第二話「九十一メートルの女」
深度計が九十一を示したとき、機体が止まった。
海底の砂に、ずぶりとめり込む感触。
コックピットの中に沈黙が降りた。
アイコとケンジは操縦席と副席に座ったまま、しばらく何も言えなかった。
「……生きてる?」
「生きてる」
「機体は?」
「分からない」
「追ってきた三機は?」
「分からない」
「声の人は?」
「——分からない」
スピーカーが鳴った。
『お二人とも、無事ですか』
「無事じゃない!」
アイコは叫んだ。
「説明して!今すぐ!誰なの!なんでここに!なんで名前知ってるの!なんでこんなものが海に沈んでるの!なんで——」
『一つずつ答えます』
声は落ち着いていた。動じない。まるで最初から全部分かっていたみたいに。
『私の名前は、マリア。この機体のシステムです』
「機体のシステム?」
『簡単に言えば——この船の心、のようなもの』
ケンジが小さく言った。
「AIってこと?」
『似ていますが、少し違います。でも今はそれより』
モニターが切り替わった。外部カメラの映像。暗い海底。砂。岩。
そして——三つの光が、こちらに近づいてきていた。
『追ってきています。白鳥機関の索敵艇です』
「白鳥機関?」
『あの白い鳥の紋章を持つ組織です。この機体を回収しようとしています』
「回収って——」
『この機体には、彼らが欲しがっているものが積まれています』
「何が積まれてるの」
一瞬の間があった。
『それは——後で』
「後でじゃなくて今教えて!」
『今は逃げることが先決です。アイコさん』
「なんで私に言うの」
『あなたに操縦してもらいます』
「できるわけ——」
『できます。この機体はあなたに合わせて設計されています』
アイコは固まった。
「……どういう意味」
『操縦桿を握ってください。感覚で分かります』
アイコはケンジを見た。ケンジが小さく肩をすくめた。
(——こいつ、全然頼りにならない)
でも他に選択肢がなかった。
アイコは操縦桿を握った。
その瞬間、全身に電流が走ったような感覚があった。機体の輪郭が、まるで自分の体の延長みたいに感じられた。推進器の位置が分かった。舵の重さが分かった。装甲の厚さまで、なんとなく分かった。
「……なにこれ」
『感じますか』
「感じる。なんで感じるの」
『後で説明します』
「また後でって——!」
三つの光が迫ってきた。百メートル。八十。
「来た!どうする!」
『右に六十度、推進器全開』
「右に——」
アイコは操縦桿を右に倒した。推進器が唸った。機体が砂煙を巻き上げて動いた。索敵艇の光線が、さっきいた場所を焼いた。
「当たらなかった!」
「まぐれだよ絶対」
「うるさい!マリアさん、次は!」
『正面の岩礁地帯に入ってください。向こうはサイズが大きすぎて追えません』
「この機体のサイズって——」
『後で』
「もーーーー!!」
岩礁地帯は暗かった。
巨大な岩が林立する、海底の迷路。機体をギリギリ通れる隙間を縫って進む。索敵艇の光が後ろで揺れていたが、だんだん遠くなった。
十分後。
追跡が途絶えた。
アイコは操縦桿から手を離した。手が震えていた。
「……逃げた?」
『一時的に。彼らは諦めません』
「そう」
アイコはシートに背中を預けた。天井を見上げた。金属の天井。薄い照明。現実だった。夢じゃなかった。
「ケンジ」
「何」
「怖かった?」
少しの間があった。
「……怖かった」
「私も」
また沈黙。
「マリアさん」
『はい』
「一個だけ聞いていい?今すぐ答えてほしいやつ」
『どうぞ』
「私たち、家に帰れる?」
今度は長い間があった。
スピーカーが鳴った。
『——帰れます。でも』
「でも?」
『その前に、やらなければいけないことがあります』
「何を」
『この機体に積まれているものを——正しい場所に届けること』
アイコはケンジを見た。ケンジがアイコを見た。
「……正しい場所って、どこ」
『それを今から、一緒に探してください』
深度計は九十一メートルを示したままだった。
海の底で、三人の——いや、二人と一つの——奇妙な旅が始まった。
つづく




