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初日

 じりじりじりじりじり


「――ッ!はぁ……はぁ……はぁ……」


 俺は、息が詰まるような錯覚を覚え、目が覚める。

 枕元では、いつもの朝の様に、目覚ましがうるさく叫んでいる。


「……何だ、目覚ましか。チッ、嫌な夢を見た」


 胸の奥に、まだ鉄の匂いがこびりついており、耳の奥には電子音に変わる前の、セミの鳴き声が響いている。

 朝からこの感覚を味わうなんて、本当に気分が悪い。


「はぁ、着替えるか」


 俺の身体は、クーラーをつけていたにも関わらず、全身から汗が噴き出していて、シャツが身体に張り付いている。こんなことになるくらいなら、もう少し早く起きて、シャワーを浴びとけばよかった。

 そうして、俺はタンスの中から下着をとり、手っ取り早く着替えていく。あの悪夢のせいで、いつもより起きた時間が遅いから、ゆっくりしている時間なんて無い。


「湊ー!早く起きないと遅刻するわよー」


 下の階から、朝ご飯の用意をした母親の声が響いてくる。

 その声は、今の俺には少しきつい。


「……ああ、わかってるよ」


 返事をしながら、俺は制服のシャツに袖を通す。布の冷たさが、まだ火照った肌に心地いい。

 着替え終えると、机の上に置いてある鞄を取り、急いで階段を下りていく。昨日の俺がしっかり準備してくれているはずだから、忘れものなんてしていないはずだ。

 一回に降りると、母親がテーブルの上に朝食を並べていた。湯気の立つ味噌汁の匂いが、鼻腔を満たす。


 だが、今朝の悪夢のせいで、あまり食欲がわいてこない。用意された以上は食べるつもりではあるものの、間食できる可能性は低そうだ。

 箸を手に取り、味噌汁を口に運ぶ。出汁の香りと塩気が舌に広がるはずなのに、どこか金属の味が混じっている気がした。その感覚は気のせいであると頭では理解しているはずなのに、その錯覚が消え去ることは無かった。


「どうしたの?少し、顔色が悪いけど」


 母が心配そうに声を掛けてくる。


「ちょっと、夢見が悪かっただけだ」


 俺は短く答える。中二の頃のことを知っている母には、あまり余計な心配をかけたくない。だが、そんな隠し事が通じる相手ではない。


「……また、あの時の夢?気分が悪かったら、学校を休んでもいいのよ」


 その言葉に、箸を持つ手がわずかに止まった。やはり、見透かされている。隠せるとは思っていなかったけど、こうもあっさりと見透かされるとは。


「大丈夫だ。それに、先生に目をつけられているせいで、休むわけにはいかないしな」

「……そう、それならいいけど」


 母はそれ以上何も言わず、味噌汁の椀を自分の方へ引き寄せた。湯気がゆらりと揺れ、その向こうに一瞬だけ赤い色が滲んだ気がして、俺は思わず瞬きをする。

 ――大丈夫、それは気のせいだ。

 自分自身にそう言い聞かせる。だけど、その幻覚はとどめとなってしまった。


「……ごめん、食欲が無いから残すよ。じゃあ、行ってくる」

「お昼ご飯はしっかり食べるんだよ、わかった?」

「ああ、わかった。行ってきます」


 靴を履き、玄関の扉を開ける。湿った朝の空気が、熱を帯びた肌にまとわりつく。 外は、もう夏の匂いで満ちていた。アスファルトから立ち上る熱気と、庭木の葉を揺らす風の匂い。


 みーんみんみん

 じりじりじり――


 耳の奥で鳴り響いていた音と一致する。一瞬、あの時の光景が蘇るが、歯を食いしばって何とか耐える。 額に滲んだ汗を手の甲で拭い、歩き出す。 通学路は、いつもと変わらないはずだった。


 みーんみんみん

 じりじりじり――


 *


 誰にも話しかけることも無く、学校まで辿り着く。その間も、何回か眩暈がしたが、良くも悪くも、その程度で倒れるほど、貧弱な身体はしていない。

 そもそも、友達なんていないのだから、誰かに話しかけられることなど無いのだが。

 校門をくぐった瞬間、朝のざわめきが耳を満たす。笑い声、部活の掛け声、靴音、ボールの弾む音――生きている音。それらが、胸の奥をざらつかせる。楽しそうに息をしている連中にも、まだこの世界で息をしている自分にも、同じくらい腹が立つ。


 だが、その苛立ちは外に出すべきものではない。奥歯を噛みしめ、視線を足元に落とし、やり過ごす。

 教室の扉を開けると、既にほとんどの席は埋まっていた。俺の席は窓際の一番後ろ。誰とも目を合わせず、鞄を机に置く。視線を向けてくる者はいない。当然だ。俺がそう望んでいるのだから。

 窓際の席に腰を下ろすと、背中にじんわりと陽射しが当たる。カーテンの隙間から差し込む光は、俺に今朝の悪夢のことを思い出させて来る。本当に、腹立たしい。


 そんなことを考えていると、チャイムが鳴って担任が教室に入ってきた。


「はい、席についてくださーい。今日は連絡事項がありますよー」


 先生は、教卓の上に荷物を置いて、生徒たちにプリントを配っていく。


「今週の土曜日、市立総合病院でボランティア活動があります。患者さんとの交流や仕事の手伝いなどを行います。このクラスからは三名参加してもらうので、希望者は手を上げてください」


 教室の空気が一瞬だけ静まり、数秒後には小さなざわめきが広がった。

 だが、クラスメイトの女子二人しか、手をあげる者はいなかった。当然だ。休日を潰してまで病院に行きたい物好きなど、そう多くはない。彼女たちは、どうせ看護師になりたい人たちなのだろう。

 そもそも、土曜日なんて、ほとんどの人は部活動があるから、行きたくてもいけないだろう。学校の評判のために、ボランティアを強制するのはやめてほしい。

 だけど、担任の先生はそんな生徒の本音など気にも留めず、名簿を手に残り一人を探し始めた。


「……じゃあ、あと一人は――」


 その視線が、ゆっくりと教室を横切り、最後に俺の席で止まる。


「風間くん、お願いね」


 柔らかい声色だったが、それは拒否を許さない重みを含んでいた。


「……俺ですか」


 わざと確認するように言ったが、彼女はにこりと笑ってうなずく。


「そう、君は部活動をしていないでしょう?だから、土曜日でも問題ないわよね」


 その表情が柔らかくても、逃げ道など最初から用意されていない。ボランティアに強制参加させるくらいだったら、成績を上げてくれないと割に合わない。どうせ、そんなことはしてくれないのだろうけど。


「……はい」


 短く答えると、担任は満足そうに名簿へチェックを入れた。その音が、やけに大きく耳に残る。周囲の視線が、ほんの一瞬だけこちらに集まる。好奇心、同情、あるいはただの暇つぶし――どれも鬱陶しい。

 俺が周囲に問題児だと思われていることは理解しているし、実際に良くないうわさが流れていることも理解している。だが、それを否定する気も、訂正する気もなかった。

 どうせ、何を言ったところで信じたいようにしか信じないのが人間だ。ならば、わざわざ口を開く労力すら惜しい。


(それにしても、病院か)


 俺は手元のプリントを見下ろし、土曜日に行くことになった病院へ思いをはせる。せっかくの休みに、病院へ行くことになるなんて、本当に気が進まない。出来ることなら、一生行きたくないのに。

 俺にとって、病院という場所は、この世で二番目に行きたくない場所なのにさ。


「それでは、朝礼を終わります。一時間目は……数学ですか。朝から大変ですが、寝ないように気を付けてください」


 担任の言葉を合図に、教室の空気がゆるみ、椅子のきしむ音やページをめくる音があちこちで響き始めた。

 俺はプリントを二つ折りにして、無造作に机の端へ置く。視界の端で、さっきまでこちらを見ていた連中が、もう興味を失ったようにそれぞれの会話へ戻っていく。

 はぁ、本当に今日は最悪な日だ。朝から嫌な夢を見るし、せっかくの休みの日に、よりによって病院でボランティアをする羽目になった。


 みーんみんみん

 じりじりじり――


 空いた窓から、セミの鳴き声が聞こえてくる。


 *


 その後は、特に事件らしいこともなく時間が過ぎていった。ただ、朝の出来事が頭から離れず、授業に集中する気にはなれなかった。黒板の文字を追うふりをしながら、意識は何度も遠くへ漂っていく。


「風間、寝るな。平常点を下げるぞ」


 意識が夢へ旅立とうとした時に、先生の声が鋭く耳を打った。おかげで、目が覚めて、授業に集中できる。後一分ぐらいで、授業が終わるのだが。

 そうして、残り一分の授業を真面目に受けて、六時間目の授業が終わる。チャイムが鳴り終わると同時に、教室のざわめきが一瞬だけ高まった。

 だが、すぐに担任が入ってきて、その空気を押し戻す。


「はい、終礼を始めます」


 連絡事項は、明日の持ち物と部活動の大会日程、それから土曜日のボランティアの再確認。俺の名前がまた出たが、特に何も言わずにやり過ごす。

 外の景色を見る。校庭では、傾いてきた太陽の光によって作られた影が、長く地面に伸びている。先に終礼を終わらせた生徒たちは、その影の中に向かって駆け出し、部活動に励んでいく。

 少しうらやましいとは思うが、俺にはそんなことをする権利など無いし、あの中で楽しめるとも思っていない。


「これで、終礼を終わります」

「起立」


 そんなことを考えていると、担任の先生が終礼を締めくくり、クラスの委員長が号令をかけていた。


 「礼」

 「「「ありがとうございました!」」」


 全員が一斉に頭を下げ、形式だけの感謝の言葉が教室に響く。俺もそれに倣って腰を折った。心はどこにも向いていない。そもそも、強制的にボランティアに参加させた担任に払う敬意など、存在するわけないだろう。

 そうして、教室の中に、椅子のきしむ音や鞄を引き寄せる音、クラスメイト達の笑い声が響いていく。だけど、それらは俺に縁が無いものだ。そんなものを無視して帰ろうとする。

 そんな時、珍しく後ろから声が掛けられた。


「ねぇ、風間っていう名前よね?」


 振り返ると、病院のボランティアに行くと手を挙げていた女子二人が立っていた。どちらも、俺とはこれまで一言も交わしたことのない顔だ。


「真面目にする気あるの?」


 一人が、探るような目で俺を見て言った。その声音には、純粋な確認とも、半分は牽制とも取れる色が混じっていた。

 刹那、教室が静かになり、みんなが俺のことを注目する。周囲の人間には、俺は何をするのか分からない人間に思われているのだろう。今まで、他人と関わろうとしてこなかったし、授業を真面目に受けていないから、良いように思われていなくても、仕方がない。

 でも、正直に言おうとは思えなかった。


「……さぁな」


 短く吐き出したその言葉は、教室の空気に沈んでいく。女子二人の表情がわずかに固まり、互いに視線を交わす。その間にも、周囲の視線はまだ俺の背中に突き刺さっていた。


「は?真面目にしないってこと?入院している人に迷惑が掛かるかもしれないんだよ」


 もう一人の女子が、少し語気を強めて口を挟んだ。その声は、教室のざわめきの中でもはっきりと響き、周囲の耳を引き寄せる。

 でも、その言葉に返事をするつもりなど無い。俺は目も合わせずに鞄を持ち上げて、何の返事をせずに教室から出ていった。背後から何か聞こえるが、そんなことはどうでもいい。


「迷惑をかける?そんなこと、するわけないだろ」


 誰にも聞こえないほどの大きさで、そう呟く。


 みーんみんみん

 じりじりじり――


 校舎から出ると、朝よりも多くの、セミの鳴き声が響いており、今朝の夢の残滓をまた引きずり出す。

 夏の昼は長い。太陽はまだ高く、日が落ちるまでにはまだ時間がある。今すぐにでも地に墜ちて、二度と蘇らなければいい――そんなことを考える自分に、苦笑すら浮かばない。

 額に滲んだ汗を手の甲で拭い、歩き出す。この暑い道では、家までの距離がいつもよりも長く感じられた。通学路の両脇では、庭木の葉が風に揺れ、影がアスファルトの上で揺らめいている。その影の形が、ふとあの日の森の木々と重なり、胸の奥がざらついた。


 やがて、自宅の玄関が見えてくる。ドアを開けると、そこには誰もいなかった。当然だ。幼い時に父は死んでいて、それ以来母親が金を稼いで生活していたのだ。あいにく、ローンなどは無かったので家を失うことにはならなかったのだが、それでも、今日この日まで生きてこれたのは母親のおかげだ。

 俺は家の中に入ると、汗を拭き、服を着替えてベットの上で横になった。もし、母親がここにいるならば、シャワーを浴びろと言うのだろうが、今はそんなことをする気分にならない。


「病院でボランティア、か。笑えない冗談だ」


 あの時の記憶から、だいぶ離れることが出来たの思っていたのにもかかわらず、運命がそれから逃れさせてくれない。まるで、わざと引き戻そうとしているかのように。

 頭の奥に沈めていたはずの光景が、じわじわと浮かび上がってくる。あの焼けつく陽射し、耳を埋め尽くす蝉時雨、そして――赤。

 俺はあの時の光景から逃れるように、深い眠りに落ちていった。

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