一つの方法
夏休みの聖司は特に甲斐甲斐しい。私のことを閉じ込める勢いで外へ出そうとしない代わりに、いつも以上に世話を焼いてくれる。暇はしていないか、映画でも観ようか、甘いものでも用意しようか、と常に私の様子を気にかける。おそらく、常に当たり前のように私を束縛する聖司も、さすがにやり過ぎだ、という自覚があるのだろう。その引け目が世話を焼くという形で出てきているように思えた。
「そういえば、この間長屋くんを見たよ」
そんな聖司を部屋から追い出して、代わりに招き入れたのは智美だった。外出するとなると反対されるだろうが、家の中で友達と遊ぶくらいならば文句を言われる謂れもない。聖司は、彼らしい爽やかな微笑みで『いらっしゃい、智美ちゃん』と彼女を招き入れ、私の部屋に飲み物とお菓子を届けてくれた。そのあとは、一階の我が家のリビングで寛いでいるはずだ。聖司の両親の仕事が休みの日でも、彼は私の家で過ごすことの方が多い。
「え、どこで?」
「私、駅前のコーヒーショップでバイトしてるって言ってたでしょ。その店の前を歩いてたんだけどさ」
にやー、と智美の顔に笑みが浮かぶ。これは意地の悪い笑顔だと、すぐに分かった。
「両手に見るからに顔そっくりの双子の兄妹ぶら下げててね、気になって声かけたらやっぱり長屋くんの弟と妹なんだって。二人ともあっくんあっくん!ってずっと長屋くんに話しかけててさあ、可愛かったけどそれより長屋くんのあっくん呼びがツボに入っちゃった。教室であんなにむすっとした顔してるのに、あっくんとか可愛すぎ」
智美からもたらされた情報に、思わず私もにやりと笑みが浮かんだ。クラスメートの知らない一面を知ることはただでさえ興味深いのに、その方向性が妙に可愛い。きちんと会話をすれば、普通の親切な人だと分かるのだが、一見すると威圧感さえ感じる長屋くんだからこそ、余計にその状況を想像してにやにやしてしまった。
「いやあ、いいもの見たよ。そういえばさ、長屋くんとは連絡取ってるの?」
「一応ね」
「それで?何か思い出せた?」
智美には、変わらず自身の記憶への不信感や長屋くんとの会話を相談をしていた。彼とメールで連絡をしていることも話していたので、その進捗を聞かれたのだ。
「これといっては、何も…………」
「ふーん」
いまいち興味があるのかないのか分からないくらいの調子で、智美はそう曖昧な相槌を打って床に転がる。室内はエアコンが効いて適温であり、過度に寒くもなければ、大人しくしていれば暑くもない。私のお気に入りのふかふかのクッションに顔を埋めた智美は、どことなく幸せそうに目を細めた。
智美はゆったりしたマキシ丈のワンピースに赤チェックのシャツを腰に巻きつけている。数日ぶりに会うと夏休みだからと羽目を外しているらしく、少し髪の色が明るくなっていた。
「南久木町に小学二年生の頃に長屋くんが引っ越して、その夏休みに事故か何かに遭って九月に登校しなかった女の子の名前が、『水島千穂』なんだよね?」
「うん、同姓同名で歳も一緒だし、それで長屋くんはその女の子が私だと思ったみたい」
長屋くんはその年の七月に南久木町へと引っ越してきたらしい。その為に親しい友人などはおらず、何がその少女に起こったのか、という噂が届くこともなかった。大人たちは知っていたのだろうが、子どもには教えてもらえず、その私かもしれない少女が登校を再開するよりも早く、長屋くんは九月いっぱいでまた引っ越しをしてしまったらしい。
その為、長屋くん自身もその少女が私だったかどうか、確信は持てないようだった。
「千穂の名前もさあ、すごい多い訳じゃないけどそう珍しいものでもないから、名前が同じでも確信には至らないよね。見た目は?似てるって?」
「そこまでは昔のことだし、覚えてないって」
「まあ、小学生の頃とだったらかなり容姿も変わってるだろうし、当てにならないか」
ううん、と唸りながら智美が寝返りを打つ。枕にされていたクッションは、胸の前に抱きかかえられて一緒にごろんと転がった。
「一回行ってみたいよね。ちょうど今、夏だし。実際にその町に行けば、何か思い出すかも」
「そうだよねえ。私もそう思うけど、聖司がなあ………」
この時期の外出をただでさえ好まず、仮に外出するにしても自身が付き添わなければ言語道断と言わんばかりの聖司である。
これだけ一緒にいるのだ。私の記憶の曖昧さに聖司が気づかない訳がない。それなのに、そのことについて一切触れることがないのは、きっと彼は記憶を思い出さなくてもいい、或いは思い出さない方がいい、と思っているのだ。とても、南久木町に聖司が付いてきてくれるとは思えず、この記憶への違和感すら話そうとは思わなかった。
「…………ねえ、千穂はさ、記憶を本気で思い出したいの?」
寝転んでいた智美が、よいしょっと、という掛け声とともに起き上がる。床の上で膝を抱えるように座ると、膝の上にクッションを置いて、その上に上体を預けた。
「そりゃあ、もちろん。記憶がないって結構不安なんだよ」
「まあ、そうだよねえ」
うんうん、と唸るように智美は二度頷いた。それから顔を上げて、彼女にしては存外真面目な顔でじっと私を見つめる。
「協力してあげよっか?」
「何の?」
「夏目先輩の目を出し抜いて、この家から逃亡するのを」
それは思いもよらない提案だった。私は驚いて、息を飲む。
「今まではさ、千穂が何の疑問も持たずに困った様子もなかったから余計な事は言わなかったけど、やっぱり夏目先輩はおかしいよ」
智美は眉間に皺を寄せて、けれど困ったように眉尻を下げた。不安そうなその表情は、聖司に対する不信感をありありと伝えてくる。先程まで適温だったはずのエアコンの効いた室内で、じわりと冷や汗が滲んだ。
「千穂のことを閉じ込めて、行動全部縛って、普通じゃないよ。どうして千穂のお父さんやお母さんも何も言わないの?異常だよ」
今の状態が不自然であることは分かっていた。恋人だからと言っても、束縛には限度がある。現状が、千穂の言う通り異常であることも理解していた。
それでも受け入れてしまうのは、束縛を向ける聖司が私に優しいからだった。家の中にいる限りでは、彼はとても私を大事にしてくれるのだ。不埒な意図を持って触れることもなく、ただただ甘く溶けてしまいそうなほど、聖司は優しい。彼だけは何があっても私の味方だと、絶対の確信を与えてくれる安心感は、一度知ってしまうと安易に手放せるものではない。
「それは、いいの。時々気が滅入るけど、別に私、家にいるのも嫌いじゃないし。だめなんだあ、私」
何も私も、はじめからそう割り切れていた訳ではない。詰まらないことで、家をこっそり抜けだしたこともあった。その度に、聖司は汗だくになって私を探しまわり、真っ青な顔で私を抱きしめるのだ。よかった、とまるで縋りつくように、身体がばらばらになりそうなほど強い力で。
「聖司に悲しい顔をして欲しくないの」
私まで泣きそうな、不安な気持ちになってしまう。それならば最初から彼に心配を掛けるような真似をしないでおこうと思ったのは、いつの頃だったろう。すでに結構な月日が流れていた。
「うわあ、お似合い…………」
心底うんざりしたように、べ、と智美は舌を出した。
「今すごいドン引きしてる。いやもう、この軟禁ライフが合意の上ならそりゃあ私に口出す権利なんてない訳だ」
「快くって訳じゃないけどね」
一応そこは訂正しておく。合意の上、と聞くと妙に乗り気のようではないか。私も、せっかくの夏休みなのだから出かけたい、という気持ちがない訳ではないのだ。
「でもありがとう。智美がそんな風に心配してくれるのはすごく嬉しい。それに今回ばかりは記憶の手がかりってそれしかないから、いざというときはそういう方法もあるって頭に入れとく」
「うん。まあ、適当に考えといて」
真面目な空気が一気に和らいだ。智美も肩の力を抜いた様子で、先程との雰囲気の違いに、どれだけ私のことを考えてくれていたのか察することができる。有り難くて、心から自身を案じてくれる友達を持っている私は、とても幸せ者だと思えた。