モノカキ彼女の習性
「よし、そこでバク転だよ上田くん」
「無理言わないでくださいよ、芳野さん」
きらきらと目を輝かせて言う芳野へ、上田は気力の抜け落ちた顔を向けて言った。
上田の背後には階段。興奮気味の芳野が指さす先は、その階段である。
いくら上田が運動できるといってもそれは学生の域であって、間違っても超人の域に達しているわけではない。
「せめて段差のないところで」
「じゃあ、教室で」
上田の要求にこたえた彼女が次に指さしたのは、教室。
まぁ、狭くても階段よりは。
そう思って頷いた上田だったが、教室に入った途端に「さぁどうぞ!」と差し出されたソレに顔を引きつらせた。
「芳野さん、それはなんですか?」
「机です」
「ですよね」
まるで中学英語のような会話をしてしまう。
芳野は教室に入ると迷わず一つの机を上田のほうに持ってきた。つまりはそういうことだ。
「ささ、机の上で宙返りしてご覧」
「芳野さん、さっきの俺の言葉聞いてた?」
「段差が嫌だったんだよね? 机の上は平らだよ」
「うん、平らだね。でも危険度は限りなく同じだよね」
平らであることと引き換えに不安定さが加えられた。
どう説明すればこの事態を回避できるのかを必死で考える上田に、芳野は先程までの興奮した目を収めて「分かってないな上田くんは!」と拳を握る。
「あのね、私はスリルが欲しいの!」
「今回のは芳野さんの想像で補う、とかダメなの」
「ダメ。全然かけない」
彼女の言う「かく」というのは小説を書くことだ。なんでも、実物を見た方が断然筆が進むのだそうだ。
何故かそのスタント役に上田が抜擢されたわけだが、彼女の書く文章はアクションが多い。自然と上田へ要求されるものも、身体を張ることになる。
結局、最後には押しに弱い上田は彼女の要求を呑むことになるのだが。
***
「……あのさ、書くジャンルを変えてみない?」
「え、例えば何に」
ぐったりとして机に伏す上田の横で、芳野は素早くペン先を動かしている。
無事、打撲だけですんだアクションを終えた今、上田はここに残る必要はない。ただ、次回からの危険度を少しでも下げておく努力をすべく交渉を試みた。
しかし肝心な芳野の返事はどことなく上の空である。
それでも出来るだけ危険そうでないジャンルを考える上田は必死だ。
ホラーは駄目だ。怪人から逃れるために窓から飛び降りろと言われかねない。
ファンタジーも駄目だ。想像力にやや欠ける彼女が現実に存在しないものを創造できるわけがない。
コメディーは……一人漫才は、かなり厳しい。
いろいろ考えた末、一番安全で無難なものを思いついた。
「そう、恋愛は?」
「…………恋愛?」
「うん。確か、一度も書いてないよな。新しいジャンルに挑戦することもいいと思うけど」
「恋愛は、駄目。かけない」
「どうして」
意外とすぐに返事が来て、思わず尋ねる。
すると芳野はさっきまで笑っていた顔をしかめ、上田を見つめる……というより視線がきつすぎて睨んでいるように見える。
その視線に内心冷や汗をかくが、芳野は気にした様子もなく小さく呟いた。
「あのね、私は実物を見ないと書けない人なの」
「うん、知ってる」
「だからスタント役は上田くんにお願いした」
「そうだね」
「…………わからない?」
「え?」
彼女の言葉を聞いて素直に頷いていると、突然彼女は立ち上がり、荷物を片付ける。
突然のことに呆然としつつ不味いことを言ってしまったかと反省しながら上田も慌てて自分のカバンを回収する。
一足先に帰り支度を終えた芳野に焦る。
が、彼女は教室から飛び出す前にくるりと上田の方を向く。相変わらず険しい表情だったが、どこか吹っ切れたような顔をしている。
何を言われるのかと一瞬身構えた上田だったが、聞こえてきた言葉に唖然とする。
「私が言いたいのはね、恋愛の話を書くとして、それを目の前で実演してみせる上田くんを見るのが嫌だって言いたいのよ」
「…………え」
「相手の女の子を可愛く書ける自信、ないから」
それだけ言うと挨拶もなしに芳野は帰ってしまった。結構音を立てているから、今頃廊下を全速力で走っているのかもしれない。
とりあえず、フリーズ状態が解けた上田が真っ先に思ったことは、書き手も実体験すればもっといい文章が書けるんじゃないか、ということだった。