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湖の記憶

【注意書き】

※この物語は全てフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。

※本作は作者本人により他小説投稿サイトにも掲載されています。

※第三者による複製・転載・再配布・改変を禁じます。

※Do not reproduce, repost, redistribute, or modify.

 湖に波が立つ。鈍色の曇天の隙間から晩夏の陽射しが漏れると青く茂った木々に囲まれた湖面に、光が煌めき、そこに泳ぐ一人の人間が見えた。音もなく滑るように影は行く。山の水は冷えている筈だが揺れる事なくそれは進む。やがて、湖に面した小屋へ辿り着くとボート置き場の砂洲から砂を踏みしめて裸の女の影が陸へ上がった。濡れた髪から雫を滴らせた彼女は小屋へ向かい歩く。裏に消えて十分ほど経って車の音が遠くから聞こえてきた。


   ◇   ◇   ◇


 男は上機嫌に四駆を走らせていた。後部のシートには釣り具とキャンプ用具。麓のキャンプ場の管理人に良い釣り場の湖と山小屋がある、と聞いて峠を越えてやってきた。途中の道は舗装されておらず砂利道で上り下りを繰返し視界が開けると見事な湖が眼に飛び込んできた。男が降りる。

 深い青を湛えた水面が広がり周りの木々だけが贅沢にそれを独り占めしているようだった。ダム湖というわけでもない、自然の芸術だ。

 車を止めたところは展望台でトイレがあった。汲み取り式で閉口したが仕方がないだろう。案内板があり見る向こうの山の名前やかつての集落の名前、過疎による廃村だそうだ。しかし、キャンプ場の管理人から小屋の番守の若い女性が一人で居ると聞いて日々の荷物を預かっている。こんな山奥に女が一人、と驚いたが代々、湖と山を管理する仕事だそうだ。

 見下ろす先に小屋が見える。男は車に乗り込んで小屋へと再び走らせた。到着すると車を降りて荷物を下ろして扉を叩く。返事はない。鍵は掛かっていないのかと思ったが、もとからないようで開けると中は小綺麗で必要なものしかなかった。食器棚、ストーブ、冷蔵庫と外へ繋がったケーブルとその先のバッテリー。おそらくはソーラーパネルだろう。流しと水道の蛇口はあるが男は水はどうしているのか、と首を傾げたがそこへ奥から足音が聞こえてきた。

「お客さん、珍しいね。いらっしゃい」

 女は年齢は三十ほどで、真ん中に分けた黒い髪を腰まで伸ばし、黒いデニムを履き、薄い青色のカーディガンを羽織った細身でやたらと脚が長い印象を与えた。顔立ちはとびっきりの美人と言う訳ではないが、細い眉にはっきりとした大きな眼と高い鼻、ぷっくりとした唇が妙に艶めかしい。

 しかし、男は何処か違和感を覚えた。じろじろと見るのも失礼かと思ったが、女の顔はまるで魚を真正面から見たようにまったくの左右対称のように見えた。それは一瞬の恐怖を抱くものだった。

「何かな」

 女が微笑み問い掛ける。男ははぐらかした。預かった荷物を運ぶと男はテントで寝るからここは使わないと言った。しかし彼女は続けた。

「トイレは向こう、水は濾過装置を使ったものがタンクで各所に。キャンプは火の始末さえしてくれたら良い。寒かったら中を使って、ゲストルームはあるから」

 流しの上に四角い箱がありそこに管が繋がり女が蛇口を捻ると透明な水が出てきた。水の疑問は解けた。女がケトルに注いだ水をレンジに置いた。男をテーブルに促す。

「ハーブティー、淹れようか」

 女がレンジの下のかまどに薪を入れ火をつける。数分後、ケトルから淹れられた湯から広がった芳しい香りがポットから伝わり、マグカップへと湯気と共に肩を解すような味の液体が注がれた。

「お腹空いた? 御馳走するよ」

 男は言葉に甘えて遅めの昼食を呼ばれた。湖で釣れたであろうニジマスの香草焼きときのこのスープだ。溶けたバターが食欲をそそり香草が散らされたそれが湖の糧として主張している。スープのきのこはヒラタケとシメジが主で素朴だが身体があたたまった。

 食べ終えると女は男を服装から釣り客と見抜いていたようで、幾つかの禁止事項を伝えた。

 自分が食べる分だけ釣ったらやめる事。持って帰る分は良い。

 小魚は逃がす事。見分ける事は出来る筈。

 煙草は喫わない事。火事の原因。

「最後に」

 ――最後に?

「夜は釣りをしない事」

 男は途端にやる気を削がれたような気分になった。釣りの楽しみは夜釣りと言って良い程のものを持っているからだ。

「ボートはあるし勝手に釣りに行ってもいいけどね……でも、逃がして。夜の魚は全部湖のものだから」

 女は席を立つとそのまま食器を片付けた。


   ◇   ◇   ◇


 ボートを借りた男は湖の中程まで漕ぎ出すと釣りを始めた。天候は晴れ、風は凪、遠くに鳥の声も聞こえる。至って平和そのものだ。釣り具から取り出した餌にコーンを混ぜて丸めて釣り針に刺して竿をしならせ投げる。しばらく、待つと強いアタリ。男は笑う。その内にヤマメとニジマスが合わせて十匹釣れた。クーラーボックスを見て再び笑う。男は彼女にもお裾分けして食べる分だから良いだろうと釣りを止め休憩をする。荷物を探る。

 出る前に女が年季の入ったアルミの水筒と薄い布と油紙に包んだ何かを渡した。

『荷物持って来てくれた御礼。コーヒーとハムサンド。おやつに食べて』

 それだけ伝えて小屋へ帰って行った。

 男は年甲斐もなくにやけた顔を浮かべて思い出しながらコーヒーを飲み、油紙を開くとサンドウィッチを食べ始めた。少し固いパンにハムとスライスオニオン、辛子も効いて休憩には持って来いだった。

 本来であれば変わり易い天候の山の中の水溜まりに浮かべた木の葉のようなボートの上で食べるのは危険だが、釣果に満足していたのだろう、風が冷たくなっている事にも気付かなかった。山向こう、黒い雲が嗤うように光る。

 雷鳴。

 彼は一瞬で我に返る。湖面を一滴、一滴、一滴と波紋が拡がりやがてそれはまるで機銃掃射のように激しく打ち付ける豪雨となった。

 痛い程の勢いの雨粒を全身に受けながら彼は慌てて岸へとボートを引き返す。陸へ辿り着いた時には全身ずくずくの濡れねずみであった。小屋へ戻ろうとするとレインコートを着た女が裏から出てきた。

「お風呂沸かした。こっちから入って脱いで。水道とシャワーは水。桶があるから湯船から工夫して」

 裏へ回ると女は薪窯に火を入れていた。浴室に繋がった管の先に貯水タンクがあった。男は言葉に甘えて風呂を使った。タイル張りの壁に蛇口にシャワー。男一人が屈んでやっとの浴槽。上部に窓がある。最低限の設備の浴室だが満足だ。備え付けの石鹸があったが泡を流して大丈夫かと窓の外へ問うとこう返ってきた。

「浄化装置がある」

 男が身体を洗い浴槽へ浸かる。熱い湯が冷えた身体に染み渡った。

「着替え置いとく。合うかは解らないけど」

 女の気配がした。満足して風呂場から出るとバスタオルとパジャマがあった。男の着ていた服はなかった。

 男は、下着がないのも落ち着かないな、と思ったが贅沢は言っていられない。リビングへ戻るとストーブに火は入れられてあたたかく男はそれだけで有難かった。女が食事を作っている。男は釣ってきた魚を御礼に使って貰いたいと言うと女は頷いた。

 テーブルにはニジマスと玉ねぎとじゃがいもの白シチューときのこが入ったスクランブルエッグ、男は夢中で貪った。

「落ち着いて食べて。逃げる訳じゃないんだから」

 女は微笑む。

 食べ終えると女はマグカップを差し出すと棚からラム酒を出し少し注ぎ黒糖とシナモンを入れ熱湯を注いだ。ふわっ、と甘い香りが広がると男はちびちびとやり始めた。やさしく落ち着くような味わいのグロッグだった。身体が食事以外の熱量を持ち始め徐々に一日の疲れが襲って眠気が身体を覆ってきた。

「ゲストルームは、向こう」

 女の言う通りゲストルームへ行きベッドに倒れ込むとあっと言う間に夢の中へと旅立って行った。


   ◇   ◇   ◇


 深夜、雨のにおいも気配も音も消えて男は静寂に目覚めた。流しで水を飲み、外履きのサンダルがあったので履いて湖の様子を見に出てきた。雲が晴れて満月が浮かび外気は冷たく車に着替えを取りに行き着込んだ。

 ――何が夜に釣りは禁止だ、夜釣りをしに来たんだ。

 男の頭の中は最早釣り上げた魚の姿に支配されていた。ランタンと釣り具、餌を持ってボートに乗り込む。遠い岸の向こうからフクロウの鳴き声が聞こえる。星の霞む月の空の下、湖に波紋が一つ。男はじっと釣り糸の感触を手繰っていた。

 きゅう、と釣り竿がしなった。大物だ。いや、おかしい。

 一気にボートが傾ぎそうになる。それでも、男は釣り糸を切られないように必死だった。鳥の羽ばたく音、波立つ音、やがて釣り竿はずるりと勢いよく水底へ呑み込まれた。

 ――しまった。

 男がボートから身を乗り出すとそこには揺らめく光が二つ見えた。それは深くに、徐々に浮かび上がり、二つの光る眼となった。そして湖面に何かが浮上した。

 魚の鱗に覆われた――女だ。

 徐々に水面に身体を浮かべて波一つ立てないように立っていた。その身体は裸ながらも青い鱗が月光を反射させて生の脈動を自らなくしているようでそれでいて視線の離せない引き込まれる美しさをもっていた。

 眼は義眼のように白く、びっしりと手足、胸、腹、脚に生えた鱗が存在感を示していた。

 〝それ〟が口を開ける。びっしりと生え揃った鋭い牙が見えた。

 男は声にならない叫びをあげて必死にボートを出鱈目に漕いでやっとの思いで岸に辿り着いた。

 震えながら小屋に入りゲストルームの布団に包まる。

 ――あれはなんだ、あれはなんだ、あれは、なんだ……?

 やがて、小屋の扉が開く音がした。そうだ、この小屋には鍵がない。

 足音が近付いてくる。やがて、扉が開き、男の元へ。濡れた足音。一歩ずつ、一歩ずつ。

 男は狸寝入りをしようとしたが震えている。耳元に気配。

「約束、破ったね」

 ――〝彼女〟の声だった。

 気が付けば気配もなくなり男はいつしか意識を手放していた。


   ◇   ◇   ◇


 翌朝、恐る恐るリビングに行くと彼女が朝食の用意をしていた。

「おはよう。眠れた?」

 曖昧な返事をして朝食を食べる。昨日のシチューの残りとパンと既製品のオレンジジュースだった。

 食べ終えると足下に違和感を覚えた。濡れている。濡れているのだ。

「あなた。釣りが好きなんだね」

 床は浸水と言って良い程に水が入ってきた。男が椅子から立ち上がる。彼女は笑っている。

 ――逃げないと、危ない。

「逃げられないよ」

 扉から勢いよく水が入ってきた。男は身を取られるも彼女は笑って椅子に座っている。しかしながら、何故か家具は浮きはしていない。机の上の皿も、カップも浮かび上がらない。まるで、元から生えていたかのように、根が張っていたかのように。

 水の中で男が藻掻く。眼に見えるのは彼女――服が溶けるように消えたそれは、全身に魚の鱗がびっしりと生えた昨夜の〝それ〟だった。

 やがて、小屋が湖に沈む音が男に聞こえた。死んだのかと思ったが呼吸が出来る。彼女がこちらへ泳いできた。笑っている。その姿が徐々に大きく見える。彼女が開いた扉から男を外へ出す。

 男は小魚になっていた。水中を自由に泳ぐ。身体が軽い。泳げる。泳ぐとは、泳……やがて、人間であった記憶が薄れてきた。男だった魚は湖面に跳ねて消えていった。


   ◇   ◇   ◇


「すいませーん、荷物でーす」

 宅配の青年が小屋へと声をかける。

「こっちだよ」

 裏から彼女が顔を出す。つなぎを着て軍手をして頬には機械油がついている。

「裏でしたか。ところで、この間のお客さんは……」

「多分、湖底だろうね。結局、駄目で警察も引き上げたよ」

「うわあ、嫌だなあ」

「家族も来たけど冷めたものだったよ。釣りバカが迷惑かけましたって」

「ひええ……あ、ハンコお願いします」

「サインでいいかな」

 彼女が軍手を外す。

「いいですよ。ハイ、まいどありー」

 季節は進み冬の足音が聞こえる頃、彼女は宅配の青年の自家用車に乗せて貰い冬ごもりの為に町へ出る。備蓄品の小麦粉や塩や砂糖などの食料、缶詰に予備の暖房用の灯油、ラジオ用の電池、たっぷりのクロスワードパズルの本。生理用品に解熱薬や痛み止めなどの医薬品。

 青年と手分けして荷物を車に彼女が詰め込んでいく。

「こんなもんかな、済まないね」

「いいんですよ、お互い様です」

 宅配の青年が笑う。ふと、見ると見知った親子連れが会釈して近付いてきた。

「みずうみのおねーちゃん!」

「はい、今日は。良い子かな」

「いいこだよ、ねえ、またおさかなみにいっていい?」

 母親が子供を窘める。

「こら、理香。お姉ちゃんに迷惑でしょ、それに……」

「解ってますよ事故が」

「じこ?」

 子供が首を傾げる。彼女と母親が小さな声で話し合う。

「また、春になって落ち着いたら……」

「すみませんねえ。ほら、お姉ちゃんにバイバイ」

「バイバーイ!」

 子供は元気に手を振って向こうへ去って行った。青年がそれを見てしみじみと漏らす

「いやあ、いいもんですね。子供……俺も欲しいな」

「それはプロポーズかい」

「へっ!?」

「ふふっ、冗談」

「いやだなあ……」

 買い物を終えて小屋に帰った彼女は青年の車を見届ける。

 陽が落ち浴室の窓から湯気が上る。風呂から出ると裸のまま小屋を出て湖に足を入れる。足下から全身に魚の鱗が生えていき、そして水の中へ身を預ける。影だけが音もなく滑っていった。

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