月の天女を見た者は
その王国には美しい姫君がいた。
非常に美しい姫君だった。あまりに美しかったために、生まれた時から高い塔の上に大事に大事に仕舞っておかれて、一歩も外に出たことがないのだった。
姫君の世話をするしもべたちはみな目を潰されており、姫君をその目で見た者がいれば必ず国王に殺されていた。姫君に余計な口をきく者も殺されていた。何より、姫君を外に連れ出そうとした者には、最もおぞましい死に方での処刑が下されていた。
なので姫君は、白く淡い絹のレースに包まれた塔の部屋に一人、話し相手もなく暮らしていた。
「退屈だ」
姫君はよく窓から外を眺めていた。とはいえ、ここの窓から見えるものと言えば、塔を取り囲む鬱蒼とした高木と、夜空に浮かぶ銀色の月ばかりだった。
「まったく狂気の沙汰だな。たかが娘の美貌ごときにこれほどの処置など」
姫君は冷静だった。普通の人間ならば気が狂ってもおかしくない育ち方をしていながら、冴え冴えとした頭でものを考え、超然としてそこにいた。
それは、夜色を溶かし込んだような流れる黒髪に、絹のレースよりもなお滑らかな白い肌に、藍地に金の散る瑠璃の石を嵌め込んだ大粒の瞳に、人ならざるものの血が入っているからだろうか。
彼女の母は天女である。天女だった、と言うべきか。
母は月の世界から地上へ降りてきた。湖で水浴びをするためだ。天女は月光を編んだ大きなヴェールを纏っていて、それで空を舞い、地上から月を行き来できた。
ところが、ちょうど母が水浴びをしているその時、湖のほとりを通りがかった国王が彼女を目にしてしまった。この世のものならぬ天女の美貌に、国王はたちまち魂を囚われた。そして、よくある話、木の枝にかけてあったヴェールを奪い、月に帰れなくなった母を攫って妃にしたというわけである。
気を狂わされたのだ、と国王は言ったらしい。
月の天女の神々しい美しさを直視してしまうと、地上の卑俗な人間は頭がおかしくなるのだと。
「なんとまあよくある手口だ。自分の欲望を抑えられなかった過ちを相手のせいにする」
そうして生まれた娘は母と瓜二つの容姿をしていた。国王は当然、この娘も人目に触れぬよう閉じ込めた。あの美貌を見た者は気が狂うのだ、あの存在に触れた者は頭がおかしくなるのだ、だから決して誰も近付いてはいけないと。
「馬鹿馬鹿しい」
月夜の窓辺にひとりごとが零れる。
「見た目の美しさごときで正気を失うなど、あるものか」
姫君の部屋には鏡がある。なので自分の顔は知っている。確かに、幼い頃の記憶にある、今は亡き母とそっくりの顔だ。とはいえ、あまりにも見慣れていて何とも思えない。
それどころか姫君は——自分が美しいらしい、ということすら疑っている。
何せ生きている者で彼女の容姿を知る者は国王の他にいない。うっかり彼女を目にした者がいてもすぐに殺されるので、姫君は自分の容姿の評を聞いたことがない。
母が月の天女であることは信じている。母自身がそう娘に語っていたし、姫君の目からしても、母は明らかに他の人間とは違う存在だった。月の世界の暮らしや人々、不思議な力や術のことを語って聞かせては、いつもこう嘆いていた。
ヴェールさえあれば。あのヴェールさえあれば帰れるのに。
姫君と同じく閉じ込められていた母は、失意のうちに亡くなった。
その後の国王の狂乱ぶりは凄まじかった。なので、国王が母を異常に愛していたのは本当だろう。だがそれは、所詮、国王だけなのではないか。母を、いや、母の容姿を愛しすぎたあまり、「あの美貌は人を狂わせる」と言って凶行に走っているだけではないか。
「そんな男の戯言に付き合ってられるか」
姫君は国王を父と思ったことはない。姫君の心はいつも、窓から見える月にあった。母がついに帰ることの出来なかった、しらじらとした銀色の世界。
「私こそは月に帰って、この地上のつまらぬ人生を捨ててやる」
しかし悲しいかな、姫君ひとりに出来ることは何もなかった。
そんな姫君の運命が動き始めたのは、とある夜のこと。
いつものように月を見上げて物思いにふけっていると、窓をこつ、こつ、と何かが叩く音がした。風で飛ばされた小石が当たっているのか、鳥がくちばしで突いているのかと、姫君ははじめ考えた。
ところが、それは石でも鳥でもなかった。突然、強い力で窓枠を殴りつける音がして、鍵が壊れた。そして、目を丸くしている姫君の前で窓がひとりでに開き、人影が部屋の中へと滑り込んだ。
「やったぜ。当たりだ」
それは背の高い少年だった。闇に紛れる地味な装束を着て、手に金属の鉤爪をつけた少年は、姫君の部屋に降り立った。
見たところ彼は姫君と同じぐらいの年頃だ。少年はすぐに姫君に気付いた。
「よう、ここに王様の一番の宝物があるって聞いたんだけど……」
絨毯に座ったままの姫君に近付いて、少年は途中で言葉を失った。そして、固まって身じろぎもせず彼の出方を伺っている姫君へ、手を伸ばして髪に触れた。
「この艶のある見事な長い髪。これを切ったら高く売れそうだ」
次に、頬に手を添えて、瞳をまじまじと覗き込んだ。
「この宝石みたいに輝く瞳。くり抜いたら高く売れそうだ」
次に、彼女の細い肩から腕へと手を滑らせた。
「この触り心地のいい白い肌。皮を剥いだら——」
「もういい、もういい。これ以上私に触れたら死刑だぞ」
姫君が手を振り払うと、少年は逆らわずに一歩退いた。彼が大人しく言うことを聞くのを見て、姫君はひとまず尋問を始めた。
「貴様、盗人か。どうやって窓のあるところまで塔を登ってきた」
「この鉤爪と、高い木のおかげさ。俺は高い所によじ登るのが得意なんだ。それを武器にして盗みを働いている。周りの木に登って窓の近くまで来て、鉤爪を窓枠に引っ掛けたら、あとは侵入するだけだ」
簡単なことのように話す少年の言葉を聞いて、姫君は窓の外へ視線を向けた。塔は非常に高く、地上に咲く花はかすかな点にしか見えないほど高い。
どこか得意げな少年は、くるりと鉤爪を回転させた。
「他の奴らがなんで出来ないのか分かんねえな。でも、それだけ俺が優秀ってことだろ」
「他の泥棒連中がここに手を出さないのは、露見すれば王に処刑されるからだ」
姫君は、この勇敢ながらも軽薄な少年は、自分の危険を顧みる頭が足りないからここに来たのだと思って、親切にそう教えてやった。しかし、少年は驚きも恐れもしなかった。
「だから来た。王様の一番の宝物なら、一番高く売れるはずだ。俺は無一文の孤児だけど、いつか山ほどの財産が欲しい。この国で一番金持ちになりたい」
何の迷いもなくそう宣言してから、少年はまじまじと姫君を眺めた。
「でも……その宝物がお姫様だとは。これじゃ持ち出せないな。俺一人なら窓から登り降りできるが、あんたを連れて出るのは無理だ」
当てが外れた少年は、肩をすくめて「無駄骨だったかな」と呟く。そして、窓に足をかけて出て行こうとする少年を、姫君はとっさに引き留めた。
「待て。それならば、私が宝物庫の場所や、価値の高い財宝を教えてやる。私は塔から出られないが、王族だから知識としては知っている。盗みやすい経路や方法も教えてやれるぞ」
少年は暗い色の目をぱちりと瞬かせた。
「いいのか? 俺にそんなこと教えちゃって。お姫様のうちの財産だろ」
「私はこの塔を出たい。お前に山ほどの財産をくれてやる。だから私に協力しろ」
姫君は少年の前に立ち、窓の外、紺碧の空に輝く月を手で示して言った。
「いずれ、お前にはヴェールを盗み出してほしい。きっと王がどこかに隠している、月光を編んだヴェールだ。それさえあれば、私は月に帰れるのだ」
白銀のさやかな月光に照らされる姫君をぼんやりと見ながら、少年は尋ねた。
「お姫様は月から来たのか」
「私は月の天女の娘だ。地上の人間ではない」
少年は理解したのかしていないのか、ふうん、と気のない相槌をして、それから無邪気に笑った。
「いいぜ。たんまり金銀財宝をいただいてから、最後には王様の一番の宝物を盗み出してやろう」
そう姫君と約束して、少年は窓の外の夜闇に消えた。
少年を見送ると、部屋には再び静寂が訪れた。
姫君はぽつりと呟いた。
「なんだ。やはり、私を見ても気が狂うなどということはないのだ」
財産を持つことにしか興味がないらしい少年は、姫君の美貌などには目もくれなかった。ただ、姫君の髪や瞳や肌が、売ったらどれほど金になるかと勘定しただけだった。姫君の美しさに魅入られる気配などみじんも感じられない。
姫君は少年を信頼した。
目的のはっきりした人間とは手を組みやすい。それも、正気の人間とは。
それに——自分では気付いていなかったが、姫君は、長い幽閉暮らしの中で初めて、まともに話の通じる相手ができたことが嬉しかったのだった。
それから少年は、たびたび塔の姫君を訪れた。
少年はいつも意気揚々と戦果を報告した。
「きらきらした宝石を、籠いっぱい盗んでやった」
「色とりどりの布や織物を、こっそり馬に乗せて運び出してやった」
「宝物庫の古い剣や鎧や王冠を、手入れの職人のふりをして持ち出してやった」
盗みの手口は大胆で、少年の手際は素晴らしく、一度も仕損じなかった。
姫君は、少年の盗みのせいで宮廷が大騒ぎになっていることを、使用人たちの噂話に聞き耳を立てて知っていた。姫君は大変満足して少年を迎えた。
「お前のおかげで宮廷はめちゃくちゃだ。とてもいい気味だ。こっちの塔のことになど気が回らなくなって、見張りの者たちも減るかもしれないな」
「そういえば、どうしてお姫様はここに閉じ込められてるんだ?」
少年が、白く柔らかな絹のレースに囲まれた部屋を見回しながら尋ねると、姫君は心底うんざりした調子で答えた。
「くだらない話だぞ。私が母譲りの美貌を持っていて、その美しさが人を狂わせるから、こうして閉じ込めておかなければならないそうだ」
それを聞いた少年はやはり、ふうん、と、考えの読めない暗い瞳を瞬かせて相槌を返した。
「いったいどうやって狂っちまうんだろうなあ」
少年の呟きに、姫君はすぐに返答した。
「そんなもの、王を見ていれば分かる。あれはいい見本だ。母の美貌に狂った男の姿だ。それも自分勝手にな」
姫君の言う通り、国王は気が狂っていたらしい。
最愛の妃が亡くなってちょうど十年目の日だった。姫君は、国王が妃と出会った時と同じくらいの年頃に育っていた。
国王は、娘である姫君を次の妃にすると宣言した。
狂気に染まった国王を、臣下の誰も諫めることができなかった。いや、非難の声を上げた者はいたが、すみやかに頭と胴体を切り離された。結婚式の段取りは速やかに決められていった。姫君の意向が尋ねられることなく。
次に少年が塔を訪れた夜、姫君は彼に依頼した。
「ヴェールを盗み出してくれ。月光を編んだヴェールだ。どこにあるのか、私には分からない。だがどうか盗み出してくれ。一刻も早く」
こんな無理難題も、少年は無邪気に笑って引き受けた。
「いいぜ。お姫様の頼みだからな」
これまで一度も失敗したことのない少年の、堂々と構えた姿勢は頼もしかった。姫君は、自分でも知らず、そんな少年の態度に安堵していた。
だが、賢明で慎重な姫君は、さっそく盗みへ向かおうとする少年を「ああ、待ってくれ」と引き留めた。
姫君は部屋の隅から、小型のランプを持ってきた。水差しのような形をした金のオイルランプに、姫君がさっと手をかざすと、注ぎ口のようなところに小さな赤い火がぽっと灯った。
「この火を伴って行け。お前が人に見つからない、安全な通路を選べるように、道しるべになってくれるはずだ。月の特別な力でつけた火だから、地上の物を燃やすことはできないが、やけどの恐れもない」
そう流れるように説明する姫君に、少年は珍しく目を丸くして、感心したように嘆息した。
「驚いた。本当に月の人間なんだな」
「何だと。疑っていたのか。ずっとそう言っていただろう」
少年にオイルランプを手渡しつつ、姫君はやや機嫌を損ねたふうに眉を寄せた。物分かりの悪い子どもに言い聞かせるように、滔々と語る。
「月の住人は地上にはない力や術が使えるのだ。月光のヴェールも、そうした月の技術で編まれた。そうやって出来た物は、地上の人間に対して使っても効果がない代わりに、地上の人間の手では破いたり燃やしたりできないのだ。遠くに捨てても、土の中に埋めても、持ち主の所へとふわふわ飛んで戻ってくるらしい。だから王は絶対に、ヴェールを今も持っていて、厳重に管理しているはずだ」
そして、少年の肩を両手で掴むと、まるで巫女が神託でも授けるように、冷たく澄んだ声でこう約束した。
「私が月に帰ったら、この力で、お前のためにありったけの祝福をやろう。お前が望むだけの財産、名誉、地位、あるいは、家庭を持って平穏に長寿に暮らす幸福をやろう。お前が願うものを何でもやる」
少年は自分の肩に触れる姫君のほっそりとした手に目を落として「何でも?」と繰り返した。姫君は己の力を誇るように頷いてみせた。
「好みの美男美女もどっさり与えてやれるぞ」
「そっちの興味はねえな」
くすくす笑った少年は、「じゃあお姫様、待っていてくれ」と言い残して、夜の闇へ溶け込むように窓から外へ消えていった。
姫君は真っ白な絹のレースの部屋でひとり、月を眺めて少年を待った。静かな夜だった。長い夜だった。
あの少年が仕損じていたらどうしようか。姫君はあれこれ思い巡らした。王宮の衛兵に捕らえられて、拷問されてはいないか。殺されてしまってはいないか。
——そもそも、彼は本当に姫君の願いを叶えてくれるだろうか。今更そんな懸念さえ、姫君の頭をもたげた。
今まで姫君は少年には宝物のありかを教えてやって、彼は十分に財産を手にしたはずだ。しかし、月光のヴェールを盗むことは、やはり今までとは比べ物にならない難題であるし、少年自身にとっては何の得もない。金持ちになることにしか興味のないあの少年が、そんなことをしてくれるだろうか。
夜明けはまだ遠く、姫君はいつまでも天球の頂点を動かないように見える月の白い顔を見上げて、焦りを募らせていった。
しかし、待ち人は帰ってきた。
「姫様、姫様」
こつ、こつ、と窓を何かが叩く音がして、鍵がひとりでに開いた。
そして夜闇の中から、小さなオイルランプの赤い火がぽっと現れ、あの少年の笑顔がひょっこり現れたので、姫君の不安は消え去り、深いため息を吐いた。
彼を部屋に迎える姫君に、少年は手に持っていたものを広げて見せた。
「これがきっと、お姫様が言ってた月光のヴェールだ。綺麗だろ」
それは確かに、この世のものとは思えない美しさをしていた。透き通ったヴェールだった。暗がりに薄く白く浮かび上がり、金の光がきらきらと輝く。
月光を編んで出来た特別なヴェールを、姫君は静かに感じ入りながら受け取った。触れると絹よりも滑らかで、持ち上げると鳥の羽根よりも軽やかだった。
少年はやり遂げたのだ。姫君は、少年の手腕や信用を疑った自分をやや後ろめたく思いながら、感服して尋ねた。
「どうやって盗み出したんだ」
「王様を殺した」
少年は、いとも簡単にそう言った。
「考えてみたんだ。俺が、何があっても失くしたくない、誰にもありかを悟らせちゃいけない物を隠すなら、どこに隠すかって。俺は、ヴェールみたいな薄い布を隠すなら、肌身離さず四六時中、死ぬまで身に付けているね」
ひらひらと少年が指につまんだ何かを揺らす。月光の下でよく見るとそれは、血の付いた布切れだった。それも、まだ新鮮な血の。
「服の裏に縫い付けてあった」
姫君はしばし押し黙った。しかし、わずかに思ったことを飲み込むと、彼女なりの心からの感謝を込めて、少年に告げた。
「礼を言う。——ありがとう」
少年はやはり笑って「礼には及ばねえさ」と返した。
そして、ついに姫君は、ヴェールを自分に被せた。足元に届くほどの大きなヴェールは、姫君の頭から背中、ふくらはぎまでをすっぽりと覆い、きらきらと姫君の美貌を引き立てた。透き通るような月光の輝きが纏わりつく、夜色の髪、白い肌、瑠璃の瞳の眼差し。
少年が見つめる目の前で、姫君は窓の枠に足をかけ、怖気づく心を鎮めてから、意を決して外へと飛び出した。
果たして、姫君の身は夜空にふわりと浮いた。
月光のヴェールは本物だった。姫君は、塔の部屋とは比べようもなく広々とした空中を舞いながら、胸に押し寄せる感激に身を震わせた。
ドレスの裾から伸びるすらりとした脚を回して、軽やかに後ろを振り返ると、部屋の窓から姫君を眺めている少年に「見ろ! ははは!」と己の姿を見せつける。玲瓏とした冷ややかな顔立ちにも喜びがあふれ、頬は嬉しさに紅く染まっていた。
私は月の人間だ。私はまさしく月の天女なのだ!
喜び舞う姫君を、ただ黙って見上げていた少年は、ふいに、窓から身を乗り出してある方角を指さした。
「湖に行かないか。たぶん、お姫様の母親が水浴びをした湖が、ここのすぐ近くにあるんだ。とても綺麗だし人気もないぜ」
姫君はそれを聞いて考えた。ヴェールを手に入れたらすぐにでも月に帰るつもりでいたが、確かに、せっかくだから地上の景色も見ておきたい。そして、母から話に聞いたこともある件の湖は、月の天女が水浴びをしにやって来るほどなのだから、きっと素晴らしい場所に違いない。姫君は提案に乗った。
塔から地上に降り、オイルランプを片手に道案内する少年を、姫君は空からふわふわと追った。すると、ある地点で地を覆う森が開けて、水の澄んだ清らかな湖が姿を現した。
手招きする少年に従って、姫君は湖のほとりに降り立った。神聖な静けさをたたえる湖を見渡して、姫君は胸に何とも言い表せない気持ちが広がった。
「ここで母上が」
呟いた姫君は、湖の面に大きく浮かんだ月の反射を見つめた。月の人々も、この湖に映った見事な月の姿に、この場所を近しく感じて降り立ったのだろうか。
「綺麗だな」
後ろにいる少年がそう言ったのが聴こえたので、姫君も「ああ、綺麗だ」と返した。しばらくそうして湖を眺めていた姫君は、地上への未練を断つように一度強く目をつむってから、少年へ振り向いた。
「私は月に帰る。今までご苦労だった。飛び立つ前に、お前の願いを聞いておかなければな」
白銀の月と湖とを背にして、姫君は両手を広げてみせる。
「何でも望むものを言え。月に戻ったら叶えてやろう。お前の望むものを何でも」
そう言った姫君の言葉を聞いて、少年はにこりと笑った。
「そうか」
次の瞬間。
ぶわり、と視界が一気に赤く照らされると同時に、姫君は少年に抱きつかれるようにして両肩を掴まれたことを、すぐには理解できなかった。
背中からぼうぼうと何かの音がする。熱い。熱い!
「すごいな」
少年の平静な声とともに、姫君をやけどさせる直前で背中の熱が離れた。いきなりの出来事に混乱して、腕の中で暴れる姫君を、少年は難なく抑え込んでしまった。
「本当に熱くない。月の力で出来た物は、地上の人間に効果がないんだもんな」
少年が右手で何かを掲げる。姫君が見ると、それは、火がついて燃え上がっている姫君のヴェールだった。月光で編まれたヴェール。
ふたりの足元に、あのオイルランプが転がっている。
「でも、月の術の火は、月光のヴェールを燃やせるんだな。よかった」
姫君は何も分からなかった。賢明なはずの頭が馬鹿になってしまったようだった。ただ呆然と、燃えるヴェールに手を伸ばそうとして、少年に「やけどするだろ」と柔らかく阻まれる。月の人間である姫君は火に熱さを感じるのだ。一方、少年は素手で燃えるヴェールを持っていても、やけどの気配すらない。
火はいっそう強く燃え盛り、静謐な湖のほとりを真っ赤に照らした。
その赤が、殺された国王の布についていた鮮血の色と重なって、姫君は突然、口がほどけたように叫びだした。
「な……なぜ! なぜこんなことを! なんで私を裏切った! お前は私の父王まで殺してくれたのに! 月に帰って願いを叶えてやると言ったのに!」
「月に帰られちゃ困るからだ」
少年は、もう用はないとでも言うように、ヴェールをぱっと手から離した。少し前までヴェールだったその薄い布は、燃えながらひらひらと地面に落ちた。
「俺が願うものは、たった今、手に入れたさ」
その言葉を聞いて、ハッとした姫君は少年の顔を見上げた。
そこにあったのは、変わらぬ少年のあの笑顔だった。あの、何を考えているのか読めない笑顔。姫君は冷たい恐怖が身体を巡っていくのを感じた。
「わ……私をばらばらにして、売りさばくつもりか。髪を切って、目をくり抜いて、肌を剥いで売るつもりなのか」
「あはは、そんなんじゃねえって」
初めて会った時に少年から言われたことを思い出した姫君は、ばらばらにされて売られることに怯え、少年の腕から抜け出ようともがく。少年はその姿を、まるで罠にかかったうさぎやりすを愛でるかのように見守って、抵抗を受けてもびくともしない。
ちりちり、と布が焼けていく音がする。
「俺は一番の金持ちになりたかった。俺は何も持っていなかったから」
姫君の耳元で歌うように、少年が語りだす。
「お姫様はたくさん俺を助けてくれたよな。嬉しかったよ。お姫様みたいな人が、俺みたいな奴を相手にしてくれて。俺みたいな奴を頼りにしてくれて」
地に落ちたヴェールは、もはや手のひらほどの布しか残っていなかった。それさえも、あと少しで燃え尽くされようとしている。
「宝石や織物や王冠を盗み出して、俺の隠れ家は財産で溢れた。けど、なぜか満たされないんだ。どんなにきらきらして綺麗でも、全然足りない」
燃える。燃えてしまう。
姫君が虚しく手を伸ばすその先で、ヴェールはついに最後まで燃え尽きた。
火が消える。
「ヴェールを纏って空を舞うお姫様を見て、ようやく分かった。宝石も織物も王冠も、何の価値も無い。せいぜいお姫様を飾り立てる以外の価値なんて、何も」
湖のほとりには再び闇が戻り、さやかな月光だけがそれを照らした。
姫君の身体から力が抜ける。崩れ落ちそうな姫君を支えて、少年は彼女の頭に手を回す。姫君はされるがまま、虚ろな顔で彼を見上げた。
夜空に輝く月を背にして、少年の暗い色の瞳も爛々と輝いている。
「だから手に入れた」
少年——いや、今や青年と言うべき彼は、国をめちゃくちゃにして王を殺し、月の天女を永久に地上に縛り付けた男だった。
青年は成長した体躯を檻のようにして姫君を囲い、顔を近付けて囁く。子どもを宥めるかのように、そのくせ嬉しそうに、低い声で。
「まあ、俺も悪いとは思ってるよ。だからせめて、少しでも月に近い所でお姫様が暮らせるように、高い塔を建てような。高い高い塔を」
姫君の唇に柔らかいものが触れた。
喰らいつくように息を奪われ、与えられる熱に呻く姫君は、これからさらに彼に奪われることになる未来を、その震える華奢な身体で予感していた。
ああ。
人を狂わせるとは、こういうことなのか、と。
静かに悟った姫君に覆いかぶさる男の影の向こうから、美しい白銀の月の光が、呪いのように地上のふたりに降り注いでいた。




