第三十一話 「二者択一」
真夏の昼下がり、庭にある小さな池の水面はキラキラと照り返し、木々の葉はぴたりと止まって何も語らない。空を見上げれば幾つかの白い雲が揺蕩い、遠くには大きな入道雲が見えた。
春也はと言うと、午前の坐禅の真っ最中であった。修行を始めて十日が経つ今日まで、午前は坐禅、午後はトレーニングといった内容で一日を過ごしていた。
春也のこめかみに一筋の汗が流れた。
「――や。春也!」
「って雅人か。どうしたんだ?」
「どうしたじゃないよ。そろそろお昼ご飯だからさ」
「もうそんな時間か。何だか前より時間が経つのが早い気がする」
「すごい集中力だね。僕が後ろにいるのも気付かないくらいだもんね」
「おかげさまでな。一週間前に比べればかなり落ち着いて取り組めるようになってきたと思う。でも雅人の気配を感じ取れなかったのはある意味で注意力が足りていないとも言えるけど」
春也は坐禅の体勢を崩し、立ち上がった。
「まあその注意力は午後からの修行で身につくと思うよ」
「午後からの? 今日は筋トレじゃないのか?」
「うん、今日からはより実戦に近いトレーニングをするんだってさ」
「なるほど……やっと本格的になってきたって感じだな」
春也は両手の拳を握り、期待に胸を膨らませる。
「気合入ってるね」
「ああ! 少しでも早く戦えるようになりたいからさ」
「あはは、その意気だよ。あっ、そうだ。あれ訊くの忘れてた! 春也、食後のデザートはリンゴとドラゴンフルーツのどっちがいい?」
「え、何その組み合わせは……」
あまり聞き慣れない選択肢に疑問を隠しきれない春也。
「城元さんに聞いといてって言われたんだよ! で、春也はどっちがいいの?」
「えーっと、じゃあドラゴンフルーツで」
「ドラゴンフルーツね、オッケー。因みになんでそっちにしようと思ったの?」
「単純に食べたことなかったから……」
「え、そうなの!?」
雅人は、春也が今まで見たことがない程に驚嘆していた。
「いや、そこまで驚くことじゃないと思うけど……」
普通の商店では目にすることが少ないドラゴンフルーツ。初めから買う目的で店に訪れなければ購入する人は少ないのではないだろうか。日本に住んでいては食べたことがない人の方が多いのかもしれないのである。
「絶対食べた方がいいよ! 甘さが控えめで、程よい酸味があって凄い美味しいんだよ!」
「ま、雅人が好きなのは分かったから、早く飯を食いに行こうぜ」
「うん! あー、楽しみだなあ」
「それは、良かったですね……」
珍しくはしゃぐ雅人に少し引いた春也であった。
昼食を終えて、春也、雅人、善幸の三人はいつもの道場へと向かった。食後のデザートのドラゴンフルーツはと言うと、どうやら春也の好みには合わなかったようだ。「もう少し甘い方が俺は好き」その言葉が余程ショックだったのか、雅人は道場に着くまでの間、一言も喋ることはなかった。
「さて、今日からはより実戦に近い形式で修行を進めていく」
「はい、雅人から聞いています。と言っても何をするかまでは知りませんけど……」
「うむ、組み手じゃ」
「組み手……ですか?」
「先日、武術を身につけてもらうと話したじゃろ? それが組み手と言うわけじゃな」
「でも、柔道も空手もやったことないですけど」
当然の疑問。通常、組手は柔道や空手、剣道などで行う相対稽古を指し、技のキレを磨くためには必要不可欠な練習と言える。しかし、春也は武道に対する経験もなければ知見もない。全くの素人なのである。
「何も武術を一から学ぶわけではない。武術を身に付けると言っても相対する中で動きを読む訓練と身体の使い方を知ってもらう程度じゃ。武の流儀を知るには時間が足りんからの。ほれ、構えてみ」
そう言って善幸は春也と間合いを取り、腰を落として構えた。
「構えるって、どうすれば……」
「わしを真似るだけでよい」
「こう……ですか?」
春也は相対する構えと同じように腰を落とした。
「いい構えじゃ。ではそのままわしの攻撃を受け止めてみなさい」
「受け止めるって……」
慣れない指示に春也は困惑していた。
「安心せい。まずはゆっくりとやる。こういうのはフィーリングじゃよ、フィーリング」
春也は息を一つ、飲んでから、ゆっくりと迫る善幸の右脚に備えた。
「左手で受けてみるのじゃ」
春也は言われた通り、右脚の上段蹴り左手を遣い受け止める。
「うむ、それでよい。では次じゃ」
そう言うと善幸はゆっくりと右脚で蹴り上げる動作に移った。
「また同じ……?」
「同じではないぞ、魔力を乗せておる。ちゃんと踏ん張るんじゃぞ」
一見は先の蹴りと同じ。そのせいで春也は少しばかり油断したのだ。
「うぉあッ!?」
先程と同じく左腕で蹴りを受け止めた瞬間、春也の身体が大きく横に飛んだ。その勢いは壁に激突することで止まった。
「大丈夫!?」
雅人はすぐに春也の元に駆け寄った。目立った怪我はないが、身体を打ちつけた際の衝撃は相当なものだったのか簡単には起き上がることが出来なかった。
「へ、平気だ……完全に油断してた……。ハァ、ハァ……、善幸さん、これが純粋な魔力のみの力ってことですか?」
「その通り。体内に流れる魔力を外に押し出すような感覚じゃな。この魔力を制御出来るようになることがまず第一関門ってところじゃの」
魔力の衝撃波。春也に一度だけ身に覚えがあった。山奥の学校で魔法使いのマリーと対峙したあの時、無我夢中で発したのがこれなのである。今の春也に再現は出来ないが、絶対に出来ないと言うわけではない。そのきっかけが欲しいのである。
「それじゃ、魔力の凄さを味わったところで次、いってみようかの!」
「……はい!」
春也は起き上がり、善幸との組み手を続けた。当然、魔力を行使しない生身の攻防。そして、それを見守る雅人。徐々に慣れていくと、善幸の攻撃は少しずつ速くなっていった。
「……凄い……」
小さく雅人が嘆声を漏らした。
彼の脳裏によぎるのは、在りし日の自分の影。幼い頃から家業を継ぐために様々な訓練を積んで来た。目の前に繰り広げられている光景も、何度だって現在の春也の視点と同じものである。
やがて雅人はため息をつくように、
「少し妬いちゃうかも……」
純粋な尊敬と少しばかりの嫉妬が雅人の胸を躍らせた。
少年の頃の己と比べるとどうしようもなく明らかになる差。雅人には乏しい戦闘センスの差が如実に現れていく。
春也は、外野の声には気にも止めず、己が疾くなっていく様が楽しいのか、目の前のことにしか視界に入らなかった。
一方、雅人は、物凄い速さで自身を超えていく存在に釘付けであった。
気付けば夕食の刻。二人は少し惜しそうに道場を後にした。
「ここにいたんだ」
夕食を済ませて一刻ほどがすぎた頃、お手洗いに席を立った春也の帰りが遅いのが気になり家の中を探してい所であった。
「でも、なんで縁側に?」と、雅人が訊いた。
「今日は星が綺麗だったからな」
雅人が見上げると、淀みない空にはどこまでも続く闇の中に浮かび上がる数多の星々が胎動し、様々な輝きを放っていた。
「俺さ、ここに来てこれを初めて見た時、すげー感動した。天の川を肉眼で見れるって初めて知ったよ」
「あはは、本当に何もない超超超ど田舎の特権だからね」
「これだけ綺麗だと少しは気が紛れるよ」
「感傷に浸ってたわけ? 似合わないね」
「うっせーよ。俺だって気が沈むことだってあるからな」
「じゃあどうしたって言うのさ。何か悩み事?」
訊かれて春也は夜空を見上げた視線を落とし、神妙な面持ちへと変わっていった。
「……今日までの修行についてどう思った?」
「ん、割と順調だと思うよ? 今日なんか素人とは思えない程、良い動きだったし」
「いや、まあ、それはありがとう。でもそうじゃなくて、今日で修行を始めて十日経つのに、全然進歩してる気がしないんだ」
「そんな事ないと思うけど……」
事実、魔法の取得を目的としている春也にとって、今の状況は順調とは思い難いのである。一日でも早く魔法を修めたいと焦る気持ちを隠しきれないでいた。
「絶対、新学期までには修行を終わらせないと……」
「そうだね……って、夏休み明けたら学校行く気なの!?」
「ん? 当たり前だろ」
驚く雅人を不思議がる春也。
「いやだって、春也は命を狙われているんだよ!? そんな状況で学校に行くなんて危険過ぎるよ!」
「……雅人の気持ちも分かる。だからと言って学校を休むわけにもいかない」
「どうして!? いつからそんな真面目ちゃんになったの?」
「俺のために行くんじゃない。亜紀乃のためだよ」
「亜紀乃ちゃん……?」
雅人の大きな驚嘆の声が落ち着き、夜の静けさを取り戻していく。
「そう。あいつの代わり……には、なれないかもしれないけど、あいつの分まで俺達が楽しまなきゃいけないと思うんだ」
「でも……」
「大丈夫、助けてもらったこの命、決して無駄にはしない。それは約束する」
「……」
雅人は、目を閉じて数秒、気持ちの落とし所を探した。
「……わかった。亜紀乃ちゃんのためにも全力で学校生活をたのしもう」
「ありがとう、雅人。そうすれば亜紀乃も少しは報われるはずだ……」
沈黙が流れる。亡くなったばかりの故人を思い出すことは、本人たちが想像している以上に精神的に揺さぶられる。煌めく星々の元、いくつかのため息が零れ落ちた。
「ねぇ、春也。一つ聞いて良い?」
「……」
言葉にはせず、視線で肯定を伝えた。
「……春也は、魔法を会得して何をしたいの?」
「何を……したい……」
「魔法は手段であって目的ではないはず。春也はその先に何を見ているの?」
「俺は……」
再び訪れる沈黙。思わぬ不意打ちに春也は、すぐに答えを出せずにいた。
「その答えを明確にすることで一歩前に進めると僕は思う」
雅人の一言でさらに長考する。
長い長い思索の末、とある一つの選択肢に辿り着いた。
「俺は、――愛衣を助けたい。騙されて、操られている愛衣を正気に戻したいし、いつかの日に見たはずの笑顔が本物だったって信じたい。だから、俺は強くならなきゃいけないんだ」
「……オーケー春也。僕はその気持ちを尊重するよ」
「ありがとう、雅人」
そう言って春也はもう一度、夜空を見上げた。その瞳は、眼前に広がる星空よりも澄み渡っていた。
「春也ならきっと出来ると思うよ。……さあ、明日も早いしそろそろ寝ようか」
「そうだな」
二人は腰を上げ、その場を後にした。
背を向けた遥か彼方に流れ星が一つ、輝いて消えていった。
もっと速く書けるようなりたいです。