日曜日1
じりじりじり――
目覚まし時計の電子音で、現実に引き戻される。視界を侵食してきていた赤色は、跡形も無く消え去っているし、耳の奥まで届く不愉快な言葉も無くなった。
「今何時だ……?」
手元にある目覚まし時計を確認する。そこには、午前八時二十八分と書かれていた。
そういえば昨日、病院から帰ってきたあとは、昼寝をして、起きては食べ、また眠る――その繰り返しだった。そのせいで、気づけばこんな時間になってしまっている。
まあ、今日は日曜日だし、特に予定は……
『明日、絶対に来てよ。わたしは、ここで待ってるからね』
あった。
しまった。昨日の約束のせいで、九時には病院についていないといけないんだった。今から家を出ても、その時間には間に合うが、ゆっくりしていると確実に遅刻をしてしまう。もし、遅刻をしてしまうと、あの看護師や結衣から何を言われるのか分からない。
急いで服を着替えて、階段を下りる。
「えっ?湊、どうしたの?朝ご飯は用意してあるよ」
「ごめん、母さん。約束があるから、朝食を食べる時間が無い。ほんっとうにごめん」
その言葉だけを残して、急いで玄関の扉を開ける。夏の強い日差しが肌を刺すように降り注ぐが、そんなことを気にしている暇など無い。
俺は急いで自転車の鍵を開け、全力で足を回した。
額から流れ落ちる汗が首まで伝い、シャツが背中に張り付いてきて気持ち悪い。なんで朝なのに、こんなにも暑いのだろうか。本当に夏は嫌いだ。地球はさっさと猫背を直せ。
「はぁ……はぁ……」
なんで起きてすぐ、こんな全力疾走をしないといけないのだろうか。これも全部、結衣のせいだ。今日会った時に、絶対に文句を言ってやる。
約束を忘れて寝坊しかけた自分のことを棚に上げ、頭の中は結衣への不満でいっぱいだった。
そんなことを考えていると、ようやく病院の白い外壁が見えてくる。あと少し、あと少しで冷房がある待合室にまで辿り着くことが出来る。そこまで行けば、勝ったも同然だ。
誰とも戦ってはいないのだが、俺の頭の中はそれでいっぱいだった。
「やっと着いた……」
何とか、約束の時間の十分前に、病院に辿り着くことが出来た。待合室に入った途端、外の地獄のような熱気とは違う、からっとした冷たい空気が身を包み、熱くなった身体を冷やしてくれる。
しかし、それは一瞬のことであった。
「あっ、やっときた!おーい、こっちだよー」
待合室の端っこで、結衣とあの看護師が俺のことを呼んでいた。そういえば、俺が九時集合になった理由は、あの看護師に仕事の手伝いをさせられるからだったよな。つまり、この体力を使い果たした状態で、看護師の仕事を手伝わなければならないのか。それはもう、地獄と大差ない。
俺は、いやいや結衣がいるところまで歩いていく。結衣は車椅子に座ったまま、にやにやと俺を見上げて来た。
「遅刻しなくてよかったじゃん。ほら、今日は私も一緒に手伝うから」
「……は? お前も?」
「そう。二人でやれば早く終わるでしょ?」
そう言って、結衣は悪戯っぽく笑った。何がそんなに楽しいのか、何が面白いのか、俺にはさっぱり分からない。
その笑顔は、まるでこれから遊びに行く前の子どものように無邪気であり、同年代であるはずの結衣が、ずいぶんと年下の子供の様に感じられた。
「じゃあこれお願いね」
看護師が俺たちの前に、分厚いファイルの束と丸められた掲示物を置いた。
「まずは、この書類を検査室まで運んで、そのあと廊下の掲示物を張り替えてくれる?。場所は結衣ちゃんが知ってるから」
看護師はそれだけ言い残し、すぐに自分の仕事へ戻っていった。残されたのは、目の前に積まれた書類の束と、予想よりも多い掲示物のプリント。今からこれを全部やるのかと思うと、気が遠くなる。
はぁ……この調子じゃ何時に帰れるのか分からない。しかも、この仕事が終わったとしても、どうせ結衣が「もっと話そう」なんて言い出すに決まっている。
そう考えると、肩が自然と重くなった。
「ぼーっとしている時間は無いよ。まずは、書類を検査室に持って行こうよ。ほら、車椅子を押して」
結衣は、書類の束を膝で抱えて、大事そうに両手で押さえていた。その様子は、まるでこれから始まる作業を楽しんでいるかのようで、俺にはこの仕事のどこに楽しい要素があるのか、さっぱり分からなかった。
「ほら、早く。検査室は、あっちだから」
「はいはい……」
結衣に促されるまま、車椅子を押して廊下へ出る。消毒液の匂いが鼻をつき、遠くからナースコールの電子音が響いて、 すれ違う看護師や患者が、結衣に笑顔で挨拶をしていく。
――どうやら、彼女はこの病院の人気者らしい。
まぁ、それも当然だ。常に笑顔で明るい人間がいれば、病院のような少し暗い空気の漂う場所では、それだけで周囲の空気が和らぐのだから。
「ここか」
しばらく歩いて、検査室にたどり着く。部屋の中には無数のファイルと、用途の分からない機械が並んでいた。金属の匂いと紙の匂いが混ざり合い、独特の空気を作っている。
「すみませーん、書類を届けに来ましたー」
中から白衣姿の職員が顔を出し、「ああ、ありがとう」と笑顔で受け取ってくれた。結衣は「どういたしまして」と、まるで自分が全部運んだかのように胸を張る。……車椅子を押しているのは、俺なんだけどな。
「じゃ、次は掲示板だね。すぐに行こう」
「そうだな」
そうして、俺たちは再び廊下へ出た。何が楽しいのかわからないけど、その間の結衣はずっと笑顔で、はしゃいでいた。車椅子で生活するほど身体が良くない人が、どうしてここまで笑えるのか――俺には、ずっと理解できなかった。
「なぁ」
口に出すべきじゃないかもしれないと思いながらも、言葉がこぼれる。
「なんで、車椅子で生活をしているんだ?」
結衣は視線を前に向けたまま、少し柔らかい声で答えた。
「それはね、わたしは生まれつき心肺機能が低いんだ。だから、長く歩いたり立ちっぱなしでいると、すぐに息が苦しくなっちゃうの」
それは、とても辛いことであり、日常生活の多くを制限されることでもあった。俺ならきっと、そんな状況を笑顔で受け入れるなんてできないだろう。
なのに、結衣は笑うことが出来ている。
「……なんで、笑っていられるんだ?」
その質問に、結衣はいつも通り笑って、胸を張りながら答えた。
「だって、せっかく生まれたんだから、楽しまないと損じゃんか。……まぁ、これは友達から教えてもらった考えだし、身体のことを考えると、笑うことはあまりよくないんだけどね」
冗談めかしているのに、その声の奥には揺るがない芯があった。笑うことが負担になると分かっていても、それでも笑うことを選んでいる。
俺には、その笑顔が、とても尊く、そして眩しいもののように思えた。
「凄いな……」
薄い言葉だ。物足りない。だけど、他に何も出てこなかった。俺みたいな人間にとって、結衣みたいに前を向いて生きている人は、眩しすぎて、まるで別の世界の住人みたいだ。
そもそも、結衣は俺のような罪人と関わるべきではない。
明るくて、前を向いている――恵理のような人物が、隣に相応しい。
そう思えば思うほど、胸の内側がぎゅっと縮こまる。そこに指を差し入れられたら、簡単に崩れてしまいそうで、息を浅くする。
不意に、結衣の手が伸びてきて、俺の頬を軽く突いた。薄い指先が触れたところに、体温が残る。
「ちょ、なんだよ。急に」
「笑顔じゃないから」
何を言っているのか分からない。
「……どういうことだよ」
「だって、湊って出会ってから一度も笑ったことが無いんだよ。こんな美少女と話すことが出来ているのに」
「……自分で言うか、それ」
思わず呆れた声が出る。自分に自信を持つのは良いことだし、美少女って評価は間違ってはいないと思うが、それを自分で追うのはどうなんだ。
「事実でしょ?」
結衣は悪びれもせず、にやりと笑う。
「美少女が笑ってって言ってるんだから、いい加減笑ってよね」
「……俺に笑う資格なんて無いよ」
ずっと、心の奥底で思っていた言葉を口に出してしまう。言うつもりじゃなかったのに。
結衣は一瞬だけ目を瞬かせた。すぐに真顔になり、俺の顔をまっすぐ見た。
「笑うのに、資格なんていらないよ」
「でも、俺はっ……」
言いかけた言葉を、結衣が軽く遮った。
「そんなことより、掲示物を張り替えに行こうよ」
その声は、いつもの明るさを取り戻していた。まるで、俺の胸の奥に沈んだ何かを、そっと見なかったことにしてくれるかのように。
「あ、ああ……」
その明るさにあっけにとられ、こんな返事しか言うことが出来なかった。でも、さっきまで胸の奥で重く沈んでいた感情が、ほんの少しだけ軽くなった気がする。
「ほら、あそこにある掲示板からやろう」
「はいはい」
結衣が指さす先には、色あせたお知らせや端がめくれたポスターが並んでいた。俺は車椅子のハンドルを握り直し、ゆっくりと押し出す。車輪が回る音が、静かな病院の廊下に響いていく。
――この車椅子の重さが、さっきよりも少しだけ軽く感じられた。
*
「おつかれー、ずっと車椅子を押してくれたけど、疲れてない?」
「……別に」
病院の中にある掲示物を全て張り変えた後、二人は中庭で休憩していた。
空高く上った太陽が、病棟の隙間から中庭を照らし、無数の花が輝いている。夏の風と共に、甘い香りがかすかに漂ってくる。
結衣は車椅子の背もたれに体を預け、空を見上げて深く息を吸い込んだ。
「やっぱり外は良いねー。中とは違って、空気が澄んでる」
「……そうだな」
俺もベンチの背にもたれ、視線を空へ向ける。
真っ青な空に、白い雲がゆっくりと流れていく。さっきまでの作業でじんわりと汗ばんだ背中に、風が心地よかった。
「そういえばさ、湊はわたしのことをどんな人間だと思ってるの?あっ、美少女なのは確定しているから、それは言わなくていいよー」
「……自分で言ったら意味が無いんだけどな」
相変わらず自分の容姿に絶対の自信を持っている結衣に、俺は呆れて小さくため息をついた。
それにしても――結衣のことをどんな人間だと思っているか、か。印象をそのまま口にすればいいのだろうが、なぜ今こんな質問をしてきたのか、その意図が気になる。
「まぁ、明るい人物だとは思っているが」
「そうでしょ。わたしは、明るく輝いていて、完璧な美少女なんだから」
「……そこまで言ってないんだが」
本当に、何でこんな質問をしたんだ?さっぱりわからない。
冗談の応酬に見せかけて、どこかで何かを測られている気がして、背筋にうっすら汗が滲む。
次の瞬間、結衣はふっと笑みを消し、視線を上へ投げた。瞳に空の青が差し込み、表情の陰影がひとつ深くなる。さっきまで軽口を叩いていた人間とは思えないほどの変わりように、別人になってしまったのかと錯覚する。
「だけどね、昔のわたしは、笑顔なんて見せなかったし、生きることに対して希望なんて持てなかったんだよ」
「お前が……?」
笑顔を見せない結衣など、想像すら出来ない。それほどまでに、結衣と笑顔は切っても切れないものだと思っていた。
だからこそ、その言葉は意外すぎて、胸の奥に小さな棘のように引っかかる。
「……信じられないな」
「ふふ、そうだよね。今の私しか知らない人には、きっと想像できないと思う」
結衣はゆっくりとまぶたを閉じ、少しだけ息を吐いた。
「でも、これは本当の話。わたしが笑顔を出来るようになったのは、数年前にこの病院に転院して、ある友人が出来たから。そのおかげで毎日が楽しくなったし、生まれて来たことに感謝できた。だからね……」
結衣はゆっくりとまぶたを閉じ、少しだけ息を吐いた。
「だから、湊にも笑顔を取り戻してほしい。そのためなら、いくらでも協力をする。笑顔になる資格が無いなんて言わないで」
急に予想外の角度から放たれた言葉に息が詰まる。だけど……。
「お前には関係――」
「関係なくない」
結衣の声は、いつもの軽やかさとは違い、はっきりとした力を帯びていた。その視線がまっすぐ俺を射抜く。逃げ場なんて、最初から用意されていない。
「一度でも、一緒に楽しい時間を過ごしたなら、その人は大事な隣人なんだよ。放っておくことなんて、わたしにはできない」
その言葉は、到底、許容できるものでは無い。怒りが沸き上がり、結衣の言葉を全力で否定しようとする。
だが、反論が口に出る前に、結衣が畳みかける。
「昨日の夜、ずっと考えてた。何で湊が白いユリが嫌いだと言ったのか。それはね――白いユリが聖母マリアを象徴しているからでしょ。何があったのかは、正確に理解していないけど、湊はキリスト教のことを嫌ってる。その理由を教えてくれない?」
結衣の目は、何があっても俺の過去を聞き出すという決意に満ち溢れていた。何が、ここまで結衣を駆り立てているのだろうか。その視線は、鋭い針のように俺の胸の奥を突き刺してくる。
「わたしは、別にキリスト教徒っていうわけじゃない。この考え方は友人からの受け売りで、わたしが良いなって思ったから受け継いでる。だから、何を言ったってわたしは怒らないよ。主の名前を言って、侮辱したって何も言わない」
言葉を重ねるたびに、俺の逃げ道は一つずつ塞がれていく。ここまで言われてしまうと、どう頑張っても、言い逃れ出来ない。それならば……。
「……俺は、人殺しだ」
自分の口から出たその言葉は、思っていた以上に重く、冷たく響いた。
「だから、笑う資格なんて無いし、幸せに生きることもできない。ずっと、苦しみ続けなければならない人間なんだ」
正直に言った。
これなら、いくら結衣でも納得するはずだ。俺が笑えない理由を理解し、そして――関わってはいけない人間だと判断してくれるはずだ。
結衣の隣に、俺のような罪深い人間がいるべきではない。そう思えば思うほど、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
その刹那、頬に衝撃が走る。
「ばかっ」
皮膚が熱を持つ。
痛みよりも、その行動の唐突さに息が詰まった。結衣の手のひらは小さいのに、残した熱は妙に大きい。
「そんなこと、どうでもいい」
結衣の声は震えていなかった。
「今、湊が思ったことは、全部わたしが否定する。わたしの隣にいるべき人は、わたしが決める。どんな人間でも、笑う資格はある。それに――湊が言う“殺人”は、自分の手で殺したんじゃなくて、自分のせいで死んだって思ってるだけでしょ」
俺の過去に何があったのかは、まだ正確に言っていない。なのに、結衣はその過去を正確に予測していく。もし、このまま進んでいくと、恵理の自殺が証明されてしまう。
「違う、あれはっ」
「うるさい。それに、わたしは友人とは違って神を信仰していないから。神は旗で、大事なのは教えや教義だと思ってる。――よし、決めた。わたしは、今日から神と言う名の道具を使って湊を救う」
「お前には関係ないだろ!俺は救いなんて求めてないし、この罪は決して手放さない!」
「桜庭恵理」
その名前が耳に届いた瞬間、熱く滾っていた感情が、まるで氷水をぶちまけられたように一気に冷えていく。
何で、結衣は恵理のことを知っている?どうして、恵理と俺の関係を予想できた?
無数の疑問が頭の内側を駆け回り、出口を見つけられない。――いや、そもそも疑問が浮かぶだけで、思考は形を成さない。
「なんで……」
何とか口に出せたのは、掠れた声だけだった。それほどまでに、俺にとって桜庭恵理の名前は重要なものだった。
「やっぱし、湊は恵理の幼馴染だったんだね。それなら、湊が苦しんでいる理由も、大体は理解できるよ」
今、何が起こっているのか、さっぱりわからない。頭の中は真っ白になるし、夏の暑さすら感じることが出来ない。
でも、これだけは理解できる。結衣は今、全力で俺のことを救おうとしていて、そのためになら、手段も俺の意思すらも無視してしまう。
「だからね、わたしは、全て自分のせいだと考えている身勝手な罪悪感も、一方的に救われないと決めつけている傲慢な怒りも、全部――全部砕いてみせる」
その時の結衣の顔は、ずっと覚えている。あれほどまでに決意に満ちていて、まっすぐで、容赦がなかった。
そして俺は、何も言えなかった。
「わたしはそう決めたから、絶対に逃げないでよ」
その言葉は、水のように静かに胸の奥へ沁みていくのに、触れた場所は熱を帯びる。
逃げる足首に、見えない手がそっと触れ、止める。
蝉が鳴く。遠くで車のブレーキが短く泣き、また静けさが戻る。俺の呼吸音だけが、自分の耳に過剰に大きく響いた。――逃げる場所は、どこにもない。
そして、彼女の死から逃げないという選択肢が、今ここで初めて、手の届くところに置かれた。




