土曜日2
振り返ると、車椅子に乗った同年代くらいの少女がいた。
「いいんだよ、逃げて言った幸せが、誰かの物になるのなら」
「ふふっ、面白いことを言うね。ただ、それは今考えた答えでしょ」
「……さあな」
少女は車椅子の車輪を軽く回し、俺の横まで滑ってきた。おそらく、この病院の患者なのだろう。だが、その表情や声色には、患者特有の影や湿った空気がまるで感じられない。
その明るさが、逆に記憶の奥に沈んでいる古い思い出を刺激してきて、俺は思わず視線を逸らした。
「ねぇ、君は何でここにいるの?」
「……仕事の手伝いだよ。学校のボランティアで来てる」
できるだけ淡々と返す。
「ふーん、ボランティアか」
少女は小さく頷き、視線を空へ向けた。
「じゃあ、ここにいるのはサボり?」
「……休憩中」
短く答えると、少女はまた明るく笑っていた。車椅子に乗るほどの事情を抱えているはずなのに、その笑顔には重さが無い。どうして、そこまで明るく笑えるのだろうか。
そんな時、少女はベンチの上に置いてあった俺のお茶を奪った。
「ちょ、それは俺の!」
「へっへーん、これを返してほしければ、少し付き合ってよ」
「付き合うって……何にだよ」
思わず眉をひそめると、少女はペットボトルをくるくると回しながら、いたずらっぽく笑った。
「おしゃべり。ここ、退屈なんだもん」
「……俺は別に話すことなんてない」
「じゃあ、私が話すから聞いててよ。聞くだけならできるでしょ?」
そう言って、少女はペットボトルを持ったまま、俺の方を見てくる。その視線せいで不思議と逃げ場が無く、結局、話に付き合うしか、道は残されていなかった。
「一応言っておくけど、無理やり取り返すことも出来るんだぞ」
「うわー、さいてー。車椅子のか弱い美少女に暴力を振るうんだー」
わざとらしい棒読みに、腹が立ってくる。しかし、少女の言った言葉は真実であり、俺は手出しをすることが出来ない。
「……お前な。はぁ、いいや。話に付き合うよ」
諦めて肩をすくめると、少女は満足そうに口角を上げた。
「まずは、自己紹介からだね。わたしは、星野結衣って言うの。わたしらしくて、いい名前でしょ」
「……別に、そうは思わないが」
名前の良し悪しなんて分からない。だが、結衣のことを褒める気だけはなかった。そもそも、初対面で人の物を奪うようなやつを、素直に持ち上げるわけがない。
「ひっどーい。泣いちゃうよ、わたし。ここは病院だからね、みんな、わたしの味方なんだよ」
「コイツ……」
やっぱり帰っていいか?こんな奴と会話するのは正直ごめんだ。しかも、泣くどころか、口元はしっかり笑っているじゃないか。
でも、ここで離れようとすると、コイツはきっと予想もしていないことをするだろう。今、この病院には担任の先生がいるし、騒ぎを起こすと確実に面倒なことになる。あぁ。ほんっとうに、めんどくさい。
「それで、君は何て名前なの?」
「風間湊、これでいいか?」
「ふーん、湊って言うんだ。いい名前じゃん」
また笑っている。この会話の何処に笑う要素があったのか、さっぱりわからない。最近の女子は、こんな感じなのか?
「……別に、そうは思わないが」
結衣の言葉に、俺はそっけなく返す。
「またまた〜。素直じゃないなぁ」
結衣はにやりと笑い、わざとらしく俺の顔を覗き込んでくる。その距離の近さに、思わず背を引いてしまう。何なんだ、この女は。距離の詰め方がおかしい。
そうして、結衣の調子に戸惑っていると、彼女が急に俺の手を引いてきた。他人に触られるのは久しぶりで、思わず肩が強ばってしまう。
だけど、結衣はそんなことを気にせず、腕を引く力を強くしていく。
「ちょ、急になんだよ」
「いいから、ちょっと来て。ずっとここにいるのも暇なんだから、少し散歩をしようよ」
「……おしゃべりしようって言ってから、まだ数分しかたってねぇよ」
結衣と関わっていると、本当に調子が狂う。でも、付き合うと言ってしまった以上、断ることは出来ない。だから、俺はゆっくりと重い腰を持ち上げて、結衣の車椅子に手を掛ける。
「あっ、押してくれるんだ。ありがとう。でも、車椅子を押した経験なんてあるの?」
「何回かしたことがある。だいぶん昔のことだけど」
手に伝わる車椅子の重みと、タイヤが地面を転がる感触が、当時の記憶を呼び起こす。あの頃は、押すだけで腕がすぐに疲れて、段差や坂道では何度も立ち止まった。今はそこまで苦労はしないが、手のひらに伝わる微かな振動は、あの時と同じだ。
「へぇ、じゃあ安心だね」
結衣は振り返りもせず、軽い調子で言った。
「安心って何が」
「だって、慣れてない人だと、すぐガタガタ揺れるし、変なところで止まるし。あれ、けっこう怖いんだよ」
「……そういうもんか」
「そういうもん」
コイツにも、怖いものがあるんだな。
少し意外だった。初対面の人に、ぐいぐいと近づいてきて、車椅子の操作を完全に任せてくるから、怖いものなどこの世には無いんだと思っていた。人間ってのはよく分からない生き物なんだな。
「それで、どこに行くんだ?」
「うーん。まずは、あそこの花壇に行こう」
結衣は、腕を組んで少し悩んだ後、夏の陽射しを受けて白く輝く花壇の方に指をさして、そこに進むことを促してくる。近づくにつれ、土の匂いと、花びらから漂うほのかな甘い香りが鼻をくすぐる。
花壇の中央には、真っ直ぐに伸びた茎の先に、白いラッパのような花がいくつも咲き誇っていた。花びらの縁は光を透かし、淡く輝いている。
「ユリ……?」
「そう、テッポウユリっていうの。少し前に、わたしが植えたんだ。まぁ、わたしは車椅子に乗っているから、直接植えたのは看護師さんなんだけどね」
結衣は、少し目を伏せながら、花壇に視線を落とした。その横顔は、さっきまでの軽口とは違い、どこか悲しそうな表情に見え、車椅子を押し力が緩んでしまう。
その表情に、思わず押す手がわずかに緩む。だけど、結衣は、すぐにいつもの調子を取り戻したように口角を上げた。
「でも、水やりはちゃんと私がやったんだよ。毎朝ここまで来てね」
「車椅子でここまで来るのは大変だろ」
「うん。でも、わたしの手で育てたいからさ」
結衣は手を伸ばし、花びらをそっと撫でた。指先が触れるたび、白い縁がかすかに揺れ、陽光を反射してきらめく。その仕草は、まるで壊れやすい宝物を扱うように優しかった。
「好きなのか?この花が」
ここまでして育てているのだから、きっとこの花が好きなのだろう――そう思っての問いだった。
しかし、返ってきた答えは、まったく予想していないものだった。
「うーん、嫌いでは無いけど……好きでもないかな」
「は?」
予想外の答えに、思はず声を上げてしまう。何で、好きでもない花をここまで努力して育てているのだろうか。やっぱり、結衣の考えていることは、何一つ分からない。
ただ、自分の答えがおかしいということは、結衣自身も理解しているようで、慌てて言い訳をし始めた。
「どう言ったらいいのかな?……約束?未練?いいや、我儘?」
「……何を言っているんだ?」
結衣が何を言おうとしているのか、さっぱり分からない。彼女は、何のために花を育てているのか、その答えを聞くために、俺は静かに続きを促した。
結衣が、しばらく悩んだ様子を見せた後、小さく息を吐き、視線を花から外さないまま口を開いた。
「昔ね、友達がこの花を育てていたんだよ。その子と友達と一緒に入れた時間は、たかだか数か月くらいだったけど、それでも大切な友達だったんだ」
「……友達だった?」
俺が問い返すと、結衣はほんの一瞬だけ目を細めた。
「うん。もう死んじゃったんだけどね」
その言葉に、俺は何も言うことが出来なかった。
軽口ばかり叩くこの少女が、そんなことを口にするとは思ってもみなかったからだ。だけど、ここは病院だ。こういうことがあってもおかしくはない。
それでも、なぜ彼女はこんなにも明るく笑えるのか――俺には理解できなかった。
「ああ、ごめん。気にしないで。わたしはもう、平気だから」
結衣が、返事に困っている俺の様子を見て、軽く笑って見せた。その笑顔は、決して強がっているものでは無く、本心からきたもののように見えた。
だけど、人の死という物は、そう簡単に受け入れられるものでは無い。きっと、結衣も友人の死を受け入れるために、かなりの時間を掛けたのだろう。俺は、まだその段階に到達出来ていないから、その苦しみの深さは理解できる。
しかし、結衣は俺の内心を知らずに、そっと花を撫でて言葉を続けていった。
「だからね、わたしがこの花を育てている理由は、あの子のためでもあるんだよ。この花を育てている限り、あの子が生きてきた証は、ちゃんとこの世界に残り続けるから」
その声は穏やかで、だけど、芯のある響きを持っていた。
俺は何も言えず、ただその姿をじっと見つめることしか出来ない。どうすれば、結衣のように前を向けるのか――そんなことを考えかけて、すぐに打ち消す。
それは俺にはできないことだ。考えたところで答えが出るはずもない。そもそも、彼女は俺に殺されたのだから、俺は前を向いて生きてはいけない。赦しなどいらないし、死後は地獄で焼かれるのが定めだ。
「湊、急にぼーっとして、どうしたの?」
「……いや、何でもない」
ただ、こんな考えを急に言ったところで、結衣を困らせるだけだろう。俺は、何も言わず、俺は視線をそらし、白いユリを視界の端から押し出す。
すると、結衣がふいに問いかけてきた。
「湊は、白いユリが好き?」
結衣には悪いけど、その質問の答えは決まっている。
「嫌い」
それ以上は何も言わない。どこが嫌いなのかも言わないし、嫌いになった理由さえ言うことは無かった。
結衣は一瞬だけ瞬きをして、俺の横顔を覗き込んだ。
「そっか」
それだけ言って、深くは追及しなかった。その代わり、結衣は白いユリ以外のことを話題に出し始めた。他の患者の人たちが植えた花、病院にいる子供たちや老人たちとの思い出。今まで結衣がこの病院の中で経験したことを、まるで宝物のように、たくさん話していく。
その声は軽やかで、話の端々に笑いが混じる。俺は相槌を打ちながら聞いていて、この病院に入院したことが無いにも関わらず、気づけば病院のことをずいぶん詳しく知っていた。
「そういえばさ、湊がこの病院に来るのは今日だけなの?」
突然の質問だった。さっきまでは、病院の子供たちと遊んだ時のことを話していたはずなのに、急に話題が変わってしまう。
「そうだな。ボランティアは今日だけだし、もうここに来ることは無いな」
その答えに、迷いはなかった。嘘をつく理由も、つく資格もない。入院している相手に、もう来るつもりがないのに「また来る」などと軽々しく言えるはずがないだろう。
しかし、俺の返事を聞いた結衣は、頬をふくらませて文句を言った。
「えー、何で今日だけなの? ボランティアがなくても、ここに来たらいいじゃんか」
その言葉は、冗談めかしているようでいて、どこか本気の響きがあった。いや、結衣のことだ。これは冗談ではなく、本気で言っているのだろう。まだ出会ってから、そんなに時間はたっていないけれど、そのくらいは理解できている。
でも、ここに来るつもりにはなれないんだ。ここが「あの場所」である以上、もう二度と来たくない。
しかし、そんな俺の気持ちも知らず、結衣は次々と文句を言ってくる。
「だって、土曜日にボランティアで来たんだから、部活とかしてないでしょ。だったら、ここにきていいじゃんか」
痛いところを突いてくる。確かに、俺は部活などをしていなくて、休日は基本的に暇だし、平日の学校終わりでさえ、ここに来ることは出来るだろう。だけど、何でここに来ないといけないのだ。俺の時間なんだから、俺が自由に使っていいだろう。
「あのな、なんで俺に来てほしいんだ?話をする相手なんて、この病院には何人もいるだろ」
「ぎくっ、確かにそうだけどさ。わたしは、湊に来てほしいんだよー」
結衣は、わざとらしく肩をすくめて駄々こねてくる。その仕草は、同年代のはずなのに、小学生の子供を相手にしているようで、思わずため息が出そうになる。
なんで、そこまで俺に来てほしいのだろうか。さっぱり分からない。
そうして、どうやって結衣を説得しようか考えていると、病院の方から聞き覚えがある声がした。
「アンタ!いつまで休憩してるんだい!」
中庭の静けさを破るように、甲高い声が響いた。振り返ると、洗濯室で指示を出していた年配の看護師が、両手を腰に当てて立っている。
「わたしが休憩していいって言ったのは、待合室が混んでいて掃除ができないからだよ!」
「げっ……忘れてた」
思わず小声で漏らすと、隣の結衣がくすっと笑った。
「あらら、サボってたんだ」
「……だから、サボってないって。休憩をしていた時に、お前が話しかけて来たから、こんなことになったんだぞ」
言い訳めいた声が自分でも情けなく聞こえる。
だが、結衣は悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうに俺を見上げていた。……待て、この顔は碌なことを考えていない顔だ。さっさとここから離れないと。
結果から言うと、その悪い予感は正しく、結衣がこれからいう言葉は、碌なものでは無かった。惜しむらくは、気付いた時には、もう遅かったということだけだ。
「ねぇ、明日からも、ここに来てくれるのならば、あの看護師さんにうまく言い訳しておくよ」
確かに、それは目の前の状況だけを見れば魅力的な提案だった。だが、長期的に見れば、どう考えても割に合わない。そんな取引など、俺が受けるはずがない。
「断る。割に合わない提案なんて、受けるわけないだろう」
「いいの?あの人、怖くて有名な看護師なのに。患者相手にはまだマシだけど、元気な人相手だと容赦がないよ。それこそ、見舞いに来れなくなった人がいるくらい」
「……」
話が変わってきた。俺は、そんな物騒な伝説を持つ人物を怒らせてしまったのか。そう考えると、結衣の提案も妙に現実味を帯びてくる。
俺が逡巡している間にも、あの恐ろしい看護師は着実に距離を詰めてくる。すぐに結衣の取引に答えなければ、手遅れになるのは明らかだった。
「……わかった」
「え?聞こえなーい」
小さな声で呟くと、絶対に聞こえているはずなのに、結衣が聞き返してくる。その表情は、満面の笑みであり、俺が明日からも来ることがとてもうれしいのだろう。俺は、少しも嬉しくないのだが。
「分かりましたよっ!明日からも来たら良いんでしょ!」
「よくできました。絶対に、約束だからね」
「……それは、ずるいだろ。まったく」
約束だからねって言われると、破るわけにはいかないじゃないか。そう言われなかったら、まだ逃げることが出来る道が残されていたかもしれないのに。
「看護師さーん!」
結衣は、まるで友人を呼び止めるような明るい声で、病院の方へ向かって呼びかけた。その声を聞いた瞬間、俺に向けられていた看護師の鋭い視線が、ふっと和らぐ。
「あら、結衣ちゃんじゃない。どうしたの?」
あの恐ろしい看護師が、結衣に話しかけられた途端、別人のように優しい表情へと変わっていた。その変わりように、目を疑ってしまう。きっと、結衣はこの病院の中でも、人気者なのだろう。だからこそ、あの看護師相手でも、こんなにもあっさりと空気を変えてしまえるのだ。
「この人、湊っていうの。さっきまで私の話し相手してくれてて、仕事が押しちゃって。だから、怒らないであげてね。その代わりに、明日からも手伝いに来てくれるんだって」
……やられた。この女、この女、最初からこの展開を狙っていやがった。
俺が渋々「わかった」と言った瞬間から、すべてはこの既成事実化のための布石だったのだ。いったい、いつからこのことを計画していたのだろうか。正確なタイミングは分からないけれど、看護師に見つかるより前から計画していたことだけは理解できた。
結衣の言葉を聞いた看護師は、俺と結衣を交互に見て、ふっと口元を緩める。
「そうなの?それは助かるわ。じゃあ、明日もよろしくね。今日は休んでいいから、明日は九時くらいには、ここに来てよ」
……時間まで指定されてしまった。これは、新手の詐欺と言っていいだろう。こんなことをされるくらいなら、結衣の取引に乗らなければ良かった。
看護師が去った後、結衣が満面の笑みを浮かべて近づいてくる。その顔は、計画がうまくいったことに対する喜びに満ち溢れていて、心底腹が立つ。
「これで、湊は明日からもここに来てくれるよね。これからよろしく」
「……お前な。やっていいことと悪いことがあるだろ」
呆れ半分、怒り半分でそう言うと、結衣はまるで褒め言葉をもらったかのように、さらに口角を上げた。
「だって、こうでもしないと来てくれなさそうだったんだもん」
悪びれる様子は一切ない。むしろ、自分の策が見事に決まったことを誇らしげに語るその声色に、さらに苛立ちが募る。
でも、今起こったところで、結果は何も変わらず、ただのエネルギーの無駄になるだけだ。そんなことをするくらいなら、何もしない方がずっと楽だ。
「はぁ、もういいや。明日から、ここに来ればいいんだろ」
「うん、絶対来てよ。わたしは、湊のことをもっと知りたいんだからさ」
そうして、湊と結衣は、ボランティアの時間が終わるまでの間、ずっと会話や散歩を続けていた。その時間は、普段他人と会話をしない湊には、とても大変な時間ではあったが、この数年間の中で最も楽しかった時間でもあった。そのことは、まだ自覚していないし、自覚したとしても、決して認めないことではあったが。
やがて、中庭にある時計が三時になったことを指し示し、ボランティアの時間が終わった。これからは、集合した場所に戻って、担任の先生の号令のもと、解散しなければならない。
「じゃあ、ボランティアの時間が終わったことだし、俺は帰るよ」
湊がそう言って、ベンチから立ち上がると、結衣は一瞬だけ寂しそうな顔を見せた。だけど、その顔は一瞬で掻き消え、いつもの笑顔に戻る。
「明日、絶対に来てよ。わたしは、ここで待ってるからね」
「ああ、わかってるよ。誰かさんのせいで、逃れることが出来なくなったんだからさ。また明日な」
「じゃあね、ばいばーい!また明日!」
湊は軽く手を振るような仕草をして、結衣に背を向けた。俺は、集合場所に向かいながら、明日のことを思い浮かべる。不思議なことに、今では明日も病院に行かなくてはならないということに対して、嫌な気持ちが少しもわかなかった。
どうしてなのだろうか?俺は、病院に来ることを心の底から嫌がっていたはずなのに。
みーんみんみん
じりじりじり――
セミの鳴き声が耳にまとわりつく。結衣と話していた時は、一度も気にならなかった、あの忌々しい音だ。今は、まるで現実に引き戻す合図のように、容赦なく鼓膜を叩いてくる。
……はぁ、この音を聞くくらいならば、また話したいな。
*
「遅い」
デジャヴかと思った。この言葉、今日の朝にも聞いた気がする。だけど、今回は仕方がないだろう。結衣の話に付き合っていたのだから、切りのいいところになるまで終わるはずがない。
それに、あれだって立派な交流の一つだ。ボランティアの仕事の範疇に入れてもいいくらいだ。
……まあ、そんな理屈を口にしたところで、目の前の同じクラスの女子たちは納得しないだろう。だから、俺は何も言わなかった。
「はいはい、二人とも」
担任が間に入るように声をかける。
「時間には間に合ってるんだから、それでいいじゃない」
その言葉で、何とか文句の声は収まったけれど、二人の表情から不満が消えたわけではなかった。俺は肩をすくめ、集合場所の端に立つ。
やがて、担任が全員を見回し、軽く手を叩いた。
「じゃあ、今日はこれで解散です。お疲れさまでした」
俺はその言葉に合わせて軽く頭を下げた。女子二人は、すぐに連れ立って病院の出口へ向かっていく。担任も職員と何やら話しながら、その後を追った。
残された俺は、ふと中庭の方へ視線を向ける。そこには、もう結衣の姿はなかった。
代わりに、白いユリが風に揺れているのが見えた。
みーんみんみん
じりじりじり――
耳にまとわりつく蝉時雨が、昼の熱気と一緒に押し寄せてくる。その音を振り払うように、俺は病院を後にした。




