日曜日2
「ねぇ、湊から見た恵理って、どんな人だったの?」
少し時間が経って、気持ちが落ち着いた頃、結衣が静かに問いかけてきた。
なぜ結衣が恵理を知っているのかはまだ聞けない。 でも、彼女が恵理のことを人一倍理解しているのは確かだ。
中学一年生のとき、恵理は新しい友達ができたと話していた。その友達こそ、結衣に違いない。今の結衣の言動には、恵理の面影がはっきりと現れているのだから。
「病気を抱えているはずなのに、いつも笑っていて。生きることを心から楽しんでいる人だったよ」
あの日の中庭。父の見舞いに来て、母とはぐれて途方に暮れていた俺に手を差し伸べたのが、桜庭恵理だった。まだ小学校にも上がっていない幼さだったのに。
その笑顔に、俺は初めて救われたんだ。
「だよね。恵理の笑顔を見るだけで、元気が湧いてくる」
結衣はにこりとほほ笑む。
「うん、私も同じ。絶対に異論はないよ。それに、この世で一番の美少女だし……あっ、二番目はわたしね」
絶対に、これは恵理の影響――いや、悪影響だよな。指摘したほうが良いのだろうか、それとも、しないほうが良いのだろうか、さっぱり分からない。
でも、そんなことよりも、気にするべきことがある。
『わたしはそう決めたから、絶対に逃げないでよ』
さきほど、結衣はこんなことを言っていたのだ。なのに、あれから最初にしたのは、恵理を褒めること。自画自賛を除けば言っていることは正しかったのだが、今そんなことを言う理由が見当たらない。
まぁ、恵理を褒める言葉を聞くのは、悪い気分じゃないからいいけど。
「それで、帰っていいか?仕事も終わったことだし、家でゆっくりしたいんだけどな」
「ちょ、ちょっと待って。ごめんって、つい恵理について話せる人と出会ったから、気持ちが暴走したんだよ」
はぁ、そんな理由だったのか。それなら、昔からいる看護師とかでもいいだろ……。
そう思ったが、ここにいる看護師たちは、忙しそうであり、結衣とも年齢が離れている。だけど、俺は恵理のことを知っている上に、話す時間はいくらでもあり、結衣とも同年代だ。それならば、恵理について話したい気持ちが暴走したのも理解できる。
「……分かったよ、今日の間はここにいる」
あの時に自分がしてしまったことを後悔しながら、何とか表向きは平静に保って言葉を口にした。
その返事を聞いた結衣は、満足げに笑みを浮かべ、俺が長い間、心の底でくすぶらせてきた疑問をあっさりと口にした。
「よかったー。……まあ、今の会話も無駄じゃないんだよ」
結衣は少し間を置き、真っ直ぐな声で続ける。
「だって、湊も恵理のことをちゃんと理解してるなら、彼女が自殺なんてするはずがないって、分かりきってるでしょ」
「それは……」
そう、ずっと疑問に思っていた。恵理は最後の瞬間までずっと笑っていたし、キリスト教徒である以上自殺することがどういうことなのか理解しているはずだ。また、自殺なのに、遺書といったものは発見されておらず、不可解な点はとても多い。
だけど、あの時の状況的には、自殺以外の可能性は考えにくいのだ。恵理は、足腰が不自由であり、そのせいで歩行器が無いと歩くことすら出来ない。そんな状態なのに、歩行器を使わずに窓の近くまで行く理由は見当たらないし、歩行器があるにも関わず、窓から誤って墜落するなど考えられない。
「でも、状況的には……」
だからこそ、それでも警察は自殺と断定し、キリスト教徒ではない人たちが来世では元気な身体で幸せに過ごしているよと軽々しく言ってくる。
キリスト教徒の恵理が、そんなことを信じるはずがないのに。
「あっ、言い忘れてたけど、これからわたしと話すときは、でもって言葉は禁止ね。そういう言葉嫌いだから」
「だけど」
「それも禁止」
「しかし」
「それも」
「……じゃあ何て言えばいいんだよ」
そもそも、なんで結衣の言葉に従わないといけないんだ。自分の言葉くらい、自分で決めていいだろう。
そう思っていたのだが、結衣が言った言葉を聞くと、何も言い返すことが出来なかった。
「自分自身の気持ちを行ったらいいんだよ。だって、湊の言葉は、周りの人がそう言ったからとか、自分にはそんな資格が無いとか、そういう鎖でがんじがらめになってるじゃん。そんなの、聞いててもつまらないよ」
その言葉は、俺のことを的確に表していた。俺は、常に何かに縛られていて、自分自身の意志で話したり行動したりすることが出来ない――そうするつもりもない。
ただ、結衣にとっては、その事実はとても気に食わないらしい。いや、きっと結衣以外もそんな印象を受けるはずだ。だって、話している相手が、本心から話していないと気付いた時、誰だっていい顔をしないはずだから。
「それで、湊は恵理の自殺に納得しているの?」
もう、誤魔化すことは出来ない。ここで、また本心では思っていないことを言って。結衣が失望して何処かへ行くのなら、喜んでそうするが、結衣はきっと俺の本心を聞くまで付きまとうことになるだろう。それだけは、ごめんだ。
ただ、俺の本心を言っていいのだろうか、その資格……いや、これは駄目だったんだな。
「……納得しているわけないだろ。恵理は、生まれたことをずっと感謝してて、命を自分から捨てるようなことをしない人物だ。大人たちは、そんなことも知らないで、見当違いなことばっか言ってくるけど、俺はその言葉を認めたくない」
少しの沈黙の後、俺は本心を口にした。それは、ずっと思っていながらも、決して他人に言わなかったこと。口にした瞬間、胸の奥に絡みついていた重い鎖が、ひとつ外れたような気がした。
「やっぱし、ちゃんと自分の気持ちを言えるじゃんか」
結衣は目尻をやわらかく下げ、肩の力を抜いたように笑った。その笑顔は、今の言葉がまさに彼女の求めていたものだと物語っている。
「……それで、これからどうするんだ?」
久しぶりに本心を言ったことが恥ずかしくて、視線を逸らしながら話題を変えた。それに、俺のことを救うと言っていた結衣が、これからどのような行動をするのか興味がある。もっとも救いなんて、俺には必要ないけどな。
その言葉を聞いた結衣は、少し考えた様子を見せた後、手を叩いて口を開いた。
「そうだね……まずは、事務窓口に行こうか。ほら、湊、早く車椅子を押して」
「は? なんで事務窓口なんだよ」
思わず眉をひそめると、結衣は悪戯っぽく笑った。
「決まってるでしょ。恵理のことを、もう一度わたしたちの目で確かめるためだよ」
「もう一度……?」
「そう。あの日の病棟の記録、掲示物、設備の注意メモ。全部、残ってるはず。それに、警察の人たちと違って、わたしたちは恵理がどんな人か知っている。だから、あれが自殺じゃないって分かるまで、足掻くことが出来る」
足掻く――その言葉が、胸の奥に小さく引っかかった。俺は眉を寄せたまま、少し黙り込む。
「……そんなことして、何が変わるんだ」
「少なくても、湊の罪悪感が見当違いの物だったことは証明できるよ。……それに、わたしの予想が正しければ」
結衣の言葉の後半はとても小さな声であり、うまく聞き取ることが出来なかった。
「……予想?」
思わず聞き返すと、結衣は、なんでもないと首を振り、車椅子の背を軽く叩いた。
「ほら、行くよ。今ここで悩んだとしても、何も変わらないんだから」
渋々ハンドルを握り、結衣の指示通りに車椅子を押し出す。廊下の先、事務窓口のガラス越しに、書類を整理する職員の姿が見えた。
結衣は迷いなく近づき、明るい声で切り出す。
「すみません。数年前の病棟記録と安全管理の掲示物を確認したいんですが、その書類をいただいてよろしいでしょうか?」
職員は一瞬だけ目を細め、俺と結衣を見比べた。その視線は冷たく、俺たちの面倒な頼みを嫌がっていることは理解できたが、それでも患者の願いには最低限付き合ってくれるらしい。
「個人情報には触れられませんが、安全管理に関わる記録なら閲覧は可能です」
そう言って、職員は昔の書類が保管されている小部屋まで案内してくれた。
扉を開けると、薄暗い空間に紙とインクの匂いがこもり、棚やファイルの端にはうっすらと埃が積もっている。長い間、誰の手も入っていないのが一目で分かった。
こんな場所に長くいるのは、心肺機能の弱い結衣には負担が大きいだろう。
「結衣、これを着けておけ」
偶然持っていたマスクを差し出すと、結衣は素直に「ありがとう」と受け取り、耳に掛けた。その仕草はいつも通り軽やかだったが、薄暗い部屋の中で見ると、どこか頼りなく映る。
「この中に、あなた方が探している書類があるはずです。私は他の仕事がありますので、ここから離れますが、この部屋の書類は絶対に持ち出さないでください。それに加えて、退出の際は、この鍵で必ず戸締まりをしてください。あぁ、監視カメラが付いているので、違反をした場合はすぐに判明しますよ」
そう言って、職員は俺に鍵を手渡し、足早に去っていった。おそらく病院の規則では、こんな形で鍵を渡すのは許されないのだろう。
それでも、俺たちの頼みに応じてくれたのは、きっと結衣の真剣な眼差しがあったからだろう。
「それじゃあ、あの日の書類を探していこうか」
結衣の掛け声とともに、あの日――恵理が死んだ日に関する記録を探していく。アレは、三年くらい前のことであり、まだ保存されているかもわからないが、結衣の声に合わせて、俺は棚の背表紙を慎重にひとつずつ確かめていった。
二千〇〇年〇月〇日
二千△△年△月△日
……
たくさんのファイルを見ていくが、探しているファイルが見つかる気配が無い。しかし、ファイルを一つ取るたびに、付着していた埃が中に漂ってしまうため、こんな薄暗い部屋で長時間探し物をするのは、結衣の体にはあまり良くなかった。
俺は咳払いをひとつして、舞い上がった埃を手で払う。
「……結衣、あまり深く呼吸するなよ」
「大丈夫。マスクしてるし、それに……」
結衣は、優しい目つきをしてファイルを撫でる。
「もう少しで、恵理の死の真相がわかるかもしれないんだ。そう簡単に諦められないよ。……何個か仮説は立てていたけど、それがやっと証明できるかもしれないんだからさ」
「……そうか」
結衣の言葉には、並々ではない決意が含まれていて、止めることは出来そうにも無かった。それならば、出来るだけ早くあの日の書類を見つけて、結衣をこの部屋から出させないといけない。
「俺は高いところを探すから、結衣は低いところを頼む。後、しんどくなったら、しっかり言えよ」
「湊は心配性だなー。分かったよ、しんどくなったら、正直に言う」
そうして二人は、埃をかぶったファイルを一つずつ手に取り、黙々と探し始めた。
そのとき――ふと、視界の端に異質な背表紙が映る。
湊の視線は、自然とそこに吸い寄せられた。他のファイルよりわずかに色褪せ、端のラベルは黄ばみ、角がめくれかけている。だが奇妙なことに、そのファイルだけは埃がほとんど積もっていなかった。両隣や上下のファイルは厚く埃をまとっているのに、そこだけが何度も手に取られた痕跡を残している。
背表紙には、手書きでこう記されていた。
――「事故報告書・安全管理記録 ○○病棟 平成××年8月」
指先が自然と伸び、背表紙に触れた瞬間、薄く積もった埃がふわりと舞い上がる。胸の奥がざわつく。この日付、この病棟――間違いない。恵理が落ちた、あの日の記録だ。
「……結衣」
呼びかけると、彼女はすぐにこちらを向き、俺の手元を見て息を呑んだ。
「見つけたの?」
「ああ」
喉がひりつく。口の中が渇き、舌が上手く回らない。ページを開く前から、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
「開けるぞ」
結衣が俺がいるところまで近づいてきたことを確認して、俺はゆっくりと表紙をめくった。
古びた紙の匂いが鼻を刺し、インクのかすれた文字が視界に流れ込んでくる。最初の数ページは定型の報告様式――事故発生日時、場所、関係者の氏名。
指先がわずかに震え、紙の端をめくる音がやけに大きく響いた。
「おかしいところは見当たらないね」
「そうだな……」
そのファイルには、特筆すべき文章も無く、ただの言葉の羅列が続いていた。
天候――晴
時間――十四時三十六分
風向――東南
風速――平均7.2、最大瞬間12.8
数字の並びが、ただの記号ではなく、あの午後の空気の重さを運んでくる。ページの余白に、細い字で追記があった。
――当日、東棟五階は換気のため窓開放。レースカーテンは束ねられたまま固定不十分
「あの時は、最初から窓が開いていた?」
結衣が欄外の追記を指でなぞった。
「記録上はね。このおかげで、事故の可能性が出て来たけど、それは誤差の範囲。まだ自殺をいう死因を覆すことは出来ないね」
俺は唇を噛んだ。紙の繊維のざらつきが、人差し指の腹に残る。
「……そうだな。これだけじゃ、たまたま開いてた窓って話で終わる」
結衣は、その言葉に小さく頷き、ページの下端を親指で押さえたまま、視線だけを次の欄へ滑らせる。
「これは……」
湊が息を止めたまま、視線を欄外の文字に吸い寄せる。ページの余白に小さく書かれた三項目。
設備――正常。
当日の患者の精神状態――極めて良好。しかし、何かを隠している気配あり。
遺書――無し。しかし、ベッド付近にペンが落ちていたため、存在している可能性あり。
古びた紙の匂いがゆるやかに揺らぎ、部屋の空気がいっそう重たく感じられる。結衣は親指でその行を押さえ、低く息を吐いた。
「なるほどね。恵理の死因が自殺だと推測された原因には、この内容もあったんだ」
そう。何かを隠している気配、それに遺書が存在している可能性があると言うこと。これは、単独だと自殺と結び付けることはしにくいが、恵理の体などの複数のことと組み合わせることで、自殺だと推測された理由になることが出来る品物だ。
そして……俺は、恵理が何かを隠していることを、気付くことが出来なかった。あれだけ、小学校にもいかない年齢から関わっているにも関わらず。
それが、どんなに悔しく、辛いことなのか。ずっと一緒にいたはずだろ、どうして俺は気付かない。
そう、自分自身を責めていた時だった。
「この何かを隠していた気配については気にしなくていいと思うよ。心当たりがある」
そう言って、結衣は次のページをめくり始めた。だけど。俺はその言葉に納得できるはずがない。
「ま、待てよ。何で気にしなくていいって言いきれるんだ?それは、俺でも気づかなかったことだぞ」
結衣がどれだけ恵理と関わってきたのかは知らない。だけど、俺には彼女と十数年関わってきたという自負がある。
でも、気付くことが出来なかった恵理の隠し事。それに、心当たりがあって、自殺に関係が無いという。そんなこと、納得できるわけないだろう。しかも、碌な説明も無い。それさえあれば、まだ話は違ってくるのに。
「ごめん。いずれ絶対に言うから。それまで待ってて」
なのに、結衣は待っててというだけで、教えてくれなかった。何で、どうして、頭の中に数多の疑問が浮かび上がってくるそれでも、結衣は教えてくれない。
俺は、恵理の何を知っていたのだろうか。結衣という友達のことも知らなかったし、何かを隠していることにさえ気づくことが出来なかった。まるで、今まで俺が見ていたのは、恵理の表面的な部分だけなのだろうか。
そんな考えた瞬間、結衣の鋭い声が胸に突き刺さった。
「それは違う。恵理のことを一番知っているのは湊だし、恵理にとっての一番も湊だよ。恵理が隠し事をしていたのは、それが湊に知られたら意味が無くなってしまうことだからなんだ。だから、自信を持って」
その言葉に対して、何も言うことが出来なかった。俺に知られたら意味が無くなる――その言葉の意味を何一つ理解することが出来ず、思考が停止してしまう。
だけど、今の結衣の表情を見えると、そのことに対する説明はしてくれないように思えた。まぁ、いずれ絶対に言うと言っていたから、そのうち説明してくれるのだと思うが、それでも頭の片隅にその疑問は残り続けてしまう。
「……いつか説明してくれるんだよな」
「うん、絶対に。神様にだって誓えるよ」
その一言で、俺はそれ以上追及するのをやめた。恵理が隠していたことについては、しばらく待つしかない――そう思えたからだ。
俺たちにとって「神様に誓う」という言葉は、軽々しく口にできるものではない。恵理という立派なキリスト教徒を知っているから、その言葉は嘘やごまかしを許さない、重くて揺るぎない約束の証だった。
こういう時に、神というのは役に立つ。……心の底から認めたくないけど。
「次のページに行くよ」
「ああ」
結衣は、ためらいなく紙の端をつまみ、ゆっくりとめくった。古びた紙の擦れる音が、薄暗い部屋の中でやけに大きく響く。
次のページには、事故前の詳細な経過記録と、関係者の聞き取りメモがびっしりと並んでいた。
……
……
……
「うーん、これでは自殺か、事故か、どちらか判別できないね……」
そう。経過記録や関係者の聞き取りでは、目新しい物は無く、自殺とも事故とも言い切ることが出来ない微妙な証拠だらけであったのだ。これだけでは、新たな情報など一切得ることが出来ないまま終わってしまう。
結衣はしばらく黙ってページを見つめていたが、やがて小さく息を吐き、ファイルから視線を外した。
「……でも、これで終わりじゃないよ。このファイルのおかげで、調べなければならないものができた」
「調べなければならないもの?」
そんなものはあったのだろうか。一緒にファイルを呼んでいたはずなのに、俺にはそれが見当もつかなかった。
やっぱり、結衣と俺とでは、見ている物が違うのだろうか。……それとも、ただ単に俺の能力が低くて、ちょっとした違和感に気付けていないだけなのだろうか。学校の成績は悪くないんだけどな。
そんなことを考えていると、結衣がファイルのページを戻していき、一度見たとある文章を指さした。
『遺書――無し。しかし、ベッド付近にペンが落ちていたため、存在している可能性あり』
それは、最初の方にあった文章。確か、これは結衣が気にしなくていいと言っていたものだったんじゃないのか。
「これが……?」
「うん。わたしは恵理が隠していた物については心当たりがあるけど、このペンについては心当たりが何一つない。恵理のことだから、遺書とかは書いていないだろうし、何にペンを使ったのかさっぱり見当つかないよ」
結衣はそう言いながら、指先でその一文を軽く叩いた。
「だからこそ、これは調べる価値がある。だって、ペンを落ち経ったということは、それを使ったということ。そして、文字という痕跡を残したということなんだよ。その痕跡を知ることさえできれば、恵理の死の真相、そして最後の瞬間まで何を思って生きていたのか分かるかもしれない」
俺はその言葉に、思わず息を呑んだ。
「……でも、その痕跡って、もう残ってないんじゃないのか?」
自分でも弱気な声だと分かる。せっかく光明が見えたのにも関わらず、それを俺自身が否定するなんて、恵理の死の真相を探っていらう俺たちがしてはいけないことだろう。
その言葉を受けて、結衣は首を横に振った。
「分からないよ。病棟の備品管理記録や、当時の清掃記録、巡回していた看護師の証言……探せば、まだ何か残っているかもしれない」
彼女の目は真剣そのもので、冗談や希望的観測ではないことが伝わってくる。その熱意を受けて、俺も希望的観測を持ち、もう一度気を引き締めて恵理の痕跡を探そうとした瞬間だった。
ガチャリと音を立ててドアが開く。そのドアを押し開けた人物は、俺たちをここに案内してくれた職員ではなかった。薄暗い部屋の外から差し込む光の中に立っていたのは、白衣姿の看護師の女性だった。
その看護師は、昨日のボランティアで最初に出会った看護師で、確か……佐伯という名前だったはずだ。
その看護師は、この部屋の中に入った瞬間、白衣の袖を使って口を覆いながら結衣に向かって、声を掛けた。
「……こんな埃っぽいところに長くいたら、体に障るでしょう」
佐伯は眉をひそめ、結衣の顔色を一瞥した。その視線は、ただの気遣いというより、彼女の体調を本気で案じているようだった。
「大丈夫です、マスクもしていますし」
結衣はそう答えたが、佐伯は納得していない様子で、俺と結衣の間に視線を往復させる。
「そういう問題ではありません。貴方の体は常人よりもずっと弱いのですから、今すぐにそこを出てください。それは、風間君も同様です。貴方なんてマスクをしていないでしょう。自分の体は丈夫だから問題ないと思っているのかもしれませんが、それは大間違いなのでこの部屋から出なさい」
佐伯の声は、拒否することが出来ないほど力強く鋭い声だった。しかも、話した内容も反論できないほど正しいことばかりで、その言葉に従うしか選択肢は残されていない。
結衣も、何とかもう少しこの部屋に残ることが出来ないかと抗おうとしていたのだが、佐伯の鋭い眼光に見つめられているこの状況では、それすら叶えることが出来なかった。
「結衣、今日はこれで終わりだ。戻るぞ」
そう言って、俺は結衣の車椅子のハンドルを握り、ゆっくりと回れ右をさせた。結衣はまだ未練がましくファイル棚の方へ視線を残していたが、俺の手の動きに逆らうことはしなかった。
佐伯はそんな結衣の様子を横目で見ながら、短く息を吐く。
「続きは、もっと空気のいい場所でやりなさい。記録は逃げないわ」
その言葉は叱責というより、どこか諭すような響きを帯びていた。
廊下に出ると、蛍光灯の白い光と消毒液の匂いが、さっきまでの埃っぽい空気を一気に洗い流していく。
「……ごめん、湊」
背中越しに結衣の小さな声が届く。
「もう少しで何か掴めそうだったのに」
「いいさ。まだ終わりじゃない」
俺はそう返しながら、心の中で自分にも言い聞かせていた。今日のところは退くしかない。だが、あのペンの謎も、恵理の最後の時間も、必ず突き止める――その決意だけは、埃にまみれても揺らぐことはなかった。
*
「そう、貴方達はこのファイルを見つけたのね」
二人が部屋から去った後、ただ一人部屋に残っている佐伯は、テーブルの上に置かれているファイルを見つめながらそう呟いていた。
その様子は、まるで、長い間胸の奥にしまい込んでいた何かが、静かに顔を覗かせたようだった。
佐伯はゆっくりと椅子に腰を下ろし、指先でファイルの表紙をなぞる。その動きには、懐かしさと、わずかな躊躇が混じっていた。
「……あの日のことを、まだ追いかける人がいるなんて」
小さく漏らした声は、誰に向けたものでもない。だが、その瞳の奥には、確かにあの日の光景が焼き付いているようだった。
ページを一枚めくる。
古びた紙の匂いが立ち上り、埃がふわりと舞う。佐伯の視線は、ある一行で止まった。
――遺書無し。しかし、ベッド付近にペンが落ちていたため、存在している可能性あり。
その文字を見つめながら、佐伯は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「……あれは、遺書なんかじゃなかったのに」
その呟きは、薄暗い部屋の中で静かに溶けていった。
そして佐伯は、ファイルを閉じると、何かを決意したように立ち上がった。
「……話すべき時が来たのかもしれない。でも、彼はこの内容を受け止めきれないかもしれない。どうすれば、いいのかな」
廊下の向こう、結衣と湊の背中を思い浮かべながら、佐伯は静かに部屋を後にした。




