第三十六話 「南の島で」
十月中旬。夏の残暑が残る晴天の下、春也たちはとある島に来ていた。
「あー、涼しいぃ…………」
あまりの暑さゆえに春也はダイニングチェアの背もたれに体重を預けて天井を仰ぎ見ていた。
「なんかすごい既視感があるね……。まあ、言ってる台詞は全然違うけど」
春也の向かいに座る雅人が額の汗を拭きながら苦笑いを浮かべていた。
「そうかー? それにしても沖縄は暑いな。本州とは大違いだ……」
「本当にそうだね……宇宙ちゃんは大丈夫?」
春也の隣では宇宙が涼しげな顔でコーヒーフロートを飲んでいた。
「どう見ても大丈夫そうだろ、こいつは。……それ美味しい?」
春也はコーヒーの上に乗っているバニラアイスに視線を向けた。視線に気付いた宇宙は細長いスプーンでアイスをすくい取り、春也の口に運ぶ。
「ん、食べる? はい、あーん」
「うん、美味しい」
「はは、なんかこっちまで恥ずかしくなるんだけど」
「別にいいじゃんか、俺ら以外に客は誰もいないし」
「ま、まあそうだけどさ」
春也の言う通り辺りを見渡しても客と呼べる人は三人以外にはいなかった。
「それにしてもせっかくの修学旅行の自由行動時間なのに喫茶店というのはどうなんですか? 春也さん」と、雅人が問いかけた。
「んー、でも昨日までで主要な観光名所はだいたい巡ったろ?」
「首里城に水族館、博物館に庭園も楽しかったよ?」
「楽しかったよなあ、宇宙? 自由時間くらいゆっくりしようぜ? 雅人さん」
そう言って春也は結露したグラスを手に取りコーヒーを口に流し込んだ。店内ではアラブ系音楽が流れており、沖縄とは思えぬ異国のゆったりとした雰囲気が春也の心を落ち着かせた。
「それはいいけど、国際通りに来てるんだから色々と回ろうよ」
「わかった、わかった。後でな……お、ここボルシチもあるみたいだぞ、食べたらどうだ? 雅人」
「僕たち沖縄に来てるんだよね⁉︎」
結局、二時間弱ほど滞在して喫茶店を後にした。日差しが降り注ぐ中、春也一行は当てもなく歩いていた。
「なあ、雅人。 俺たちはどこに向かっているんだ?」
「さあ? 何か面白そうな雑貨店があれば入ろうかなと思ってるけど……」
「えぇ……、行き先がわからないまま歩くのは地獄だ……」
暑さで元気がなくなっていた春也の肩がさらに地面へと垂れ下がった。
「まあ、いいじゃん? 行き当たりばったりっていうのも面白そうじゃない?」
対照的に宇宙は軽い足取りで春也の背中を軽く叩く。
「春也も食べる?」
宇宙は茶色の揚げ菓子を春也に差し出した。胸に抱えている紙袋にも同様の揚げ菓子が詰まっている。名物の一つ、サーターアンダギーである。
「いや、いいよ」
「そう? 美味しいのに」
「本当にいいから。水分とられて喉乾くし」
「もったいないよね。出来立てで美味しいのにさ」
「なんでお前も食べてんだよ……」
ふと春也が反対側を見ると、雅人が同じものを頬張っていた。
「今まで冷たいものしか食べたことなかったけど、やっぱり出来立ては違うね!」
「ねー!」
二人はより美味しそうにその揚げ菓子を頬張る。
「……お前らを見てるだけで喉乾いてきたわ……」
そう言うと春也は辺りを見回した。
「お、自販機みっけ」
交差点の角にある自動販売機を見つけ、懐の財布を探りながら足早に向かった。何枚か小銭を入れて、冷えたお茶の絵の下にあるボタンを押すと、ガコン、という音とともに足元の取り出し口から目当ての物が出てくる姿が少し見えた。
それを手に取ろうと春也が腰を下ろし、まさに手に取ったその時、
「春也……か?」
聞き馴染みのある声が、身に覚えのある位置からそれは聞こえた。冷たいお茶を手のひらで感じながらゆっくりと声の聞こえる方へと顔を向ける。
「父さん……? どうしてここに?」
その顔は春也の父親であり、今はただの野球少年となってしまった死神のシュウその人であった。
二人が目を合わせて呆けていると、後ろから目を丸くした男女が小走りで近寄ってきた。
「シュウさん!? なんで?」
「春也のお父さん? 一人で来てる……って、そんな訳ないですよね」
「あ、ああ。確かに僕は――」
驚いているシュウの後ろから聞き覚えのない声が耳に入ってくる。
「あらあら、秀ちゃん立ち止まってどうしたの?」
「どうしたー、秀一? 何か珍しい物でも見つけたか?」
その声のする方へと三人は見やるがその顔ぶれに記憶はない。三十代くらいの男女がシュウの顔を覗き込んでいる。
「あ、いや……その、えっと……」
言葉に詰まるシュウを見て男性の方が春也たちの存在に気づいた。
「君たちは……この子と何かありましたか?」
その男性は春也の顔を覗きながら問いかけた。
「……ええと、秀一くんのご両親ですか?」
「ああ、私達はこの子の親ですが……まさか秀一、何か迷惑をかけたんじゃないだうな?」
「ち、違うよ。この人たちは知り合いだよ。偶然ここで会ったから驚いていただけだから……」
「ふむ、そうなのか? で、君たちはどこでうちの息子と?」
父親という男性は春也に問いかける。
話を合わせてくれと言わんばかりの視線をシュウから浴びせられた春也は、とある野球少年の話をした。
「俺は元々健太くんの友達なんです。少年団の試合を見に行って、その時に知り合ったんです」
特別、嘘はついていない。
「あー! 健太くんの! その繋がりでうちの息子とも仲良くしてくれているんだね。いつも息子がお世話になっております」
「い、いえ……そこまでのことは何も……」
深々と頭を下げられ戸惑う春也。隣にいた女性も同じように頭を下げた。
「あッ! 自己紹介がまだだったね。私は水原一平。この子の父親です。そしてこっちが――」
「母の明美です」
流れに沿って春也たちも自己紹介を始めた。
「鈴村春也です」
「私は宇宙です。私達が健太くんの友達でそこから知り合ったんです」
「寺下雅人です。僕はこの二人の友達で、そこから知り合った感じです」
三人とも丁寧に軽い挨拶をした。
「ご丁寧にどうも。秀ちゃんと仲良くしてくださりありがとうございます。ほら、この子ちょっとばかり大人びている所があるでしょう? そのせいか友達も少なくて心配なんですよ」
「ちょ、そういう話はしなくていいから!」
「はっはっはっ! 照れ隠しか? お父さんの知らないところで友達を作っていたなんてな! 私は嬉しいぞ!」
春也たちにとっては不思議な光景だった。呆気に取られ反応に困る御三方。
「ところで君たちは見た感じは高校生? もしかして修学旅行で来ているのかい?」
水原一平が春也たちに問いかける。
「そ、そうです。俺たちは翠陵学園の修学旅行で沖縄にきてます。そちらは家族旅行で?」
「そうとも! 私が久しぶりに長めの休暇を貰えたからと家族三人で旅行に行こうと思ってね。いやはや最近は仕事が忙しくて忙しくて寝る間も惜しんで連勤続き――」
「あなた? 子供たちの前でそういう話はよくありません!」
「いだだだだッ!?」
柔和な目をしているというのに旦那の脇腹をその妻は手に血管が浮き出るほどに強くつねっていた。
「あー……痛そう……」
目尻に涙を浮かべた姿を見て率直な感想が誰にも聞こえない程度の小声で呟いた。
春也がふと宇宙の方へ視線を移すと、おおかた同じ感想だろうか明らかに引きつった表情を浮かべていた。
数十秒は続いたそのお仕置きも、脇腹から手を離すことでようやく解放された。
「いやはや、みっともない所を見せてしまったね……」
「あなたが悪いんです」
「いやあ、手厳しい! って、君たちは修学旅行の真っ最中だったね。これ以上邪魔しては悪いから私たちはそろそろ行くよ」
「そうね。帰ってからもこの子と遊んでくれると嬉しいわ。本当に友達でいてくれてありがとうございます。では、失礼します」
そう言ってシュウの手を取り歩き出そうとしている。
「そっ、そういえばっ! 泊まっているホテルってどの辺? この近く?」
急に子供らしい口調で慌てながらも春也にシュウが問いかける。
「えっ? あ、ここよりも南の方に行った海浜公園近くのホテルだけど……?」
「そ、そうなんだ! じゃあまた!」
再度両親が軽く会釈をし、その場を去っていく。
春也が今のやり取りを不思議に思っていると、少し離れたところでシュウが振り向いて口を動かし、何かを言っているように見えた。
それをまた疑問に思い、首を傾げていると、
「わかりました。ではまた後で」
宇宙が神妙な面持ちで頷いていた。
「えっ、何が?」
状況が読めない春也は愚直に尋ねる。
「シュウさんもそっち方向のホテルに泊まる予定みたい。だから深夜にその海浜公園で落ち合おうだって」
「え、今そんなこと言ってたの?」
「言ってたというか読唇術? 両親に聞こえると良くないだろうから口パクだったと思うよ?」
「宇宙ちゃん凄いね! そんなことも出来るんだ!」
「えっへん! 少しは見直した、春也?」
腰に手を当てて胸を反らして鼻を高々と掲げていた。
「ま、まあ確かに凄いけど……」
「そんな素直に褒められると照れるなあ〜」
頬に手を当て腰をくねくねと躍らせる宇宙。
「というかそれより、夜にまあ会おうって」
「家族で来てるから話したい事も話せなかったし、その方が都合いいんじゃない?」
「それもそうか。雅人は……魔法があるから簡単にホテルの部屋から抜け出せるか。宇宙もいけるな?」
宇宙と雅人の二人が頷く。
「俺は……クラスのみんなに気を遣ってもらってるしなんとかなるな」
実際、今回の修学旅行での班決めではかなり春也に忖度されたメンバーになっていた。本来なら四人一組のルールになっているが、春也が直接頼んだ訳でもなくいつの間にかこの三人で決められていたのである。
「じゃあ、決まりだね。……ってそろそろ時間だよ! 早く集合場所に行かないとバスに遅れちゃうかも!」
雅人の腕時計は集合時間まであと数分の位置を示していた。
「急げ急げ!」
春也の掛け声と共に三人は駆け出した。
「…………で、だ。俺たちは真夜中の公園まで来たのはいいが……」
真夜中の海浜公園。晴れてはいるが月明かりはない、かろうじてぼんやりと灯る街灯だけが足元を照らしていた。少し遠くに目を向けばホテル等のビル群の部屋の明かりが少し見える。
春也と宇宙は公園のベンチに腰掛けていた。
「雅人はなんでまだ来てないんだ? あいつが一番簡単に抜け出せそうだろ」
「まあまあ、雅人くんはみんなと仲良しだしなかなか難しいんじゃない?」
「それ俺への当てつけ? はいはい、どうせ俺は友達が少ないですよーだ」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「ああ! もう、わかってるって! 部屋の奴らには、ちょっと散歩してくる、なんて言ったらすんなり協力してくれたしな。なんとか見回りの先生ガードを抜けてこれたのも同部屋の奴らのおかげだしな」
「みんな優しいね」
「そうだな、後でちゃんと礼を言わなきゃ。てか、沖縄の夜って暑くね? ずーっと湿度が高いせいで夜でも落ち着かないよ」
「本当に暑いの嫌いだよねー?」
「ああ、嫌い……息苦しくて堪らない……」
服の喉元をつまんで風を煽ぐ春也。効果はほとんどないだろうが、少しでも風を浴びていたいのである。
春也たちが公園に来て十数分が経った頃、見知った顔の男が小走りで近づいて来た。
「ごめん、二人とも。遅くなっちゃったね」
軽く息を切らしながら両手を膝に付いて呼吸を整える雅人。
「おう、でもまだ父さんも来てないし平気へーき」
「そ、そうなんだ。でも春也のお父さんが一番ここに来るのが大変そうだね」
「そうだな、今の家族も居るし。あの二人が寝付いたら来るんだろう」
息を整えた雅人は、真剣な眼差しで春也を見つめる。
「ど、どうした?」
その視線に気付いた春也は疑念を抱いた。
「いや、そのなんて言うのかな……。ほら、今春也が言ったように君のお父さんには今の家族がいるでしょ? そのご両親と春也は何も関係がないわけで。本人から見たらどんな気持ちなんだろうって……。あ、ちょっとデリカシーに欠ける発言だったね。謝るよ」
「いや、いいんだ」
顎を手を当てて深く考える春也。
「うーん、今言われて初めて考えたけど正直わからない。赤の他人には間違いないが……。なんて表現したらいいのか、不思議な気持ちだ」
春也にかける言葉が見つからない二人。近くの時計台から秒針を刻む音が耳に残る。生温かい風が頬を撫でて、呼吸が一段と深くなった。
「おや、どうかしたのかい? 三人とも黙って考え事か?」
時計の針が日付を跨ぐ少し前に、件の男が現れた。
「あ、父さん」
「寝てる隙をみてどうにかホテルを抜け出せて来れた。まあ、立ち話もあれだからそこの浜辺でも歩きながら少し話をしようか」
「……うん、俺も父さんに話しておく事がある」
四人は目を見合わせ、目と鼻の先にある砂浜に向かった。
穏やかな海のさざなみと砂を踏み締める音が耳に残る。
「まあ、何か色々と悩むこともあるだろうが、僕や母さんのことでお前が悩むことはない。お前の人生はお前だけのものだ。変に縛られる必要なんてない。お前がやりたい事をやればいいさ」
「うん……」
春也は小さく返事をし、立ち止まって深呼吸をした後、大きく伸びをした。
「うん、わかったよ。あくまでそれぞれの人生だ。もう少し、気を楽にしていくよ」
「……そうしてくれ。その方が親としては気分が良い」
暗がりでお互い見え辛かったが、頬が緩んでいることは確認できた。
「あっ、そうだシュウさん。話したかったことについてですが、私たちビダに遭遇しました」
「ッ!? それはどこで?」
緩んでいた表情が一気に強張る。
「例のショッピングモールだよ。気持ちの整理をするためにも俺が行こうって言ったんだ。そしたらその死神と愛衣に遭遇した」
「なにか、されなかったか……?」
「いや? 別に何も……」
「そ、そうか。それなら別にいいんだが……」
シュウは俯いて思索に耽る。何かが引っ掛かるようで、答えの出ない不安を募らせていく。
「何か気になりますか?」と、宇宙が訊いた。
「うん……いや、僕の考えすぎなのかも知れないが、これが本当に偶然なのかって……」
「これ、って言うのは? 俺たちが沖縄で再会したっていう話?」
「そうだ。夏のあの件以降、ソラちゃんとはたまに顔を合わせていたがこの旅行については教えていなかった。と言うより急に決まった話だった上、既に一度死んで転生したこの身をもう一度殺しに来るとは正直考え難い。あえて伝える必要はないと思っていた」
「まあ、父さんの護衛って言っても念の為だったしな」
「そうだね。周辺を見守っていたのも夏休みが終わった後の数日までだったし、私もシュウさんも互いに会話する機会はなかった」
シュウが宇宙の方へを見て頷く。
「それに加えて今の僕の身体では微細な魔力の変動に気付けない」
それを聞いて春也は宇宙へと尋ねる。
「そう、なのか……?」
いまいち理解が進まずに首を傾げる。
「シュウさんの言う通り、いくら魔法の知識があってもこの世界の人間――その上子どもの姿じゃ魔力の存在を感じるのは難しいと思うよ」
「な、なるほど……」
「まあ、そう言う事だ。時間を掛けて修練を積めば単純な魔法くらいは出来るようになるとは思うが……、まだまだ先の話だ。一朝一夕でどうにかなるものではないだろう」
数秒の沈黙が流れた後、
「すみません、答えを急かすようで悪いのですが僕から一つ訊きたい事があります」と、雅人がその沈黙を破った。
「どうぞ」
シュウは間髪入れずに短く返事をした。
「結論から言うと、僕たちがここで落ち合うように誰かが魔法で仕向けた。となるとの考えですか?」
シュウは問われた内容を否定せずに深く頷いた。
「察しがいいな。これはあくまで憶測に過ぎないが、奴とアイの名を聞いて推測できるのがそれだ。奴に恨まれる原因は思い当たる節がある。ま、悪いのはあっちなんだが……。それよりも重要なのは根本的な目的が僕に対する復讐だということ。あくまで僕に対する、ね」
言われて春也はハッとする。
「そうか……! あの時、愛衣が俺の命を狙ってきたのはその場に父さんが一緒にいたから! 先月の時は俺たち三人だけ……!」
「その通りだ春也。おそらく、奴らはお前を殺すこと自体は目的じゃない。僕ら二人が揃ったこの場で事を起こす可能性がある、と僕は踏んでいる」
「それってつまり……」言い淀んで言葉が詰まる宇宙。
「ここでこうして集まっているのも奴らの思惑通りってことになる」
四人の間に沈黙が流れる。
春也は自身の表情が強張るのが分かるほどに緊張していた。
生暖かい風が頬を撫で、額に滲む汗は乾いていかない。
この状況から起こせるアクションが春也には思いつかなかった。数秒だったか、あるいは数分だったろうか、体感では長く思えるその均衡を打ち破る一言が暗闇の中から聞こえた。
「おやおや、皆さんで集まって随分と賑やかで楽しそうですねぇ」
暗闇の奥から一度聞いた声が、一度見たその初老の姿が現れた。
「ビダ……! それに……」
その名を呼び、歯を強く噛み締める春也。
そしてその隣には勿論と表現すべきか、居て当然の人影も並んでいた。
「アイ……」
息を吐き切るように出たシュウの呼び掛けにその死神の少女は応えない。あまつさえ視線すら向けることはなかった。
「またまた偶然、とは言えませんねぇ、これは……」
不敵に笑うビダを前に春也は拳を強く握る。
誰も知らない。歴史にその名が刻まれぬ戦が今、静かに始まろうとしていた。