とある夏の日2
みーんみんみん
じりじりじり――
病室の窓の外から、セミの鳴き声が途切れなく響いてくる。それは、夏の盛りを告げる音であり、もう少しで授業が終わることを示す合図のようでもあった。
白いカーテン越しに差し込む光が、ベッド脇の床に四角い影を落としている。その影の中で、目の前の少女がふと顔を上げた。
「ねぇ、湊は夏休みの間は何か予定があるの?」
病室から出ることのできない彼女が、わざわざ口にするその問い。それがどんな意図を含んでいるのか、答える前から分かってしまう。
「そりゃ、毎日ここに通うに決まってるだろ。うちには旅行に行くほどの余裕と時間は無いしな」
そういうと、少女は心の底から笑っていた。ここに来てほしいのなら、来てって言えばいいのに。女子の考えることはよくわからない。
「何か失礼なことを考えたでしょ」
そんなことを考えていると、少女がじっとこちらを見つめてくる。その視線は、心の奥を見透かすように鋭く、思わず背筋に冷たい汗が伝う。
どうして、この少女は、これほどの圧を出せるのだろうか?
「な、何も考えてないよ。そんなことより、今日は何を話すのか?」
何とか、その視線から逃れるために、全力で話を逸らす。幼いころから、この少女と関わってきているけど、こんなに恐ろしい圧を放てるようになった原因が分からない。あの頃の優しい少女はどこに行ったのだろうか?今でも。基本的には優しい少女ではあるのだけど。
「うーん、何を話そうかな?あっ、わたしの調子が良かったら、夏休みにどこか行こうよ」
その提案で、そこから聞こえるセミの声が、一気に遠くになった。調子が良くなかったら、夏休みにどこか行く?確かに、それは俺もしたけれど、病院の人が許してくれるのかな。
俺は、その提案に賛成したい気持ちはあったけれど、少女の体調のことを気にすると、素直に賛成することが出来なかった。
「……出来るなら、俺もその案に賛成したいけど、看護師さんに許可は貰っているのか?」
「だよねー。たぶん、今年もこの病院から出ることはできないよ」
少女は、そう言ってベッドに寝転がった。その姿は、ふて寝しているように見え、こうなってしまうと、彼女は何を言っても動かなくなってしまう。せっかくの土日なんだから、もっと話したいのに。
「まぁ、今年は出れなくても、来年はどこかに行けるかもしれないんだし、その時に一緒に出掛けようよ」
そう口にすると、彼女が急に起き上がって来た。
「お、おい。安静にしろよ」
「そんなことはどうでもいいの!今、一緒に出掛けるって言った⁉」
「あ、ああ。看護師さんに許可されたらな……」
「やった!」
少女は子どものように両手を握りしめ、満面の笑みを浮かべた。
まぁ、実際に、まだ子供なんだけどさ。でも、もう中学二年生になったんだから、もう少し大人になってもいいと思う。
そんな俺の気持ちもつゆ知らず、彼女はずっとはしゃいでいる。はぁ、もうそろそろ止めないと。病人なんだから、もっと安静にしてほしい。
「いつ出かけることが出来るのか分からないんだし、落ち着いて。はしゃぎすぎて体調が悪くなったら、元も子もないよ。それに、自分の身体は神様から与えられた大切な物なんだろ」
「む、それはそうだね。つい嬉しくて、はしゃぎすぎちゃった」
その声は、さっきまでの弾むような調子とは違い、どこか照れくさそうだった。はぁ、少しは心配してるこちらの気持ちを考えてほしい。
「ねぇ、来年か、もっと先になるかもしれないけど、どこに行くのか今のうちに決めない?」
そんなことを思っていると、彼女がふいにそう言ってきた。その提案は、少し気が早いようにも思えたが、先に行き先を決めてしまえば、いつか絶対に叶う約束になるような気がして、その提案に乗っかることにした。
「いいな、それ」
俺は自然と笑っていた。俺も、まだ中学二年生なんだ。ちょっとくらい、子供らしくても仕方がないだろう。
「恵理は、どこに行きたい?」
恵理は少しだけ考えるように目を細め、窓の外に視線を向けた。
「うーん、海とか、祭りとか行ってみたい場所はたくさんあるけど、最初は教会かな」
「教会?」
それは、少し予想外の場所だった。恵理がキリスト教徒であることは知っていたけれど、それでも、彼女の口からその言葉が出てくるとは思っていなかった。海や祭りのような賑やかな場所を真っ先に挙げると思っていたからだ。
俺は、予想外の言葉に驚いて、目を丸くしていると、恵理が半目になって俺のことを睨みつけている。どうやら、俺の反応が不満だったようだ。
「なに?湊はキリスト教徒じゃないから、不満かもしれないけれど、わたしにとっては大切なことなんだよ」
「いや、不満は無いけどさ。恵理なら、もっと無茶苦茶な場所に行きたいって言うと思ってた。例えば、海外とかさ」
「……湊の中で、わたしはそんなイメージになってるの?否定は出来ないんだけどさ」
恵理は小さく肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。その笑みには、少しだけ呆れと、ほんのわずかな照れが混じっている。
「でもさ、わたしは主に感謝を伝えたいんだ。だって、湊と一緒にお出かけが出来るんだよ。それだけで、ここ数年で一番うれしいことになるからね」
予想外の言葉に、顔を赤くしてしまう。俺と一緒にどこかへ行くことが、ここ数年で一番うれしいことになるなんて、少しも予想していなかった。何故か、心がじんわりと熱くなる。
恵理は、そんな状態の俺のことを見て笑っている。……あまり見ないでほしい、恥ずかしいから。
「湊、照れてるの?」
「……うるさい。そんな風に、俺のことを煽る暇があるのなら、さっさと元気になってくれ」
「もちろん!元気になったら、一緒にお出かけするからね。絶対に、約束だから」
「ああ、約束する」
その時の恵理の笑顔は、ずっと記憶の中に残っていて、忘れることが出来ない。あの時の俺は、恵理が元気になって、一緒に外へ出ることが出来ると、信じて疑っていなかったし、そのうち退院できるだろうと思っていた。現実はそう、甘くはないのに。
みーんみんみん
じりじりじり――
窓の外から聞こえるセミの鳴き声が、どんどん遠く離れていく。それと同時に、この幸せな夢の外壁は崩れ始め、赤色の液体が浸食し始める。足元から、じわりと染み出すように、それは視界を満たしていき、耳の奥に、断片的な声が流れ込んでくる。
『桜庭恵理は――に――が確認されました』
『――は墜落――……事件性は――……した』
『これは――……か?しかし――……考えられない』
『――……ですので――……例えば――……自殺――』
自殺
かろうじて、その一語だけが、はっきりと耳に残った。脳が理解するよりも先に、全身の血が一瞬で冷たくなる。
――自殺?そんなこと、恵理がするわけないだろう。だって、彼女はキリスト教徒なんだ。自殺という行為が、罪になると分かっているはずだ。
しかし、周りの大人たちは、自殺だと勝手に決めつけて話を進めていく。何故、そう決めつけるのだろうか。警察の言うことは、そこまで正しいことなのか?
自殺だとしたら、恵理の死後には、救いなんて何一つないじゃないか。
だったら、これは俺の罪にすればいい。彼女が自殺しようとしていることに気付けなかった、俺の責任――つまり、俺が彼女を殺したということだ。そうすれば、恵理の死は自殺として扱われない。
それに、そもそも自殺が罪になること自体がおかしいのだ。あの聖書が言っていることが、すべて正しいのか?自殺した人も、総じて救われるべきだろう。何が教えだ、何が主だ、そんなものクソ食らえ。
そう思わないと――気が狂いそうだ。




