第二十八話 「そして抜錨」
「久しぶりだね。いや、はじめましてかな? 春也」
春也の知る、可憐で、愛らしく、天真爛漫ないとこの笹宮愛衣の影はない。黒衣を纏った、そう、レンの様な死神の装いをした愛衣が春也たちの目の前に現れたのだ。
春也に状況を呑み込める情報量ではなかった。亜紀乃が自身の魔力を暴走させて死に、その彼女の魂をレンは回収し、死神の恰好をした愛衣は宙に浮いている。その姿を見た一同は、それぞれが違う反応を見せた。
春也は訳がわからず困惑し、レンは目を丸くして驚いた様子だった。そして、この二人以上に動揺したのシュウだった。シュウはその死神から目が離せず、何かを口にしようと必死に動かしているが一音たりとも発することはなかった。しかし、この出来事に動じない者が一人いた。宇宙だ。彼女だけが、死神の恰好をした愛衣を見据えている。その目つきは、揺るがぬ覚悟を物語っていた。
数秒の静寂。
その後、他ならぬ愛衣が春也の方を向いて続けた。
「あれェ? びっくりして声も出ないのかなァ? せっかくキミの架空の妹が会いにきてあげたのにさァ。もう少し喜んだらどうなの?」
「いったい、何が、どうなって……?」
愛衣の扇状的な言い回しになっているのにも関わらず、春也はそこに違和感を覚えることはなかった。考える余裕などないのだ。
「あー、そういえばまだ魔法がかかったままだったね。ずっと騙されてたなんてかわいそー」
愛衣が、宇宙を一瞥すると、よく響き渡る音で指を鳴らした。
その瞬間、春也の脳内でとある変化が生じた。
「ぐぁああああ!」
春也は酷い頭痛に見舞われ、頭を両手で抱える。
「ほらほらほら! 記憶が消えていくのってどんな気持ちなの? ねぇ教えてよ! 教えてよ! アハハ!」
愛衣の言葉通り、いとこの愛衣と過ごした日々、交わした会話の全てを思い出しては霧散していく、この繰り返しだった。存在したはずの存在しない記憶が植え付けられていた異物感が、春也に吐き気を催させる。
楽しかったはずの、幸せだったはずの過去が偽りであったと、やっと理解したのだ。
しばらくして、いとこの笹宮愛衣は完全に消滅した。
そうして、記憶を塗り替えられていた事実だけが残った。
「どう? 落ち着いたかな?」
愛衣が嘲るような笑みを浮かべながら顔色を覗く。
全ての過去が精算され、春也は平静を取り戻しつつあった。
愛衣との思い出の全てが消失させられたが、その記憶が偽りであり、笹宮愛衣に騙されていたことはしっかりと理解している。なんという性格の良さだろうか、忘れたことを忘れさせてくれないのだ。
「少しまだ混乱しているが、だいぶ良くなってきた……」
そう言いながらゆっくりと立ち上がる春也。
「結局、お前はいったい誰なんだ?」
当然の疑問。はじめから血縁のいとこなんていなかったのだ。では目の前にいる少女はどこの誰なのか。
その疑問に、娘は簡潔に、シンプルに答えた。
「あたしは死神のアイ。あなたの腹違いの姉」
「腹違いの……姉?」
春也は、突然の情報にまた困惑させられる。
そこで、春也は少し前に聞いた話を思い出した。実の父、シュウの話だ。彼が、当時の妻と娘がいた病院を爆破した犯人として濡れ衣を着せられたという、あの話である。自身の妻と娘を含めた大量の患者を殺めた、史上最悪の凶悪犯として人知れず極刑を受けたのだ。アイの台詞通りならシュウの娘であるアイは生きていたことになる。聞いた話と目の前の事実がちぐはぐしていた。
春也はちらりと、シュウの方に目をやった。相変わらず驚いていて、開いた口が塞がらず、眼球が飛び出そうなほど開ききっていた。
「そう……そこにいる、お母さんを殺し、あたしまで殺そうとした殺人犯の娘よ! 凄い驚いているようだけど、残念だったわね! あたしはこの通り生きている! 悔しい? ねェ、悔しい⁉︎」
今にも斬りかかりそうな形相に、業火さえ消してしまうのでないかと思われるような怒号。
「あ、アイ……生きていたのか……?」
溜めて、溜めて、ようやく絞り出した一言。
「はッ! この期に及んでそれが演技のつもり? 迫真の演技力ね! 俳優にでもなった方がよかったんじゃない? 『家族殺しの名俳優』 お前にぴったりな肩書きだと思うわ!」
「い、いや僕は、殺してなんて……」
「あー、もういいよ、そういうの。つまらないから、やめてよね。安心してよ、別にお前を殺しに来たわけじゃないから」
シュウの言葉に全く聞く耳を持たない。
絶対に折れない決意。自身の考えを変えるつもりなど毛頭ないのだ。
「……では何をしにここへ来たのですか?」
ここでレンが恐る恐る訊いた。
「何しにって……あ! そういえば忘れてたわ! まずはこれをしなきゃいけないのよね」
危うく忘れかけていたことを思い出し、レンに向かって手を差し出す。
「……これは?」
差し出された手に疑問を持つレン。訳がわからず首を傾げた。
「その杖をこちらに渡しなさい」
「……え?」
アイが示したのはレンの持つ杖。その杖は亜紀乃の魂が封印されている物である。
満面の笑みとは相反し、凄みを効かせた声にも一同は驚いたが、それよりも不思議に思ったのはその内容だった。
レンはその言葉の意図が見えず困惑する。
「何故あなたに? これは私の仕事ですよ? いくらあなたでもこればかりは……」
「あの人からの命令よ。四の五の言わず渡しなさい。拒否権はないわ」
アイは食い気味で答える。
「……そうですか。ならば致し方ありません」
渋々、亜紀乃の魂が入った杖をアイに渡した。
あっさりと引き下がるレンを見て、アイはまた一段と口角を上げる。
「よし、これも手に入ったことだし……」
杖を受けるとや否や、黒衣のマントの内ポケットから何かを取り出した。それは赤黒い結晶の欠片だった。手のひらで転がせるようなサイズのそれは、その見た目には釣り合わないほどに存在感を放っていた。
アイはその禍々しい結晶をレンの方へと向けた。
「邪魔されたら面倒だし、もう帰っていいわよ。バイバーイ」
アイがそう言うと、赤黒い結晶がほのかに光を放つと、レンも似た光で身体が包まれていく。
「そのような物を何故私に……ッ!」
レンは最後まで言わせてもらえず、結晶と共に消え去った。
目の前の光景を唖然と見る春也。見兼ねた宇宙が説明を入れた。
「あれは転移魔法の触媒。簡単に言うと、この世界とわたし達の世界を行き来するためのアイテムみたいなもの。こっちに来る時は必ず帰りの分の結晶を一つ持つのが決まりになっているの」
宇宙の淡々とした説明を春也は、黙って聞いていた。宇宙はアイに視線を合わせて、続けた。
「この触媒、実は結構貴重なんだよ。誰がいつ、何のために使用したかしっかりと管理される。セキュリティも頑丈だから勝手に持ち出すことはほぼ不可能。つまり−−」
「わざわざ自分の物を使ったのか?」
春也が間髪入れずに続けた。宇宙もその結晶を所持しているのか気になったのだが、そこまでは口にしない。
「まさか、ちゃんとあたしが帰る分は持ってるわよ」
そう言ってアイは懐から二つ目の結晶を取り出した。確かにそれは、先ほどと同じ物であった。見せるだけ見せてすぐに懐に戻した。
「でもそんな物どうやって……?」
「さっき言ったじゃない。これは命令だって」
その言葉に孕んだ意味が春也にはわからない。
「でもこれからするのはあたしの意思」
そう言ってアイは何もない虚空に右手を広げた。左手にはあの杖を持っている。
すると、どこからか黒い戦斧が現れて、アイの右手に収まった。
「あたしはずっと、ずっと待っていたんだ。鈴村春也……そう、お前を殺してやるこの瞬間をねェ!」
自分の体躯以上の戦斧を取り回し、春也に斬りかかった。
「させない!」
それに反応した宇宙がすかさず、どこからか薙刀を取り出し、アイの一撃を受け止める。
「どんな気分なの、シュウ⁉︎ 小さな子供になって魔力も無くなって、愛する息子が殺されようとしている。こんなに楽しいショーはないでしょう⁉︎」
アイは剣戟を交わしている相手には視線を合わせず、刈り取る命だけを直視する。
大きな戦斧を片手で振り回すアイに対して宇宙は、両手で持つ薙刀で攻撃を受け止めるだけで精一杯だったのだ。アイが極度の興奮状態にあったことも要因の一つだろうが、それを抜きにしても二人の力量差は明らかだった。
繰り返される攻防を前に春也は唖然としていた。同時に、悔しさの念が心にまとわりついていた。人間の自分では何も成し得ないとわかっているからだ。
「く、あぁあああ!」
一方的な攻防の末、大勢を崩し、受け流しきれなくなった宇宙が大きく飛ばされた。
「宇宙、大丈夫か!」
春也はすぐに宇宙に駆け寄った。
「大丈夫……春也は下がってて……」
見れば宇宙の体は既に傷だらけであった。防ぎきれないダメージが蓄積し、立ち上がるだけで精一杯だった。
「……ごめん」
己の不甲斐なさで押しつぶされそうになって出た一言。それをどういう意味で受け取ったのか宇宙は、
「謝らないで……春也は何も悪くないから……」と言った。
「隙アリ!」
不意の衝撃。
反応できず春也は、蹴飛ばされ、脆くなった壁に叩きつけられた。悲鳴をあげる間もなく、全身に衝撃が渡った。
「春也!」
宇宙がその名前を叫ぶも体が言うことを聞かない。
「あんたはもう戦えるような状態じゃないわ、諦めなさい。あたし相手にここまでよく持ったわね。ほんの少しくらいは褒めてあげる」
「……あなたは勘違いをしている……シュウさんは人殺しでもないし、家族を裏切るような人じゃない」
宇宙は哀愁漂う眼差しでアイを諭す。
「あんたも同じ冗談を言うのね。盲目的に信じてればいいわ。どうせ、未来は過去にあった事実に基づいて成り立つのだから。そう、シュウに復讐するため目の前で鈴村春也を惨殺するという未来がね!」
「……全てあの男の言いなりという事なんだね。騙されてるとも知らずに」
「うるさい! シュウが殺した事実は何も変わらない! そこまで言うなら、護ってみなさいよ! 守り神なんでしょう⁉︎」
アイはそう言うと否や、戦斧と杖を消すようにどこかへと収納して、未だ立ち上がれずにいる春也へと駆け出した。
疾い。
その姿を宇宙は、目で追いかけるのがやっとの事だった。春也に至っては影を捉えることすら不可能であった。ただの人間では辿り着けない領域。まさに、神速。宇宙との応酬より倍近く速度が上がっていた。
春也は瞬く間もなく、顔を横から殴打された。
「ぶべぁッ!」
「ホラホラホラァ! 護ってみなさいよ! まあ、その体じゃ到底無理でしょうけどね!」
殴打、殴打、殴打。
右へ左へ、アイの拳が春也の顔を襲う。
「シュウ、その目に焼き付けるといいわ! 息子がゆっくり殺されていく様を!」
連打、連打、連打。
アイの攻撃は止まらない。その鉄拳と蹴りは、顔、肩、腹部、腿等の随所に叩き込まれた。
抵抗する力もなく、そのことごとくの威力が直接春也の身体に響いた。春也の意識は徐々に遠のいていった。
熱い。
意識が失いそうになるほど熱い。
俺は意識が飛ぶ寸前でなんとか耐えている状態だった。
服は焼け爛ただれ、ボロボロになり、身体は火傷や切り傷から血が流れている。
……結局、何もできない
悔しい。只々、悔しい。
何も守れない自分が憎い。
そして、何も知らない自分が憎い。
力さえあれば、全てを知っていればと、何度も何度も自分だけを責める。
自分に対する憎悪感だけが自我を保っていられた。
だが、心で叫んでも誰にも届かず、身体は動かない。
だんだんと眩んで行く視界の中、大きく天井へと伸びた火柱と充満する煙、二人の人影が霞んで見えた。
誰かに名前を呼ばれているような気がするのだが、やがて声は遠ざかる。
考えることも出来ないまま次第に周りが黒くなっていく。
周囲の景色が自分を突き放し、置き去りにしているようだった。
そして、やがてそれは突然にやって来る。遂に、眩んでいった視界から光が全て消え去った。
春也はやがて気を失い、倒れ伏せてしまった。宇宙が必死に名前を呼びかけるが当然、反応はない。
「あらぁ? もう終わりなの? 案外、早いのね。もう少し楽しめると思ったのに、残念ね」
そう言ってアイは、ゆっくりと倒れた春也に近づいた。
「や、やめろ!」
察したシュウは懇願するがそれでもアイは止まらない。
「いい気味だわぁ。最強の死神だった男がガキに成り下がってて見てるだけなんて」
近づきながら、またどこからか何も無い空間から戦斧を取り出した。
間合いに入るとアイは、戦斧を両手で持ち、大きく振り上げた。
「だけど、これでおしまいね。もうおやすみの時間。いい夢を見れるといいわね」
「「春也ァ!」」
宇宙とシュウがその名を叫ぶ。しかし、その思いも虚しく、掲げらた戦斧は春也の首を狙って振り下ろされる。
事が起こったのは、春也の首まであと数センチと迫ったその時だった。
ガキィン!
「ッ⁉︎」
その瞬間、アイが大きくのけぞった。戦斧が弾かれたのだ。結局、春也の首には届かず、無傷でいた。
どうして? 何が起こった?
アイの思考は停止し、目の前の現象が理解出来ずにいる。
そして、その回答をすぐに知ることになる。
「もしかして、春也ッ……!」
宇宙の声に反応するように、春也はゆっくりと立ち上がった。その顔の、その目を見てアイは、事象の原因を理解した。
「このタイミングで完全に目覚めたのね」
春也は、今までの傷が嘘だったように整然とし、その紅く燃える眼力は冷たく、静かな印象を与えた。
「……遅すぎた」
春也の第一声。二度目の覚醒であるが結局のところ、亜紀乃を救うことはできなかった。
「そうね。あり得ないけど、もし、もっと早くその力を使えていたらこの娘も助かったかもしれないわね。でも無理な話だわ。『神無月亜紀乃は己の魔力を暴走させ、瓦礫に潰されて死ぬ』という運命は絶対に覆らないから」
アイが亜紀乃の亡骸をチラリと見た。
死顔だけは綺麗に残っており、微かに笑っている様に見えた。
「……ごめんな」
後悔。春也の胸中に渦巻く後悔の念が、その言葉を発させた。
その様子を見てアイは、軽く舌打ちした。
「なに澄ました顔してるのよ。まさか、魔力を出せるからってあたしに勝ったつもり? その程度じゃ足元にも及ばないわ!」
駆ける。
アイが駆け出したのを視認すると、春也は防御の姿勢へと移った。
戦斧と共に迫り来る死神。それに対する恐怖心を春也は、持ち合わせていない。根拠は全くないが、防ぐ自信はあった。
刹那。
また、戦斧が春也に当たることはなかった。触れる直前で止まり、弾かれた。
「魔壁⁉︎ 遊園地で完全に壊したはず……ッ! もしや、無意識? 無意識に魔法を使っているというの?」
一番驚いたアイは攻撃後、数メートルの間合いを取った。
驚嘆したのは宇宙も同様だった。あの遊園地でシュウがかけた魔法が完全に消滅したことを知っていたからだ。
ではなぜ、春也は攻撃を防ぐ事ができたのか。考えられる答えたは一つ。春也自身が魔壁を作り出し、防いだことに他ならない。
「少しびっくりしたけど、その稚拙な魔壁でどこまで耐えられるかしらねッ!」
一息ついた後、アイはまたも戦斧で斬りかかる。
「ぐッ! くうぅ……」
体に直接当たってはいないものの、一撃の重みが衝撃として伝わってくるのだ。
死に物狂いで発現させた魔壁であり、状態を維持するだけで、他には何もできない。つまり、この魔法が破られた時、その全てが終わってしまうのである。
魔壁を継続させるのに一心不乱な春也に対してアイは、戦斧で薙ぎ払うだけでなく、電撃、火炎など、様々な魔法で攻撃を繰り返している。その度に、春也の魔壁は削られていった。
「そろそろもう限界なんじゃない?」
アイの言う通り、春也の魔力は限度を迎えつつあった。攻撃する術を知らない春也にはタイムリミットがある。ろくに魔力の扱い方も十分に知らないのだから、最初から勝負はついていたのだ。素人相手に生来の死神に勝てるワケがないのである。
「まだだ、まだ……」
「もう諦めた方がいいと思うけどね。生まれたての死神に勝ち目なんてないのよ」
アイは戦斧を体の右手で中段に構えた。
「これで、最後ッ!」
その構えのまま、戦斧を大きく薙ぎ払った。
春也はそれを受け止めようとするが、踏ん張りが効かず、そのまま吹っ飛ばされてしまった。
「ぐぁああああ!」
弾き飛ばされた先で宇宙とシュウが春也の身体を受け止めた。
「春也ッ! 大丈夫⁉︎」
「平気だ……まだ、やれる……」
焦燥したその眼差しに光はない。暗く紅い瞳は焦点が合わないが、一点のみを睨みつけていた。
「これ以上は無理だよ! 春也のことはわたしが守るから……」
宇宙は立ち上がろうとするも、四肢に力が入らず、崩れて座り込んでしまう。
「残念だけど、勝てる可能性は最初からゼロなのよ。決して覆らない差。その差を埋めるのは不可能に近い。あなた達三人には無理な話だったわけね」
アイは順番に春也、宇宙、シュウを一人ひとり見つめた。そして、戦斧を振り上げた。
「今度こそバイバイ、忌々しい弟くん」
アイが手にかけようとしたまさにその瞬間だった。
誰もが予想だにしない出来事。大穴中の大穴。
その人物は突然に、何もない空間から現れた。
「――四人いれば、取り敢えず負けではなくなるかもね?」
颯爽と現れたその人物に一同が驚きを隠せないでいる中、気にせず続けた。
「春也、大丈夫だったかい? とにかく、この場から逃げた方がよさそうだね」
「ま、雅人!?」
その人物とは、春也のクラスメイトであり、親友でもある寺下雅人だったのだ。
「ほら、掴まって! 早く!」
雅人が両手を差し伸べ、三人に促した。突然の展開に困惑するも、雅人に従いその手を掴んだ。
「これで引き分けだね」
雅人がそう言うと、四人の姿は忽然と消え去った。初めから誰もいなかったかのようにアイだけが、その場に残された。
「まさか、まさかの登場人物ね。これじゃ当分は手を出せないかしら……まあいいわ、この魂さえあればあたしの勝ちは揺るがないわ……くふふふ、アハハハハハハ!」
アイは、悪魔的な笑い声と共に懐から取り出したあの結晶を握って、死神の世界へと帰っていった。
そうして、業火に包まれたその空間に生きている者は誰もいなくなった。
一瞬の出来事だった。
雅人の手を掴んだ瞬間、目の前の景色は一変し、燃え盛るショッピングモールから深い山の中へと移り変わったのだ。春也は以前、これと似たような体験をしていた。あの魔法学校を訪ねた時である。その学校の校長であるマリーが用意した転移魔法によつて素早く別の場所へと移動した。しかし、似てはいるのだが、どうやら様子が違う。あの淀んだ赤黒い異質な空間を通った訳ではなく、本当に一瞬で移動してしまったのである。宇宙の話では、死神も守り神もあの空間を必ず通って転移しているらしいのだ。つまり、宇宙たちとマリーの使う魔法は根本的には同じである事にほかならない。その事実が宇宙とシュウの困惑を招き、悩ましていた。
「これはいったい、どういう事だい? 我々の知っている転移魔法とは事情が異なるようだが?」
初めに口を開いたのはシュウだった。体験した事の無い魔法を目の当たりにしたことによる興味が止まない。
「ただの転移魔法ですよ。まあ僕の一族がこの魔法を得意としていたので多少、様式が異なるかもしれませんけどね。それより、教え欲しいのはこちらも同じです。春也の事やあなた達の関係性、さっきまでの出来事を可能な範囲知りたいです」
雅人の要求に一同は顔を見合わせた。
声には出さなくとも三人の意見は一致していた。
「雅人は俺の命の恩人だからな。包み隠さず全て話すよ。それじゃあまずは――」
そうして、春也は静かに語り出した。自分が人と死神の混血であることや、守り神の宇宙の存在、魔法によって記憶を持ったまま人間の子供に転生させられてしまった父親、何者かによって殺されたはずの腹違いの姉に記憶を操作されていた事まで細かく説明した。
一通りの経緯を明示すると雅人は、
「なるほど。つまり、アイちゃんはその誰かによって騙されていて、いいように操られてる可能性が高いってことだね」
「ああ、そういうことになる」
シュウが応える。
「その人物や組織に心当たりはありますか?」と雅人がシュウに訊いた。
「もちろん、検討はついてる。おそらく、僕をこんな姿にした張本人にして、死神界の代表になった、エスペラという名の男だ」
聞き馴染みのない名称に対して春也は疑問に思うが、この場では口に出さない。
「そのエスペラって奴が全ての元凶なわけだな……こっちからアクションをかけられないのが歯痒い所ではある……」
そう言いながら立ち上がる春也。
「春也はもう歩ける?」と雅人か訊いた。
「ああ、なんとか」
万全ではないが、歩く体力だけは回復できた。
「宇宙さんも大丈夫そう?」
「わたしも大丈夫」
それを聞くと雅人は、
「よし、それじゃあここから移動しようか。ずっと何も無い山の中にいるのは危険だし」
確かに、現在いる場所は春也にはどこかも知らない深い山の中。近くに道路もなければけもの道すら見当たらない。
「移動ってここからどこへ行くんだ? てかまだちゃんとお前のことを聞いてないんだけど?」
「僕のこと?」
「そう、どうして雅人が魔法を使えるのかとか、宇宙や父さんのことを聞いて妙に納得してるとかな」
「ああ、そういうことね。ん〜、そうだあ。それは歩きながら話すよ。とりあえず行こうか、僕の家へ」
雅人は藪の中へと歩を進めた。何も目印など無いように見えるが、迷うことも、周囲を見渡すことも無く、単調に進めた。この先に人が住む家があるなど春也には到底、想像することができなかった。
「なあ、雅人。言っちゃあ悪いが本当にこんな所に家があるのか?」
「もちろんさ。あと数分だから頑張って」
「頑張ってって…………そろそろ教えてくれないか? 雅人の家のこと」
雅人は一息待って、
「そうだね。どこから話そうか……今から約四〇〇年ほど前、魔女熱狂の最盛期とも呼ばれる時代にある一人の強力な魔女がいました」
語り部となった雅人が背中越しに言葉を紡いでいく。
「魔女ブームの火付け役となった彼女は当然、魔女裁判にかけられ、処刑されることとなりました。しかし、命からがら逃げることに成功した彼女は、ヨーロッパからは遠く離れた島国に流れ着いたのです」
「そこで偶然出会ったのが……」
「そう、当時から極秘に皇族の護衛に務めてた寺下家だったってワケ」
「護衛?」
春也が間髪入れずに訊いた。それに雅人はすぐに応える。
「警察官でもSPでもない、有事の際以外は絶対に姿を見せることの無い影の護衛人。その存在を知る者は皇族と宮内庁の一部の人間のみ。それが僕たちの一族なんだ」
雅人の話は突飛なものであるはずにも関わらず、春也は簡単に納得した。
「なるほど、そうだったのか……」
小さな声がシュウから漏れた。誰にかけた言葉でもない、ほんの少しの独り言。
「ほら、もう着いたよ。ようこそ、僕の家へ」
深い森の中から急に現れた大きな家屋。まるで大名屋敷のような荘厳な佇まいは、見る者を圧倒させた。門からして、一目で年季の入っていることがわかるが、よく手入れされていた。
雅人が門の扉を金具が軋む音ともに開けると、驚く程に大きな庭、そして静謐で趣のある平屋。見渡しただけで土地の面積は数百坪で収まりそうもない。
雅人に導かれるまま、主屋の戸をくぐった。家の中は整然としていて、ワックスを塗ったばかりなのだろうか、床の板材が光を反射していた。
広い玄関で靴を整え、廊下の奥へと進んでいく。途中、幾つかの部屋を抜け、とある一室に辿り着いた。その部屋は十畳で、何も置いていない、何も無い空間だった。
雅人が隣の部屋から人数分の座布団を持ってくると、それぞれ座り、一息つくことが出来た。
「で、これからどうする?」
雅人の一言に春也は悩んだ。自分たちの敵となる男の動向や思考が全く読めないからだ。次の行動が分からない以上、迂闊に決めることが出来ない。
「しばらく、アイちゃんは来ない」
宇宙がきっぱりとそう言った。
「どうしてそう思った?」と、春也が訊いた。
「まず、あの鳥籠の杖――ああ、亜紀乃ちゃんの魂を入れたあの杖のことだよ――で、それを自分で回収したってことは持ち帰る必要があったってことになる」
「つまり、もう帰っていて、すぐに追いかけてくることはないって事?」
「たぶんね。帰りの分の触媒も持ってたみたいだし、もう元の世界に帰ってると思うよ」
「じゃあ、当分は襲って来る心配はないのか」
「いや、そうとも限らないんじゃない? 十分に警戒する必要があると思うけどな僕は」
雅人が否定した。
「同感だ。僕はこんな体だし、ずっと隠れてる訳にはいかないからな。またいつ現れるとも分からない」
一同が思考を巡らせた。エスペラとアイの動向を窺う術がないため、対策を練る事ができない。
「雅人、ここは安全なのか?」
「人に知覚されないよう結界を張ってあるから安全だけどそれがどうしたの?」
雅人が春也に聞き返した。
「……決まりだな。宇宙は父さんを護衛しててくれないか? 離れた場所からで良い」
「わかった。でも春也はどうするの?」
「俺は……」
宇宙に訊かれて春也は雅人と目を合わせた。
そして、覚悟したような真剣な眼差しで、
「夏休みの間だけでも良い、雅人は俺に魔法を教えてほしい。お願いします」
頭を下げる春也に一瞬驚いたが、すぐに返答した。
「オーケー春也。僕は一向に構わないんだけど、そちらお二人としてはどうなんです?」
「そうだね、本来ならわたしかシュウさんから教わるのが一番だけど……」
「できれば僕が一から教えたいところだけど、正直それは現実的じゃない。春也が寺下家に隠れていたとして、定期的に僕が来るのも難しい。春也の提案が最適解なのかもしれないな」
春也は自分の案が通ったことにホッと胸を撫で下ろす。
「でも、春也。本気なんだな? 簡単な事じゃないぞ」
最後の問いかけに春也は、
「もちろん、覚悟の上だよ。戦える様にならなきゃ俺たちに、アイに未来はない」
戦う覚悟。その身に降りかかる火の粉は全て己で振り払うという決意。
「了解だ。お前の力を信じてみることにする。必ず物にしろよ」
「うん、父さんも気をつけて」
目と目を合わせて頷く二人。
「よし、ソラちゃん。僕たちはそろそろ行こうか」
「そうですね、帰らないと今のご家族が心配してるでしょうし」
「大丈夫だとは思うが一応、健太も気になるからな」
帰るために二人は立ち上がる。
「宇宙、父さんを頼んだ」
「春也も頑張って」
短いやりとり。時間にすれば一瞬であるが、その質量は当人達には大きく、密度の高いものであった。
「邪魔したな、助けてくれてありがとう。じゃあまた……」
「雅人くんありがとうね」
二人はそれだけ言い残し、部屋を後にした。
「さて、春也。早速だけ……ど?」
「すぅ……すぅ……」
宇宙とシュウが帰って数秒後だった。雅人の知らない間に呼びかけられた本人は微かな寝息を立てて横たわっていた。
「……お疲れ様」
体力と魔力の限界を迎えた春也は、静かに泥のように眠った。
かくして、衝撃の一日が終わり、長い夏休みの後半が幕を開けるのだった。