後で、殊更明るい声で仁見先輩がそう言った。何をやるか、について明言はされていないが、話の流れ的に付き合っている男女の諸々に関することとしか思えない。ますますリビングに戻りにくくなった。同時に、手すら繋がない清い男女交際を続けている私達に、一体何ができるのか、という疑問が浮かぶ。
聖司も友達とそんな会話をするのだな、と思う。正直恥ずかしいので止めて欲しいが、私も智美に聖司の話をしたりするのでお相子なのだろう。下世話な話を自然と盛り込んで来た辺り、どんなに可愛くても仁見先輩も男の子なんだなあと思った。
「仁見」
「うっわ、怖いな。睨むなよ」
低く、不機嫌そうな声で聖司が彼の名前を呼べば、仁見先輩はうんざりした調子でそう言った。
「僕の発想はおかしいか?高校生が付き合ってるってなれば、もうそれはイコールで繋いでもいいと思うけどな」
「二度とそんなことを言うな。千穂をそんな目で見ることは許さない。俺は、」
そして、続けられた聖司の言葉に、私は息を止められることになる。
「千穂のことだけは、そういう対象として見ない」
は――――?そう思った言葉は運良く声にはならなかった。そういうっていうのはつまり、今の話の流れ的に付き合っている男女の仲とか、性欲とかを指すのだろう。それとして見ない、って、え?付き合っているのに?将来軟禁夫婦生活像を語っておいて?
千穂のことは、ってじゃあ他の人のことはそういう風に見るの?私と付き合ってるのに?好きだって言ったのは何?え、もしかして妹としてとかそういうオチ?じゃあどうして私を過剰に束縛するの。何のために私は自由を切り捨てたの。
それともプラトニックな関係がいい、とでも?生憎男女の仲に意味もなくそんな関係が成り立つと思えるほど、純粋な思考は持ち合わせていない。確かに聖司は性的なことを匂わせるものとか、そういった話題のテレビ番組すらも元々嫌っている。でも千穂のことだけは、と私に限定するということは、他の女の人ならそういう風に見ることができるということ?
聖司が興味ないのは、私だけ?
息が詰まる。心臓が過剰なほどばくばくと脈打っていた。温度だけではない、身体の内側から嫌な熱が放出され、一気に大量の汗をかいた。じっとりと着ていたTシャツが背中に貼り付いて気持ち悪い。異常な不快感だった。
音を立てないように神経を使い、たじろぐように一歩後ずさる。そのままぐ、と息を止め、意を決してリビングに背を向けた。足音を立てないように、二人に気取られないように、細心の注意を払って廊下を進み、階段を上がる。今はとてもじゃないが、リビングに戻ってまともに顔を合わせられるような気がしなかった。
私は、聖司のことが好きだった。だから、友達から見ても異常な束縛も、仕方がないなあなんて暢気な事を言いながら受け入れていたのだ。優越感すら覚えていたかもしれない。私はこんなにも聖司に大切にされているのだと。誰に対してかも分からない誇らしさを感じていた。バカバカしい。そんなのは、痛い自惚れでしかなかったのだ。
聖司が好きだから、私は彼と一緒にいたかった。誰より近くにいたかったし、本当はもっともっと触れたいと思っていた。手を繋いで歩きたかったし、抱きしめてキスをしたかった。その先だって、聖司以外の人とは考えられなかった。どうやらそれは、非常に残念なことに、私だけだったらしい。
本当の本音は、そのことに薄々気付いていたのだろう。だから私は、全く私に触れようとしないことについて、聖司に問い詰めることをしなかった。拒絶されるのが、怖かったからだ。その事から、目を逸らすことだけに必死だったのだ。
それなら、優しくも束縛もしないで欲しい。どちらも期待してしまうではないか。なんて残酷な人だろうと、自室の扉を閉めた途端、私は全身の力をなくしてその場に崩折れた。