土曜日1
みーんみんみん
じりじりじり――
手の平から、赤い液体がぽたぽたとこぼれ落ちていく。
それは、生温く、鉄のようなにおいがして、吐き気を誘ってくる。
だけど、そんなことは気にならなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
運がいいことに、ここは病院の側だった。
そこまで運ぶことが出来たのなら、まだ助かるかもしれない。
抱えているモノは軽く、まだ身体が出来上がっていない俺でも、運ぶことが出来る。
みーんみんみん
じりじりじり――
道すがら、何人かの大人とすれ違う。だが、彼らは俺を見るなり目を逸らし、足早に去っていく。
中には悲鳴を上げ、その場にへたり込む者もいた。理由は分からない。考える余裕もない
みーんみんみん
じりじりじり――
汗が背中を伝い、服に張り付く。拭き取りたい衝動に駆られるが、両手は塞がっている。
白い病院の建物が視界に飛び込んできた。
「だ、だれかっ……」
かすれた声を出す。しかし、その声は悲鳴でかき消されてしまい、自分の耳にさえ届かない。
一瞬、怯えたような目をしていた看護師たちが、意を決したように駆け寄ってくる。
その時、視界の端であるものが映った。
――ガラス扉に映った、自分の姿。服は真っ赤な液体に染まり、滴が足元へと落ちていく。
その光景が、胸の奥を鈍く締め付けた。
みーんみんみん
じりじりじり――
じりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじり
*
じりじりじり――
「はぁ……はぁ……はぁ……。クソッ、嫌な夢を見た」
荒い息を吐きながら、俺は目覚まし時計のボタンを叩きつけるように押した。耳を苛む不協和音が途切れ、代わりに静寂が落ちる。
あれから三日後、今日はボランティアに行かなくてはならない土曜日だ。こんな日でさえ、あの悪夢は容赦なく俺を締め付けてくる。せめて今日くらいは、安眠くらいさせてくれてもいいだろうに。
母には、病院へ行くことは話していない。正直に言えば、また余計な心配をかけるのは目に見えている。それに、「学校で補習がある」と言ったところで、俺の成績じゃ簡単には信じてもらえないだろう。暇だからって、普段から勉強をしてたことを後悔する。
まぁ、運がいいのか悪いのか、今日は朝から仕事があったようで、起きた時にはテーブルの上に朝ご飯を残して仕事に行っていたのだが。
ラップをかけられた皿の中には、焼き鮭と卵焼き、それに湯気の抜けた味噌汁。箸を手に取ってみたものの、喉の奥が重く、どうにも食欲が湧かない。結局、鮭を一口だけかじって箸を置いた。
洗面所で顔を洗い、鏡を覗き込む。寝不足と悪夢のせいで、小さな隈が出来ていた。よく見ないと分からにくらい小さなものであるから、他人に気付かれることは無いだろうが、それでも、自分の目にはやけにくっきりと映って見えた。
時間は……あまりない。二度寝することも許されず、このまま病院に行かなくてはならない。
「はぁ、ろくなことがねぇ」
必要な物を持って、玄関の扉を開ける。湿った夏の空気と、強い日差しが俺のことを苦しめていくが、こんなことに嘆いていると、この夏を乗り越えることは出来ない。
みーんみんみん
じりじりじり――
耳の奥で鳴り響くその音は、現実のものなのか、夢の残滓なのか判別がつかない。
俺は、自転車にまたがって、勢いよく漕ぎ始めた。空気の束が俺にぶつかり、この身体を少しだけ冷やしてくれる。おかげで、あの悪夢の余韻が少しだけ頭から出ていった。
額から流れ落ちる汗が顎へと伝い、シャツの襟元を濡らしていく。信号待ちで足を止めると、遠くに白い建物が見えた。
市立総合病院――今日の目的地。
その一年前に改装された新しい外壁は、朝の光を反射してやけに眩しく、目を細めたくなる。記憶とは違う白、ありがたいことに、その白色のおかげで、悪夢のことを思い出すことは無かった。
再びペダルを踏み、病院の敷地へと入る。駐輪場に自転車を停め、鍵をかける。
ふと顔を上げると、ガラス張りのエントランスが目に飛び込んできた。一瞬、血に染められた俺の姿が目に映る。そのせいで、少し眩暈のようなものがしたものの、何とか耐えて、病院の中に入った。
病院の中には、もう担任の先生とクラスメイトの女子二人が揃っていて、俺が来たのは最後だったようだ。
「遅い、何で十分前に集合しないの?」
クラスメイトの女子の片方が、俺が来たことに気付いて文句を言ってくるが、集合時間に間に合っている以上、文句を言われる筋合いはない。そうして、何も言い返さずに黙っていると、さらに――。
「ほら、やっぱり真面目にやる気ないんじゃないの?」
もう片方の女子が、半ば呆れたように肩をすくめる。その声音には、からかいと牽制が半分ずつ混ざっていた。
俺は視線を合わせず、ただ鞄の肩紐を握り直す。言い返す言葉はいくらでも浮かぶが、口にする気はなかった。どうせ何を言っても、彼女たちの中で俺の評価が変わることはない。
「まぁまぁ、二人とも」
担任が間に入るように声をかける。
「時間には間に合ってるんだから、それでいいじゃない」
その言葉で、何とか文句の声は収まったけれど、その顔を見ると、まだ不満が消え去ってないことは明らかだった。
やがて、集合時間になると、一人の看護師が俺たちの方にやってくる。
「ボランティアの生徒さん達ですか?」
落ち着いた声色の女性だった。白衣の袖口から覗く手首は細く、名札には「佐伯」と書かれている。どこかで見たことがあるような気がしたが、それはきっと気のせいだろう。
俺たち三人と担任の先生ががうなずくと、その女性は柔らかく微笑んだ。
「今日はよろしくお願いします。まずは簡単に説明をしますので、こちらへどうぞ」
俺たちは担任に促され、エントランス横の小さな会議室へと移動する。冷房の効いた室内は外の熱気とは別世界で、思わず肩の力が抜けた。
「今日のボランティアは、夕方までやってもらいます。まず、そこの女子二人には、子ども病棟での読み聞かせや遊び相手、高齢者病棟での傾聴などをしてください。そっちの男子は、洗濯物やリネンの仕分け、軽清掃や環境整備をしてもらいます」
佐伯さんの視線が、自然と俺の方に向く。その目は責めるでもなく、ただ業務的な確認をしているだけなのに、なぜか背筋が少しだけ強張った。
「私は女子二人の手伝いをするので、貴方はその場にいる看護師の指示に従ってください。詳しくは、このプリントにあるので、それに従ってください。では、解散」
椅子の脚が床を擦る音とともに、女子二人はすぐに立ち上がり、佐伯さんの後について会議室を出ていった。
俺も腰を上げたが、足取りは自然と遅くなる。はぁ、何でせっかくの休みの日にこんなことをしなければならないんだ。まぁ、こんなプリントを見なくても、するべきことは理解しているのだけど。
そうして、俺は近くにあった階段を上り、三階にある洗濯室に向かって行った。洗濯室の前に着くと、中から機械の低い唸りと、洗剤の匂いが漏れており、ドアを開けると、白衣姿の年配の看護師がこちらを振り向く。
「……あんたが今日のボランティアかい?」
「そうですよ、何をしたらいいんですか?」
看護師は俺を一瞥すると、手元の作業を止め、壁際に置かれた大きなカートを指差した。
「じゃあ、これお願い? きれいなシーツが入ってるから、五階のリネン庫まで運んで補充して。棚のラベルに病棟名が書いてあるから、それに合わせて置いて」
「分かりました」
「あと、手指の消毒はしたかい?」
「はい、さっき済ませました」
「じゃあ大丈夫。エレベーターは突き当たりを右、患者さんや点滴スタンドとすれ違うときは、必ずカートを止めて道を譲ってあげな」
看護師はそう言って、すぐに自分の仕事にとりかかった。これ以上の説明は無いらしい。
(はぁ……)
心の中で、ため息を吐いてカートを押し始める。腰の高さほどあるリネンカートは、見た目以上に重い。金属の枠に布袋が張られ、その中に畳まれたシーツがぎっしり詰まっている。両手で押すと、タイヤが床を噛む感触が腕に伝わり、わずかに軋む音が廊下に響いた。
自分は決して力が少ない方ではないが、それでもこんなに苦労するのだ。こんなものを普段から運んでいる看護師には敬意を抱いたほうが良い。それに、看護師はブラック企業だってよく聞くし。
そんなことを思いながら俺はリネンカートを押していく。突き当たりを右に曲がると、エレベーターが見える。
途中、点滴スタンドを押す看護師とすれ違い、俺はカートを止めて壁際に寄せた。
「ありがとう」
短く礼を言われ、軽く会釈を返す。
そうして、エレベーターの扉を開けて、カートを押し込む。俺は、この中では誰にも見つからないと思い大きく息を吐いた。昔から、何度か来たことがあるこの病院。
最後に来た中学二年生の時からは改修されているようで、随分と新しくなっているが、それでも根本的な構造は変わらない。そのせいで、少し嫌な記憶が何度か蘇ってきていた。
「まぁ、あの悪夢のせいで、相対的にはマシな方なんだがな」
やがて、エレベーターが五階について、扉が開いた。その刹那、眩暈が襲い掛かってくる。まだ五階以外は何とかなった。外壁は改修されていたおかげで、何も影響を受けることが無かったのだが、五階から見るあの時とは変わっていない窓の外の景色は、今の俺でも直視するのがきつかった。
喉の奥がひりつき、無意識に視線を逸らす。そうでもしないと、この階では歩くことさえできやしない。
――余計なことは考えるな。
そう自分に言い聞かせ、リネン庫へ向かう。棚の前に着くと、ラベルを確認しながらシーツを一枚ずつ収めていった。布の擦れる音だけが、静かな空間に淡く響いていた。
「はぁ、やっと終わった。さっさとこの階から出ていこう」
エレベーター前まで戻り、呼び出しボタンを押す。扉が開くまでの数秒が、妙に長い。視線を落とし、床のタイルの模様を数えてやり過ごす。
三階の洗濯室にカートを戻すと、年配の看護師がまた声を掛けて来た。
「お疲れさん。じゃあ、次は待合室の雑誌を整えて、椅子を軽く拭いてくれるかい? 終わったらまた声をかけて」
「……分かりました」
休む暇もないとは……。誰かが最近の技術とかで、こういう単純な作業を代わりにやってくれる機械を作ってくれないかな?まぁ、問題点がありすぎて、実用化されるのはずっと先なんだろうけどさ。
そんなことを考えながら、階段で一階まで下りていく。一階の待合室には、たくさんの人が自分の呼ばれる順番を待っていて、空いている席がほとんどなかった。この状態では、椅子を掃除したり、雑誌を並べるなんて出来るわけがない。
とは言え、このまますぐ戻るわけにもいかず、待合室の隅に立って様子をうかがう。でも、人はどんどん増えていくばかりで、減る気配が無い、このままだと、一時間くらいずっと待つ羽目になりそうだ。
「はぁ、いったん戻るか」
そうして、俺は元の洗濯室に戻って事情を説明した。
「それなら、しばらく休憩してていいよ。中庭なら静かだし、呼び出すときは探しに行くから」
年配の看護師は手を止めずにそう言った。
勝手に動くわけにもいかないし、言われた通りにするしかない。
しばらく考えた末、病院の中庭へ向かうことにした。待合室の隅に立ち続けるよりは、患者の邪魔にもならないだろう。別に時間を潰せるような物が外にあるわけでもないが、中にいるよりかはマシだ。
病院の中庭は、太陽の光が差し込んでいて、決して涼しいとは言えなかった。ベンチがある場所は、ちょうど日陰にかかってるものの、こんなところで水分を持たず長時間いるのは危険だろう。
俺は、中庭にある自動販売機で、冷たいペットボトルのお茶を買った。硬貨を入れると、機械の奥からガタンと落ちる音が響き、その直後に冷えた感触が手のひらに伝わる。キャップをひねって一口飲むと、喉を通る冷たさが一瞬だけ頭の奥まで染み渡った。
そうして、ベンチに腰を下ろし、背もたれに体を預ける。日陰とはいえ、風はぬるく、頬を撫でるたびに湿気を運んでくる。何も考えないように空を見上げると、白い雲がゆっくりと流れていった。その穏やかな景色さえ、やけに癪に障る。
「はぁ」
視線を落とし、何も見ないように目を閉じる。この先に神がいるのなら、今すぐに墜ちてくればいいのに。
そんな時、背後から声がした。
「ため息を吐くと、幸せが逃げていくよ」




