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木山くんと私の同居生活

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/01

第一章 幽霊との出会い

 私の部屋の同居人、木山くんは幽霊だ。


 木山くん、という名前は私がつけた。俳優の木山拓人にちょっぴり似てたから。正確に言えば、伸び切った前髪の隙間から覗く目元が似ている、という程度なのだけれど。本人に「木山拓人に似てるから木山くんって呼ぶね」と言ったら、「木山拓人って誰ですか」と首を傾げられた。記憶を失っているのだから当然といえば当然だ。


 木山くんはなぜ自分が死んだのか、まったく覚えていないという。木山くんは、この部屋から出られない。自分の名前も年齢も家族も職業も思い出せない木山くん。唯一確かなことは、彼が幽霊で、この六畳一間のワンルームマンションに縛られているということだけだった。


 初めて木山くんに遭遇した時は、心臓が跳ね上がり、腰を抜かすかと思った。


 あれは確か、夜中の二時過ぎだった。喉が渇いて目を覚まし、ベッドから這い出して台所へ向かおうとした時のことだ。月明かりが差し込む薄暗い部屋の隅に、人の影があった。


 はじめは泥棒かと思い、「ドロボー!」と叫ぼうとして、自分の喉から出てきたのは、「ど、ど、どろ……」という情けない声だった。声帯が震えて、言葉にならない。全身から血の気が引いていくのが分かった。


 木山くんをよく見たら足が透けていた。床のフローリングの木目が、すねのあたりからうっすらと透けて見えている。今度は、「ゆ、ゆうれ……」とさらに情けない声が出た。


 木山くんは慌てた様子で両手を振りながら、「いきなり出てきて驚かせてすみません……自分は決して怪しい者じゃありません……」と弁解し始めたが、怪しさ満点だった。


 目が隠れるくらい伸び切ったボサボサの長髪、ところどころ破けたボロボロの服。グレーのTシャツは袖口が裂けていて、ジーンズには膝のあたりに大きな穴が開いている。まるで何ヶ月も、いや何年も同じ服を着続けているような有様だった。


「わ、わかります、わかります。こんな奴がいきなり出てきたら怖いですよね……!」


 部屋の隅で毛布を被ってうずくまる私に、木山くんは必死で弁解した。その声は意外なほど穏やかで、どこか申し訳なさそうな響きがあった。


 私はこの部屋に越してきて三日目だった。東京の大学に進学するために上京し、やっと見つけた家賃五万円のワンルーム。駅から徒歩十五分、築二十年、多少古いが清潔で日当たりも悪くない。何より予算内に収まる数少ない物件だった。それが幽霊付きだなんて、誰が想像できただろう。


「僕、自分が幽霊だってことは分かるんですけど、なぜかこの部屋から出られなくて。自分の死因も身元も何も覚えていないんです……」


 木山くんは泣きそうな声で言った。透けた手で、伸びた前髪を掻き上げようとする仕草をする。でも髪は指をすり抜けてしまって、結局元の位置に垂れ下がった。


 なんだか可哀想になってきて、私は毛布から恐る恐る顔を出した。よく見れば、木山くんの表情には敵意のかけらもない。ただただ困惑と申し訳なさが滲んでいる。


「そ、そしたら、私はこれからあなたと一緒に暮らさなきゃならないってわけ……?」


「申し訳ないんですが、そういうことになってしまいますね……」


 木山くんは小さく頭を下げた。


「幽霊が出るなんて話、聞いてないけど……!? この部屋って事故物件だったの!?」


 事前に事故物件サイトは調べた。「大島てる」も「成仏不動産」も、念入りにチェックした。この部屋は載っていなかったはずだ。


「分かりません……自分が死んだのがこの部屋かどうかも分かりませんし」


 木山くんは言った。


「あなた、これからもこの部屋で暮らしていくつもり?成仏とかしないとまずいんじゃないの?よく知らないけど」


 私だって幽霊の専門家じゃない。知識といえば、夏の夜に見た心霊番組と、友達と回し読みした怖い話の本くらいだ。


「うーん……」


 木山くんは唸った。眉間に皺を寄せて、真剣に考え込んでいる様子だった。


「お坊さんとか呼んでさ、読経あげてもらったら成仏できたりしない?」


「あ。それは前の住民が試しましたが、駄目でした」


 ──試したんかい。

 思わず心の中でツッコミを入れた。ということは、前の住人も木山くんに遭遇していたということだ。そして成仏させようと試みたが、失敗した。だから木山くんは今もここにいる。


「でもさ、死後の世界とか分からないけど、ちゃんと成仏しないと、地縛霊とかになっちゃうんじゃないの……?てか、もう既になっちゃってるの……?」


「僕にも分かりません……」


 木山くんは困ったように言った。その表情を見ていると、彼もまた自分の状況に戸惑い、途方に暮れているのだと分かった。


「でも僕、家事とかは得意ですから! お役には立てるかと! なんでもします!」


 木山くんは突然、勢いよく顔を上げて言った。必死さが伝わってくる。


「物に触ったりはできるんだ……」


「できますよ」


 木山くんは試しに、と言うように近くのクッションを持ち上げてみせた。確かに、実体があるかのようにクッションを掴んでいる。でも木山くん自身の体は相変わらず透けている。不思議だった。


「でも僕を認識できるのは限られた人だけみたいですね……僕に気づかない人もいますから」


「──そうなの?」


「ええ。だから住人の何人かには気づかれずに済みましたが」


「え……? あなた、いつからここにいるわけ?」


「そうですね……五年前くらいからですね……」


 結構長い!


「五年も成仏できないでいるの?」


「そうです……」


 なんだかさらに可哀想になってきた。五年間も、この狭い部屋に閉じ込められて、自分が誰なのかも分からないまま彷徨っているなんて。想像しただけで息が詰まりそうだ。




第二章 調査の始まり

「どうしたらあなたを成仏させてあげられるんだろう?そもそもあなたはどうしたいの?」


 私は毛布から完全に這い出て、木山くんと向き合った。もう怖くはなかった。いや、正確には怖いけれど、それ以上に放っておけない気持ちの方が大きくなっていた。


「……そりゃあ、ちゃんと成仏したいです……」


 木山くんは静かに言った。その声には、諦めと希望が入り混じっているようだった。


「……だよね」


 それから私はいろいろ考えた。もしかしたら木山くんは、まだきちんと供養されていないのかもしれない。まだ見つかっていない遺体なのかもしれない。あるいは、身元不明のまま埋葬されているのかもしれない。


 翌日、大学の講義が終わってから、私はスマホで様々なサイトを検索した。行方不明者情報サイト、身元不明遺体のデータベース、過去の事件事故のニュース記事。でも木山くんらしき人はいなかった。というか、木山くんの年齢も本名も分からないのだから、探しようがないのだ。


「……すみません。僕のために」


 帰宅すると、木山くんが申し訳なさそうに立っていた。部屋は綺麗に片付いていて、洗濯物も畳まれている。幽霊なのに、本当に家事ができるのだ。


「いいのよ。私だってあなたとずっと暮らすの気詰まりだし」


 私は正直に言った。決して木山くんが嫌いなわけじゃない。でも、着替える時も寝る時も、常に誰かがいるという状況は、やはり落ち着かない。木山くんは気を遣って姿を消してくれることもあるけれど、消えているだけで確実にそこにいるのだ。


「そうですよね……すみません……」


「木山くんって謝ってばかりね」


「すみません……」


 木山くんは始終申し訳なさそうにしている。でもだんだん木山くんが家にいるのが当たり前に思えてきた。朝起きると「おはようございます」と声をかけてくれて、夜遅く帰ると「お疲れ様です」と迎えてくれる。不思議と、その存在が日常に溶け込んでいった。


 木山くんは自称するだけあって、家事全般を完璧にこなしてくれた。


 掃除も食事も。私が材料を買ってくれば、見事な料理を作ってくれる。味付けも絶妙で、下手な料理店より美味しいくらいだ。でもプライベートなところは触らないでいてくれた。私の机の引き出しや、クローゼットの奥には決して手をつけない。その配慮が嬉しかった。


「なんだか悪いわね」


 ある晩、木山くんが作ってくれた肉じゃがを食べながら、私は言った。和食の基本だというこの料理は、母が作ってくれたものよりずっと美味しかった。


「……これくらいのことは。ここに居させてもらっているわけですから」


「そんなこと言ったって、木山くんがここから出られないのは木山くんのせいじゃないのに」


「そうですけど、なんだか申し訳なくて」


「気にしなくていいのに……こちらこそ何だかごめんね」


「なんで葉山さんが謝るんですか」


 木山くんは不思議そうに首を傾げた。


「だって……タダで家事やってもらっちゃって」


「いえ……」


「そうだ、木山くんって、何か欲しいものとか、やりたいこととか、やって欲しいこととかないの?」


 私は箸を置いて、木山くんを見つめた。幽霊だって、何か願いや欲求があるはずだ。


「そうですね……強いて言えば僕の身元が知りたいです。でももう葉山さんは充分調べてくださいましたし」


「でもまだ何か方法があるかもしれないじゃない?それを考えようよ」


「はあ……」


 木山くんはまた困ったように眉根を寄せた(ように見えた)。長い前髪に隠れて表情が見えづらいのだけれど。


「でももう充分調べてくださった……」


「ここから出られないっていうことと何か関係がないかな?昔ここに住んでたことがあるとか?私、調べてみるよ」


 ふと思いついて、私は言った。地縛霊というのは、その場所に強い執着や未練があるから成仏できないのだと聞いたことがある。だとすれば、木山くんがこの部屋に縛られているのには、何か理由があるはずだ。


「でも過去の住人なんて調べられるんですか?」


「管理人さんならご存知かもしれないけど個人情報を簡単に教えてもらえるとも思えないよね……。どうしようかな」


 私は考え込んだ。でも、やってみる価値はある。


「何か適当に理由をつけて調べるわ」


「すみません……」


「ほら、また謝ってる!」


「すみません……」


 相変わらず木山くんは謝ってばかりだ。




第三章 管理人との面会

 翌日、私は早速、マンションの管理人さんに電話し、アポイントを取りつけた。管理人の田中さんは六十代くらいの穏やかそうな男性で、電話口でも丁寧な対応をしてくれた。


「明後日なら会ってくれそう」


 帰宅して、私は木山くんに報告した。


「そうですか」


 木山くんは相変わらず申し訳なさそうな顔をしている。


「……管理人さんは、あなたのことは見えないの?」


「そうみたいです……」


 木山くんは小さく頷いた。


「うーん……。正直に話しても信じてもらえるとは思えないな。どうしよう」


 私は頭を抱えた。「この部屋に幽霊がいるので、その正体を調べたいんです」なんて言ったら、頭がおかしいと思われるのがオチだ。


「あの……」


 木山くんが恐る恐る口を開いた。


「何?」


「もし……もし僕のことで葉山さんが変な目で見られたりしたら、本当に申し訳ないので……無理はしないでください」


 木山くんの声には、本気の心配が込められていた。自分のせいで私が困ることを、本当に気に病んでいるのだ。


「大丈夫よ。うまくやってみるから」


 私は努めて明るく言った。


 そして約束の日。私は管理人室を訪ねた。一階の端にある小さな部屋で、ドアをノックすると「どうぞ」という声が聞こえた。


「お邪魔します」


 部屋に入ると、田中さんが笑顔で迎えてくれた。白髪交じりの髪を短く刈り込んだ、人の良さそうな男性だ。


「葉山さんですね。どうぞ、座ってください」


 パイプ椅子を勧められ、私は腰を下ろした。部屋には書類棚やファイルボックスが整然と並んでいる。


「それで、お話というのは?」


「あの、実は……」


 私は用意してきた理由を述べた。「大学のレポートで、このマンションの歴史について調べている」という嘘だ。建築学のレポートということにして、築二十年のこのマンションがどのような変遷を辿ってきたのか知りたい、と。


「ほう、熱心ですね」


 田中さんは感心したように頷いた。どうやら嘘は通じたようだ。


「それで、特に私の部屋……305号室なんですけど、以前はどんな方が住んでいたのかなと思いまして」


「305号室ですか……」


 田中さんは少し考え込むような表情になった。


「実は、あの部屋は入居者の入れ替わりが少し多いんですよ」


「え……そうなんですか?」


 私は驚いた振りをした。でも内心では「やっぱり」と思っていた。木山くんがいるのだから、当然だろう。


「ええ。ここ五年で……そうですね、葉山さんで七人目くらいでしょうか」


 五年で七人。平均すると一年にも満たない。明らかに異常だ。


「皆さん、何か理由があったんですか?」


「それがですね……」


 田中さんは言いにくそうに口ごもった。


「正直に言いますと、『気味が悪い』という理由で出て行かれる方が多かったんです」


「気味が悪い……?」


「ええ。物音がするとか、誰かがいるような気配がするとか……まあ、古い建物ですから、きしむ音なんかはするでしょうけどね」


 田中さんは苦笑した。でも私には分かる。それは木山くんのことだ。


「でも、事故とか事件とかがあったわけじゃないんですよね?」


「ええ、それはありません。少なくとも私が管理人になってからは」


「管理人さんは、いつからこちらに?」


「もう十年になりますね」


 ということは、木山くんが現れた五年前よりずっと前からだ。


「十年前より前のことは、分からないですか?」


「詳しくは……前の管理人の記録を見れば、何か分かるかもしれませんが」


 田中さんは立ち上がって、書類棚を探し始めた。


「ああ、ありました。これが前任者からの引き継ぎファイルです」


 分厚いファイルを開いて、田中さんはページをめくっていく。


「305号室……305号室……あ、ありました」


「何か書いてありますか?」


 私は身を乗り出した。


「えっと……十五年前に入居された方がいて……あ」


 田中さんの表情が曇った。


「どうかしましたか?」


「この方……行方不明になったと書いてありますね」


「行方不明……」


 私の心臓が高鳴った。もしかして、それが木山くんなのでは。


「名前は……木下拓海さん。当時二十五歳の男性。ある日突然、家賃の支払いも止まり、部屋にも戻ってこなかった。家族に連絡したが、家族も行方を知らないと。警察にも届けが出されたようですが……結局見つからなかったようです」


 木下拓海。その名前を聞いた瞬間、部屋で待っている木山くんの顔が浮かんだ。


「それは……何年前のことですか?」


「十二年前ですね。その後、この部屋は一度空室になって……七年前に別の方が入居されて……でもその方も半年で出て行かれて……」


 時系列が合わない。木山くんは五年前からこの部屋にいると言っていた。木下拓海さんが行方不明になったのは十二年前。


「あの……その木下さんという方は、この部屋で何かあったんでしょうか?」


「いえ、部屋の中には何も……遺留品も片付けられて、次の入居者のために清掃されました」


 私は頭の中で情報を整理しようとした。でも、つながらない。木山くんは誰なのか。木下拓海さんなのか、それとも別の誰かなのか。


「あの、他に何か……この部屋で不審なことはありませんでしたか?」


「不審なこと……うーん」


 田中さんは再びファイルをめくった。


「あ、そういえば……七年前に入居された方の記録に、『部屋で変な音がする、まるで誰かが生活しているような音だ』と書いてありますね。でも調査しても異常は見つからなかった……と」


 七年前。それも木山くんが現れた時期とは合わない。


 私はお礼を言って管理人室を後にした。頭の中は混乱していた。得られた情報は、新たな謎を生んだだけだった。




第四章 記憶の断片

 部屋に戻ると、木山くんが心配そうに待っていた。


「お帰りなさい……どうでしたか?」


 私は木山くんに、管理人さんから聞いた話をすべて伝えた。木下拓海という名前を聞いても、木山くんは首を横に振った。


「木下拓海……聞き覚えはないです」


「でも、記憶を失ってるんだもんね。自分の名前を聞いても思い出せないかもしれない」


「はい……」


 木山くんは悲しそうに俯いた。


「でも待って。木下さんが行方不明になったのは十二年前。木山くんがここにいるのは五年前から。これってどういうこと?」


「分かりません……僕が死んだのがいつなのかも覚えていないので……」


「幽霊って、死んでからすぐに現れるものなの?それとも時間が経ってから現れることもあるの?」


「僕にも……分かりません」


 私たちは顔を見合わせた。手がかりは得られたけれど、謎は深まるばかりだ。


 その夜、私は布団の中で考え続けた。木山くんの正体。彼がこの部屋に縛られている理由。そして、どうすれば成仏させてあげられるのか。


「葉山さん……」


 暗闇の中で、木山くんの声が聞こえた。


「何?」


「僕のことで、あまり無理はしないでください。葉山さんの生活を邪魔したくないんです」


「邪魔だなんて思ってないわよ」


 私は布団から上半身を起こした。月明かりの中に、木山くんの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。


「でも……」


「確かに最初は怖かったし、戸惑ったわ。でも今は……木山くんがいるのが当たり前になってる。それに、困ってる人を放っておけないの、私」


「葉山さん……」


「だから一緒に考えよう。きっと何か方法があるはずだから」


 木山くんは何も言わなかったけれど、微かに頷いたように見えた。


 次の日から、私は図書館で幽霊や霊的現象について書かれた本を読み漁った。民俗学の本、オカルト本、宗教書。様々な文献に目を通したけれど、決定的な答えは見つからなかった。


 ある日、古い新聞記事のデータベースを調べていて、私は一つの記事を見つけた。


「十二年前、失踪事件。木下拓海さん(25)が自宅マンションから忽然と姿を消す……」


 記事には木下さんの写真も掲載されていた。でもそれは白黒で不鮮明で、木山くんに似ているのかどうか判断できなかった。


 記事を読み進めると、木下さんは IT企業に勤める普通の会社員だったこと、特にトラブルを抱えていた様子はなかったこと、ある日を境に会社にも現れなくなったことが書かれていた。


「やっぱり木下さんなのかな……」


 私は呟いた。でも確証はない。そして、仮に木山くんが木下拓海さんだとして、なぜ死んでから七年もの間、姿を現さなかったのか。その答えは依然として不明だった。


 帰宅すると、木山くんが夕食を作って待っていてくれた。


「お帰りなさい。今日はカレーです」


「ありがとう……あ、そうだ」


 私はスマホを取り出して、保存していた新聞記事の写真を木山くんに見せた。


「この人に見覚えは?」


 木山くんは写真を覗き込んだ。しばらく見つめていたが、やがて首を横に振った。


「分かりません……でも……」


「でも?」


「なんだか……引っかかるものがあるような……気のせいかもしれませんが」


 その言葉に、私は希望を感じた。記憶の断片が、わずかでも残っているのかもしれない。


「無理に思い出そうとしなくていいからね」


「はい……」


 私たちはカレーを食べながら、他愛のない話をした。大学での出来事、テレビで見たニュース、明日の天気。木山くんは私の話を静かに聞いて、時折質問をしてくれる。


「葉山さんは、どうしてこの部屋を選んだんですか?」


「家賃が安かったから。大学生の一人暮らしには、これくらいじゃないと」


「そうですか……」


「木山くんは……いや、ごめん。覚えてないよね」


「いえ……僕も、自分がどんな生活をしていたのか知りたいです」


 木山くんはスプーンで器用にカレーをすくって(幽霊なのに食べられるのかと最初は驚いたが、どうやら食べることはできるらしい。ただし、栄養を摂る必要はないとのことだ)、静かに口に運んだ。


 その仕草を見ていて、私はふと思った。木山くんにも、かつては普通の生活があったはずだ。誰かと食事をして、誰かと笑い合って、夢や希望を持っていたはずだ。それがすべて失われて、この狭い部屋に閉じ込められている。


「絶対に、成仏させてあげるからね」


 私は決意を新たにした。木山くんは驚いたように顔を上げた。


「葉山さん……」


「だって、このままじゃ木山くんが可哀想だもの。でも……」


 私は少し照れくさくなって、視線を逸らした。


「木山くんがいない部屋って、きっと寂しくなるな」


「……ありがとうございます」


 木山くんの声は、いつもより少しだけ温かかった。




第五章 蘇る記憶

 それから一週間が過ぎた。私は授業の合間を縫って、さらに調査を続けた。大学の図書館、区の図書館、インターネットのアーカイブ。木下拓海さんに関する情報を集めたが、新聞記事以上のものは見つからなかった。


 ある晩、私が疲れて帰宅すると、木山くんの様子がいつもと違った。


「お帰りなさい……あの、葉山さん」


 木山くんは落ち着かない様子で、部屋の中を行ったり来たりしていた。幽霊なのに足音は聞こえないが、その動きからは明らかに動揺が伝わってくる。


「どうしたの?何かあった?」


「今日……少しだけ、何かを思い出したような気がするんです」


「本当!?」


 私は鞄を放り出して、木山くんに駆け寄った。


「何を思い出したの?」


「はっきりとは分からないんですが……音楽です。ピアノの音。誰かが弾いている……いえ、僕が弾いていたのかもしれません」


 木山くんは自分の手を見つめた。透けた指を、まるで確かめるように動かす。


「ピアノ……木山くん、ピアノが弾けるの?」


「分かりません。でも、指の動きは覚えているような……」


 木山くんは空中で何かを弾くような仕草をした。その動きは確かに、ピアノを弾く人のそれだった。


「他には?他に何か思い出したことは?」


「場所……です。広い部屋。グランドピアノがあって……窓から光が差し込んでいて……」


 木山くんは目を閉じて、記憶を辿ろうとしている。


「誰かいた?その部屋に」


「誰か……そう、誰かが……」


 木山くんは額を押さえた。苦しそうな表情だ。


「無理しないで!ゆっくりでいいから」


「女性……の、声……『もっと感情を込めて』って……」


「先生?ピアノの先生?」


「分かりません……でも、大事な人だったような……」


 そこで木山くんの言葉が途切れた。

 私は急いでノートパソコンを開いた。「木下拓海 ピアノ」で検索する。でも有益な情報は出てこない。次に「木下拓海 音楽」で検索してみた。

すると、一つの記事がヒットした。


「これ……見て」


 私は画面を木山くんに向けた。それは音楽大学の学内報のアーカイブだった。十五年前の記事。


「学内コンクール優秀賞、木下拓海(当時20歳)……」


 記事には小さな写真も掲載されていた。ピアノの前に座る若い男性。今度は画質も良く、顔がはっきりと見える。


「これ……これは……」


 木山くんは震える声で言った。


「木山くん?」


「僕……これ、僕です。確信はないですが……でも、これは僕だと思います」


 木山くんの声には、初めて聞く確信が込められていた。


「じゃあ、やっぱり木山くんは木下拓海さんなんだ……」


 私は記事を読み進めた。


「木下拓海さんは音楽大学のピアノ科に在籍していたけど、卒業後はIT企業に就職……ピアノは趣味として続けていたのかもしれないわね」


「音楽大学……」


 木山くんは呟いた。その言葉が、何か記憶の扉を開くきっかけになったようだった。


「練習室……狭い練習室で、毎日何時間も弾いていた。指が痛くなるまで……」


「うん、うん」


「でも、僕は……」


 木山くんの表情が曇った。


「僕は、音楽を仕事にすることを諦めた。才能がないって、言われて……」


「誰に?」


「分かりません。でも、その言葉がずっと胸に刺さっていて……」


 木山くんは苦しそうに言葉を続けた。


「だからIT企業に就職した。音楽とは全く関係のない仕事。でも……心の中では、まだピアノを弾きたかった」


 記憶が、少しずつ戻ってきている。私は息を呑んで、木山くんの言葉を待った。


「この部屋……」


 木山くんは部屋を見回した。


「この部屋には、電子ピアノがあった。小さな、安い電子ピアノ。ヘッドフォンをつけて、夜中に弾いていた。誰にも聞かれないように……」


「それで?」


「ある日……」


 木山くんの声が詰まった。


「ある日……誰かが来た。この部屋に……」


 その時、突然木山くんの姿が揺らいだ。まるでテレビの画面にノイズが走るように、その輪郭が不鮮明になる。


「木山くん!?」


「大丈夫……です。でも、これ以上は……思い出せません」


 木山くんは膝をついた。幽霊だから体力がないわけではないはずだが、記憶を辿ることが相当な負担になっているようだった。


「無理しないで。今日はもう休んで」


「すみません……」


「謝らなくていいから。でも、大きな進展よ。木山くんが木下拓海さんだって分かったんだから」


 私は木山くんを(どうやって休ませればいいのか分からなかったが)ソファに座らせた。木山くんは疲れ切った様子で、ぼんやりと宙を見つめている。


「葉山さん……」


「何?」


「僕、もしかしたら……この部屋で死んだのかもしれません」


 その言葉に、私は凍りついた。


「どういうこと?」


「よく分からないんです。でも、この部屋で何かが起こった……そんな感じがするんです」


 私は木山くん──木下拓海さんを見つめた。彼はこの部屋で何を経験したのか。そして、なぜ死ななければならなかったのか。




第六章 隠された真実

 翌日、私は大学を休んで調査を続けることにした。木下拓海さんの失踪事件について、もっと詳しく知る必要があった。


 区役所に行き、古い新聞のマイクロフィルムを調べた。図書館では当時の地域新聞のバックナンバーを漁った。そして、ついに重要な記事を見つけた。


「木下拓海さん失踪事件、新展開。同じマンションの住人が不審な物音を証言」


 記事は失踪から一週間後に書かれたものだった。


「失踪当日の深夜、同じマンションの住人が『305号室から大きな物音と、男性の叫び声のようなものを聞いた』と証言。しかし警察が調べたところ、部屋には争った形跡はなく、木下さんの私物も整理されたまま残されていた。鍵もかかっており、外部から侵入した痕跡はない……」


 私は記事を何度も読み返した。物音と叫び声。でも争った形跡はない。これはどういうことなのか。


 さらに調べを進めると、もう一つ奇妙な事実が見つかった。失踪の三日前、木下さんは音楽教室に通い始めていたのだ。十年ぶりに、再びピアノのレッスンを受けることにしたという。


「なぜ急に……?」


 私は首を傾げた。IT企業で働きながら、なぜ今更ピアノ教室に?何かきっかけがあったのだろうか。


 音楽教室の名前は「ハーモニー音楽教室」。記事によれば、駅前の雑居ビルにあるらしい。私はすぐさま電話番号を調べて連絡した。


「もしもし、ハーモニー音楽教室ですが……」


 電話に出たのは、中年の女性だった。


「あの、突然すみません。私、木下拓海さんという方についてお聞きしたいんですが……」


 電話口が一瞬、沈黙した。


「……木下さんを、ご存知なんですか?」


 女性の声が、わずかに震えた。


「はい。実は今、木下さんが以前住んでいた部屋に住んでいまして……」


「そうですか……」


 女性は深いため息をついた。


「あの……もしよろしければ、直接お会いしてお話を聞かせていただけませんか?木下さんのことを知りたいんです」


 しばらくの沈黙の後、女性は答えた。


「……分かりました。今日の夕方、教室にいらしてください」


 電話を切った後、私は急いで帰宅した。木山くんに報告しなければ。

 部屋に戻ると、木山くんは窓際に立っていた。外を眺めている……ように見えた。


「木山くん、聞いて!音楽教室の先生と話せることになったの!」


「音楽教室……」


 木山くんは振り返った。その表情には、何か複雑な感情が浮かんでいた。


「もしかしたら、木山くんの失踪の謎が解けるかもしれない」


「そうですか……」


 木山くんの反応は、予想よりも淡白だった。


「どうしたの?嬉しくない?」


「いえ、嬉しいです。でも……」


 木山くんは言葉を探すように間を置いた。


「真実を知ることが、怖いんです」


「怖い?」


「僕がなぜ死んだのか。もしかしたら、知りたくない真実かもしれない。そう思うと……」


 私は木山くんに近づいた。


「でも、知らなければ成仏できないかもしれないわ」


「そうですね……」


 木山くんは小さく頷いた。


 夕方、私はハーモニー音楽教室を訪ねた。駅前の古い雑居ビルの三階。ドアを開けると、ピアノの音色が聞こえてきた。


「いらっしゃい」


 出迎えてくれたのは、五十代くらいの上品な女性だった。髪を後ろで一つに束ね、シンプルなワンピースを着ている。


「お電話した葉山です」


「私は橋本といいます。ここの主宰をしています」


 橋本さんは私を応接スペースに案内してくれた。コーヒーを淹れながら、彼女は話し始めた。


「木下さんのことは、今でも時々思い出すんです。あんなに才能のある方だったのに……」


「木下さんは、優秀な生徒だったんですか?」


「ええ。いえ、生徒というより……」


 橋本さんは少し躊躇した後、続けた。


「木下さんは、私の元婚約者だったんです」


「え……!?」


 予想外の言葉に、私は目を見開いた。


「もう十五年以上前の話です。彼とは音楽大学で出会いました。二人ともピアノ科で、よく一緒に練習していて……自然と恋人になりました」


 橋本さんは遠い目をした。


「でも、卒業後……私は演奏家として少しずつ仕事をもらえるようになったんですが、彼は上手くいかなかった。オーディションに落ち続けて、自信を失っていって……」


「それで、IT企業に就職したんですね」


「ええ。彼は『音楽の才能がない自分とは釣り合わない』と言って、私との婚約を解消しました。私がいくら止めても、聞いてくれませんでした」


 橋本さんの声が震えた。


「それから何年も会わなかったんです。でも、十二年前……突然彼から連絡が来ました。『もう一度ピアノを習いたい』と」


「どうしてまた急に……」


「彼は言いました。『ずっと心の中で音楽を諦められなかった。もう一度、あの頃の自分に戻りたい』と。私は嬉しかった。彼がまた音楽に戻ってきてくれることが」


 橋本さんはハンカチで目元を拭った。


「レッスンを始めて三日目……彼は言ったんです。『橋本さんと、もう一度やり直したい』と」


「……」


「私も同じ気持ちでした。ずっと彼のことを忘れられなかった。だから、次のレッスンの日に答えを伝えようと思っていました。でも……」


 橋本さんの声が詰まった。


「その日、彼は来なかった。連絡もつかなくなって……それから行方不明になったと聞いて……」


 私は息を呑んだ。木下さんは、新しい人生を始めようとしていたのだ。愛する人と再び結ばれ、音楽に戻ろうとしていた。それなのに、なぜ。


「あの……橋本さん。木下さんが失踪した日のこと、何か覚えていますか?」


「失踪した日……ええ、私は彼に電話をしたんです。『明日のレッスン、楽しみにしています』って。彼は嬉しそうに『僕もです。大事な話があるんです』と言っていました」


「その電話は、何時頃でしたか?」


「確か……夜の十時頃だったと思います」


 新聞記事によれば、住人が物音を聞いたのは深夜。橋本さんとの電話の後、何かが起こったのだ。


「橋本さん、ありがとうございました」


 私は頭を下げた。


「木下さんのこと……もし何か分かったら、教えてください」


「はい、必ず」


 音楽教室を出た後、私は考え込んだ。木下さんは幸せな未来を目前にして、なぜ死ななければならなかったのか。

 部屋に戻ると、木山くんが待っていた。


「お帰りなさい……どうでしたか?」


 私は橋本さんから聞いた話をすべて伝えた。木山くんは黙って聞いていたが、途中から涙を流し始めた。幽霊も泣けるのだと、初めて知った。


「橋本……さん……」


 木山くんは震える声で言った。


「思い出しました。彼女のこと……大好きでした。でも、自分に自信がなくて……別れを選んでしまった……」


「木山くん……」


「でも、やっぱり諦められなくて。何年も悩んで……ようやく勇気を出して、連絡したんです」


 木山くんの記憶が、次々と蘇っているようだった。


「あの日……橋本さんと電話した後、僕は部屋でピアノを弾いていました。電子ピアノで、彼女に聴かせたい曲を練習していて……」


「それで?」


「そしたら……」


 木山くんの顔が歪んだ。


「そしたら、急に胸が苦しくなって……息ができなくなって……」


 私は息を呑んだ。


「病気……?」


「分かりません。でも、とても痛くて……ピアノの前で倒れて……それから……」


 木山くんは言葉を失った。


「それから、記憶がないんです。気づいたら……幽霊になっていました」




第七章 成仏への道

 翌日、私は区役所に行き、死亡届の記録を調べた。しかし木下拓海という名前は見つからなかった。遺体が発見されていないのだから、当然だ。


 次に警察署を訪ねた。失踪事件の記録を見せてもらえないかと頼んだが、当然断られた。でも、対応してくれた警察官は親切で、いくつか教えてくれた。


「木下拓海さんの件は、今も未解決のままです。遺体も発見されていませんし、事件性の証拠もない。おそらく、自ら姿を消したのではないかと……」


「でも、部屋には私物が残されていたんですよね?」


「ええ。それが不可解なんです。普通、計画的に失踪するなら、必要なものは持って行くはずですから」


 警察官は首を傾げた。


「もう一つ気になることがあるんです」


 私は切り出した。


「木下さんが住んでいた部屋、305号室なんですが……他の住人が、失踪当日の夜に物音を聞いたと証言していますよね。でも部屋を調べても、何も見つからなかった」


「ええ、そうです」


「もし……もしですよ。木下さんが部屋の中で倒れていたとしたら?でも見つからなかったとしたら?」


 警察官は怪訝な顔をした。


「それはどういう……部屋は徹底的に調べましたよ。遺体が隠せるような場所は……」


 その時、私はハッとした。


「床下……とか、壁の中とか……」


「いや、そこまでは……」


 警察官は言葉を濁した。確かに、失踪事件で家を解体してまで調べることはないだろう。

 私は警察署を出ると、すぐにマンションに戻った。そして管理人の田中さんに電話した。


「田中さん、お願いがあるんです。305号室の床下を調べさせてもらえませんか?」


「床下……?どうしてまた」


「お願いします。もしかしたら、木下拓海さんの失踪の謎が解けるかもしれないんです」


 田中さんは困惑したようだったが、私の熱意に押されて了承してくれた。


「分かりました。専門の業者を呼びますが……もし何もなかったら、調査費用は……」


「払います」


 私は即答した。


 三日後、業者が来て床下の調査が始まった。木山くんと私は、固唾を呑んで見守った。

 作業員がフローリングを一部剥がし、床下を覗き込む。そして──


「……あった」


 作業員の声が震えた。


「人骨のようなものが……」


 私は膝が崩れそうになった。木山くんは、私の隣で立ち尽くしていた。

 警察が呼ばれ、鑑識が始まった。遺骨はすぐに木下拓海さんのものと断定された。DNA鑑定の結果、間違いないと。

 警察の調査によれば、木下さんは床下の配管スペースに転落し、そのまま息絶えたと見られる。おそらく、電子ピアノを弾いている時に突然の発作(後の検視で心臓疾患が判明した)に襲われ、床板の腐食していた部分を踏み抜いて転落したのだろう。

 物音と叫び声は、その時のものだった。でも運悪く、誰も助けに来なかった。そして彼はそのまま……。

 遺骨は正式に引き取られ、葬儀が執り行われることになった。橋本さんも参列すると言ってくれた。

 葬儀の前日、木山くんが言った。


「葉山さん、本当にありがとうございました」


「まだ成仏してないでしょ?葬儀が終わったら、きっと……」


「いえ、もう大丈夫です。自分が誰で、なぜここにいたのか分かりましたから」


 木山くんの姿が、少しずつ薄くなっていくような気がした。


「寂しくなるわ……」


 私は正直に言った。


「僕も、葉山さんと過ごした時間は……幽霊になってから唯一の、楽しい時間でした」


 木山くんは微笑んだ。長い前髪の隙間から、初めて見るはっきりとした笑顔が覗いた。


「橋本さんによろしく伝えてください。ずっと愛していたって」


「自分で伝えなさいよ……って、そうか。橋本さんには見えないんだっけ」


「ええ。でも、きっと伝わっていると思います」


 葬儀は、静かに執り行われた。橋本さんは終始泣いていて、「もっと早く、もっと早く彼を探すべきだった」と自分を責めていた。


「橋本さん、木下さんは最後まで、あなたのことを愛していましたよ」


 私は木山くんの言葉を伝えた。橋本さんは驚いたように顔を上げた。


「どうして……それを?」


「なんとなく、そう思ったんです」


 橋本さんは新しい涙を流した。でもそれは、悲しみだけではない涙のようだった。

 葬儀が終わり、部屋に戻った。


「木山くん?」


 呼びかけても、返事はなかった。

 部屋の中を探したが、木山くんの姿はどこにもない。


「成仏……できたんだね」


 私は窓を開けた。秋の風が部屋の中を通り抜けていく。


「さようなら、木山くん。安らかに」


 それから数日、部屋はとても静かだった。誰も料理を作ってくれないし、誰も「お帰りなさい」と言ってくれない。当たり前の一人暮らしに戻っただけなのに、ひどく寂しかった。


 でもある朝、目を覚ますと枕元に一枚の紙が置いてあった。


『葉山さん、本当にありがとう。あなたのおかげで、僕は救われました。これから向こうで橋本さんのことを待ちます。葉山さんもどうか、お幸せに──木下拓海』


 文字は薄れかけていて、まるで朝露のように儚かった。でも確かに、そこにあった。


「……バカ。幽霊のくせに手紙なんか書いて」


 私は泣きながら笑った。


 それから半年後、私は橋本さんの音楽教室に通い始めた。ピアノを習うためだ。


「どうしてピアノを?」


 橋本さんは驚いた様子で聞いた。


「木下さんが、とても楽しそうにピアノのことを話してたから。私も弾けるようになりたいなって」


 橋本さんは優しく微笑んだ。


「そう。それなら、精一杯教えますね」


 レッスンが始まった。不器用な私の指が、ゆっくりと鍵盤を叩く。


 その時、一瞬だけ、ピアノの上に透明な手が重なったような気がした。


「木山くん……?」


 でも振り返っても、誰もいない。

 きっと気のせいだ。木山くんはもう、ちゃんと成仏したのだから。


 私はもう一度鍵盤に向き直り、練習を続けた。


 窓から差し込む光の中に、ピアノの音色が溶けていく。

 どこかで、木山くんが笑っている気がした。


【完】

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