第三十三話 「新学期」
八月最終日。
それは、春也たちが通う学校の登校日であった。
夏休みが明けても尚、照り続ける日差しが止め処なく主張していた。
半袖のワイシャツの装いに加え、夏の暑さに顔をしかめている男女が校門をくぐると、その二人にある青年が声をかけた。
「おーい、春也に宇宙ちゃん。おはよう!」
「なんだ、雅人か。おはよう……」
気の抜けたような挨拶だった。
春也に続いて宇宙も、「おはよー……」と、どこか元気がない印象を雅人に与えた。
「全然元気がないね。そんなに暑いのが苦手だっけ?」
「うーん、何というかまあ、暑いのもあるんだけどね……」
「……?」
はっきりしない春也に首を傾げつつ、別の話題に切り替えた。
「結局、学校に通うのはいいんだけどさ。よく宇宙ちゃんが納得したよね」
二人にしか聞こえない程度の小さな声で話を進める。
「あぁ、それなんだけど実は――」
「朝もちょっとケンカしてたんだよねー。ちなみに私は今でも学校に行くのは反対。危険過ぎるもの」
「あはは……、なるほどねぇ。でも、二人がケンカするなんて僕にはあまり想像できないけどね」
「おいおい、俺たちを何だと思ってんだ?」
「それはもちろん、おしどり夫婦――」
「「それはない」」
「ほら、息ぴったり」
二人の呆れたため息が、互いに暑さをより感じさせた。
新学期の初日。
それは、ひと月ぶりに再開する学友もいれば、授業の再開に辟易する者など様々な感情が教室に溢れている日なのである。
しかし、それは普段の話。春也の教室は違った空気が流れていた。
「これは、何と言いますか、その……あれだね……」
重い空気に耐え兼ねた雅人が春也たちに話しかけた。
「まあ、仕方ないだろな」
春也の前の席、並びに雅人の左隣の席には誰も座っていない。そればかりか、机の上にはお悔やみの白い花が花瓶に生けてあった。
春也はその花瓶に視線送った。新調したらしく、緋色の目が怪しく映っていた。
それからしばらく経った後、ほとんどの席が埋まり静かな時が流れる中、一人の教員が教室に入ってきた。
「おはようございます。……さて、ホームルームを始める前に皆さんに伝えなくてはならない事があります」
教壇に立つと否や、重苦しい口調で朝の挨拶を始めた。
「えー、皆さんも既にご存知の方もいると思いますが、このクラスの神奈月亜紀乃さんが不幸な事故により亡くなってしまいました。突然の事で気持ちの整理がつかないかとは思います。ですが、神奈月さんが安らかに眠れるように祈ってあげて下さい。そして、彼女がいた事を忘れないでいましょう。それが、生きている人間たちにできる数少ない想いやりです」
珍しく担任教師の話をしっかりと聞いた春也は、目を閉じて静かに深呼吸をした。
「神奈月さんのご冥福をお祈りしまして、一分間の黙祷を捧げます。全員、起立」
教師の号令に合わせて生徒が立ち上がり、目を瞑った。
「黙祷」
ホームルーム前より静寂さを増して、黙祷が開始された。
春也も目を閉じて亜紀乃との出来事を想起していた。小学校、中学校そして高校と、それぞれ の記憶を一つひとつ辿っていく。それらを思い出す度に、己の情け無さと喪失感が肥大していった。あれから三週間ほど経って気持ちの整理も出来たと春也自身、そう考えていた。しかし、亜紀乃が居るはずだった空間を、過ごしているはずだった時間を目の当たりにして、心が揺れ動いていた。
「黙祷、終了。では、これからホームルームを始めます。まず授業の事だが――」
一分間の黙祷はあっという間に終わり、普段通りの朝が始まった。事を終えた後の教室からは誰かの啜り泣きすら大音量に聞こえた。
ホームルームが終わり、春也はそっと席を立った。
「トイレ行ってくる」
それだけを二人に言い、教室を後にした。
春也が教室を出てすぐに廊下で担任と目が合った。授業の準備をするために廊下に出たのだ。
「鈴村、ちょっといいか」
そのままトイレへと向かおうとした春也を担任教師が呼び止めた。特に逆らう理由もないので素直に春也は近付いた。
「何か用でもありますか?」
「まあ、……その、なんだ。お前たちが一年生の頃からクラス担任だったから少しは理解してるつもりだが……う」ーん、そうだな……」
なかなか煮え切らない姿に春也は、首を傾げる。
「正直、鈴村は学校に来ないんじゃないかと思っていたが……どうであれ、登校してくれただけでもホッとしている。私から元気付ける気の利いたことは言えんが……」
最後に春也の目をじっと見つめ、
「まあ、あまりやんちゃはするなよ」
それだけ言い残し、身を翻して廊下の奥へと消えていった。
「……ありがとうございます」
春也は誰にも聞こえない声で呟いてから厠へと向かった。
結局、その日の授業の全てにおいて春也は身が入らなかった。普通に、ごく自然に授業を受けなければいけないと頭では理解しているが、どうしても気持ちが目の前の黒板から逸らされてしまった。
上の空のまま時は流れ、気づけば帰りのホームルームが終わろうとしていた。
「――連絡は以上です。夜森、号令を」
「起立、礼」
学級委員の夜森の号令で学校の一日が締め括られた。
「お前らーもう夏休みじゃないんだから寄り道せずに帰るんだぞー」
そんなことを言って気の抜けた返事が何人から返って来るくらいにはクラスの雰囲気は良くなりつつあった。朝の重い空気と比べれば幾分がマシになっていた。
周囲と同様に春也も帰り支度をしていた時だった。意外な人物が声を掛けてきた。
「ちょっといいかしら?」
学級委員長の夜森だった。特徴的な長いポニーテールを揺らし、眼鏡の奥からは相変わらず鋭い視線を覗かせていた。
「いいけど、何かの手伝いとかは勘弁な」
「あなたに一度でも私の手伝いを頼んだ事があったかしら?……まあ、それだけ憎まれ口を言えるなら大丈夫そうね」
「お、珍しいな。夜森が心配してくれるなんて」
「別にあなたのためじゃないわよ」
そう言って夜森は、宇宙や雅人の方を一瞥した。
「私から何か言える立場じゃないけど、まあ、その……」
夜森は春也の目を見ながら歯切れが悪そうにしている。
「イメチェンも程々にね……」
返事を待たずして夜森は自分の席に戻って行った。
今日で二度目だった。
「さて、帰るぞー」
春也は机の横に掛けてあったカバンを手に取り、教室を後にしようとした。
「あッ、ちょっと待ってよー」
その背中を追うようにして宇宙も教室を出た。