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エピローグ

 みーんみんみん

 じりじりじり――


 八月の昼下がり、病院の中庭にはセミの声だけが容赦なく降り注いでいた。照りつける日差しを浴びて、白い壁は青ざめるほどの白さを増し、逃げ場のない暑さが足元から伝わってくる。

 俺は車椅子の結衣を日陰のベンチに誘導し、背後から軽く背もたれを調整した。


「……ここ、涼しいね」

「ああ、そうだな。病院の中は、もっと涼しいけど」


 皮肉交じりに、そんなことを呟くと、結衣は少し笑った。


「でもさ、仕方がないじゃんか。だって、外の空気はこんなにも綺麗で、おいしいのだから」


 結衣はそう言って、木漏れ日の揺れる空を見上げた。セミの声が一層強く響き、夏の昼下がりの重さを際立たせる。 その音が、頭の奥で響いて、少し頭痛を感じるが、結衣の横顔を見ていると不思議と気にならなくなった。

 この一か月、俺たちは何度もこうして中庭に出てきては、恵理の思い出や、最近起きたことを話し合った。その毎日は、とても楽しく、それは日課のようになっていた。

 良くも悪くも、あの時と同じだ。


 「そういえば、湊と一緒にいると、時間が早く過ぎる気がするんだ」


 結衣がぽつりと呟いた。


「病院の中で過ごす毎日は、どうしても同じことの繰り返しでしょ。でも、湊と一緒にいると、毎日が彩りが与えられて、少しだけ特別に思えるんだ」


 結衣はそう言って、恥ずかしそうに視線を逸らした。


「……俺もだよ」


 自然と口から出た言葉に、結衣は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「そっか。じゃあ、同じ気持ちなんだね」


 その笑顔を見て、胸の奥が温かくなる。恵理の死を受け止めきれずにいた俺にとって、この一か月は結衣と共に歩む時間だった。彼女の存在が、俺を前へと押し出してくれたのだ。

 だが、次の瞬間――。


「……っ、はぁ……」


 結衣が急に咳き込み、胸に手を当てた。肩が小刻みに震え、顔色がみるみる青ざめていく。


「結衣!」


 俺は慌てて背中を支えた。結衣は首を振り、無理に笑顔を作ろうとする。


「……大丈夫。ちょっと息が詰まっただけだから」


 口ではそう言うが、大丈夫そうには少しも見えない。


「それに、ほら、最近はこんなことがたまにあるでしょ。それと同じだから、大丈夫だよ」


 確かに、最近の結衣は今のように息が詰まっていることが割とある。だけど、今回のはそれらのどれよりも酷そうに見えたし。ただでさえ結衣は心肺機能が低いのだから、心配して当然だ。


 「……結衣、本当に大丈夫じゃないだろ」


 俺は声を潜めながらも、必死に訴えた。彼女の唇はわずかに紫がかっていて、呼吸のたびに胸が苦しそうに上下している。


「湊……」


 結衣はかすかに笑みを浮かべようとしたが、その笑顔はすぐに崩れ、再び咳き込んだ。


「ごめんね、心配かけてばかりで。でも、今日はもう帰って。私のことは大丈夫だから」

「でも……」


 言いかけた俺の言葉を、結衣は首を振って遮った。


「ずっと付き添ってくれてるのは嬉しいけど、湊だって疲れてるでしょ。家に帰って、ちゃんと休んで。明日も来てくれるんでしょ?」


 その瞳は弱々しい光を宿しながらも、俺を気遣う強さを秘めていた。結局、俺は何も言い返せず、彼女に背中を押されるように病院を後にした。

 病院を出ると、夏の蒸し暑い空気がまとわりつくように身体に張り付いた。全身から汗が湧き出てきて、シャツと肌を密着させる。その感触がとても気持ち悪い。


 みーんみんみん

 じりじりじり――


 セミの鳴き声が、辺りの空気を振るわせる。そのせいで、脳裏にあの時の記憶が置かんできた。

 赤い湖と、その真ん中にある白い物体――ソレは、恵理の死体を見つけた時に見た光景であり、まだ癒えていない、一生癒えることなどないトラウマそのものだった。そんなものを思い出してしまったせいで、急に不安が押し寄せて来た。

 胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。あの時の光景が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってきて、足が止まった。

 ――また、大切な人を失ってしまうのか。

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、背筋に冷たい汗が流れ落ちた。ソレは、真夏の汗なのにも関わらず、南極の氷のように冷たい。


「いいや、そんなことはない。だって、結衣は大丈夫だって言っていたんだから」


 俺は、自分自身に言い聞かせて、なんとか最悪のイメージを頭の外へ追いやった。それでも、不安は完全には消えてくれなかった。胸の奥に残ったざらつきは、まるで小石が心臓の中に入り込んでいるようで、歩くたびに痛みを伴った。

 ――その痛みは、決して消えない。


 *


 その日の夜は、いくら寝ようとしても、寝ることは出来なかった。布団に横たわっても、瞼を閉じても、脳裏に浮かぶ上がるのは結衣の苦しそうな表情ばかりだった。

 中庭で見せたあの弱々しい笑顔。紫がかった唇。肩で必死に繰り返される呼吸。耳の奥には、途切れ途切れの呼吸音がこびりついて離れず、まるで自分の鼓動と同調しているかのように響き続けていた。

 時計の針の音がやけに大きく響く。秒針が一つ進むたびに、胸の奥のざらつきが擦られて痛むようだった。時間が進むことが、結衣の命の残り時間を削っているように思えてならない。


「大丈夫だから」――信じたい。信じて安心したい。だけど、どうしても信じきれない。結衣の言葉は、俺を安心させるための強がりにしか聞こえなかった。何度も、何度も頭の中で響き、消えてくれない。どれだけ頭の外に追いやろうとしても、気づけばまた戻ってきて、胸を締め付ける。

 布団の中で寝返りを打つ。枕に顔を押し付けても、瞼を強く閉じても、結衣の姿が焼き付いて離れない。あの笑顔の裏に潜む苦しさを、俺は知ってしまった。だからこそ、「大丈夫」という言葉が、余計に痛々しく響く。

 窓の外からは、まだセミの声がかすかに聞こえていた。昼間の喧騒ほどではないが、夜の静けさに混じるその声は、かえって不気味に思えた。

 俺は布団を跳ねのけ、机に向かった。机の上には、恵理の押し花と未完の手紙が置かれている。手を伸ばして押し花を撫でると、その乾いた感触が、結衣と恵理のことを思い出させる。もう二度と、大切な人を奪われてたまるか。


 そう心の中で繰り返しながら、俺は机に突っ伏した。けれど、眠気は訪れない。瞼を閉じても、結衣の顔が焼き付いて離れなかった。

 夜は長く、重く、そして残酷に過ぎていった。時計の針の音が、まるで拷問のように耳を打ち続ける。秒針が一つ進むたびに、結衣の命が削られていくような錯覚に囚われ、胸が締め付けられた。

 気がつけば、窓の外が白み始めていた。鳥の声が遠くで鳴き、夜の闇を押しのけるように朝の光が差し込んでくる。

 俺は立ち上がり、カーテンを開け放った。眩しい光が部屋に流れ込み、机の上の押し花と手紙を照らす。その光景に、胸の奥で何かが決壊する。


「……結衣」


 眠っていない身体は重い。頭も霞がかっている。だが、そんなことはどうでもよかった。今すぐにでも結衣のもとへ行かなければならない。

 うまく動かない身体を無理やり動かして、病院に向かって行く。夏の暑さなんて、少しも気にならないし、汗が染みたシャツの感触すらも分からない。


「はぁ……はぁ……。結衣……」


 頭の中にあるのは、ただ結衣の姿だけ。

 ――どうか、無事でいてくれ。

 祈るように呟きながら、俺は正面玄関へ駆け込んだ。

 自動ドアが開くと、冷たい空気が肌を撫でた。だが、その冷たさすら心を落ち着かせてはくれない。病院の中に入った俺には、その冷房が効いた冷たい空気よりも先に、聞き覚えのある声が耳に飛んできた。


 「湊君!」


 それは、幼い時から関りのある看護師の佐伯だった。佐伯は、あの押し花と手紙を俺に渡してくれた時からも交友があり、少しばかり仲が良くなっていたのだが、こんなに焦った声は聞いたことが無い。それだけで、どんなことが起きたのか、簡単に予想出来る。


「佐伯さん! 結衣はっ、結衣はどうなんですか!」


 声が震えていた。胸の奥からせり上がる焦燥を抑えきれず、言葉が途切れ途切れになる。でも、この気持ちは抑えられない。

 佐伯は一瞬だけ目を伏せ、それから真剣な眼差しで俺を見つめた。


「落ち着いて、湊君。……結衣ちゃんは、今、先生が診ているところよ。容体は安定しているとは言えないけれど、まだ間に合う。だから、あなたが取り乱してどうするの」


 その言葉に、胸の奥で張り詰めていた糸がさらに強く引き絞られる。


「……間に合う、って……」


 思わず呟いた俺の声は、かすれていた。

 佐伯は小さく頷き、俺の肩に手を置いた。


「大丈夫。あなたが来てくれることを、結衣ちゃんはきっと待ってる。だから、しっかりして」


 佐伯はそう言って、俺を結衣のいるところまで導いていく。廊下を進むたびに、足跡が大きく響いて、心の中にある不安をより大きくさせる。

 やがて、俺は結衣がいる病室まで辿り着いた。


 「結衣! 大丈夫か⁉」


 勢いよく扉を開け放つと、そこにはベッドに横たわる結衣の姿があった。

 シーツに沈むように小さな身体。胸は浅く上下し、呼吸のたびに喉からかすかな音が漏れている。顔色は青白く、昨日よりもさらに血の気が引いて見えた。


「……湊……?」


 俺はベッドの傍らに駆け寄り、彼女の手を握った。冷たい。まるで氷のように冷たくて、思わず強く握りしめてしまう。


「ごめんね……心配かけてばかりで」


 結衣は弱々しく笑おうとしたが、その笑みはすぐに咳にかき消された。肩が震え、胸を押さえながら苦しそうに息を吐く。


「無理するな! 喋らなくていいから……」


 必死に声をかけるが、結衣は首を横に振った。


「……湊が来てくれて、嬉しいんだ。だから……大丈夫」


 その言葉は、昨日と同じように俺を安心させようとする強がりにしか聞こえなかった。どうして、こんなときにも、こういうことしか言えないのだろうか。

 その時、背後で扉が開き、医師が入ってきた。カルテを手にしたまま、深刻な表情で俺と結衣を見比べる。


「貴方は……?」

「俺は、結衣の友人です。先生、結衣は大丈夫なんですか?」


 その声は、恐怖で震え、霞んでいた。もし、大丈夫じゃないと言われてしまったら、どうなってしまうのだろうか。それは、俺でさえ分からない。

 医師はカルテを閉じ、深く息を吐いてから俺を見据えた。


「正直に申し上げます。結衣さんの容体は安定していません。心肺機能が著しく低下しており、このままでは危険です」


 ――危険

 その言葉で、何度も俺の頭の中で反響し、思わずよろめいてしまう。危険、その言葉が意味するのはきっと。


「……そんな……」


 声にならない声が喉から漏れる。足元が揺らぎ、今にも崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。でも、気を抜けば一瞬で倒れてしまう。


「先生……」


 そんな時、結衣が儚く小さい声を出した。


「危険のというあいまいな言葉を使わないでください……そんな言葉より、正確な数字を……」


 医師は一瞬だけ言葉を失い、カルテを見下ろした。


「……分かりました。正確にお伝えします」


 深く息を吐き、眼鏡の奥の視線を結衣に向ける。

「現状のままでは、余命は数週間から数か月。ですが、手術を行えば常人と同じくらいの年まで生きることができますが――成功率は三割程度です。よく両親と話し合って――」

「手術をします」


 悩んでいる時間など、コンマ一秒すらも無かった。その声は、弱り切った小さい声のはずなのに、この病室の中で強く響く。何が、結衣をここまで動かすのかわからない。


「結衣……!」


 思わず俺は彼女の名を呼んでいた。あまりに即答すぎて、心の準備が追いつかない。だが、その瞳には迷いがなかった。

 医師は少し驚いたように眉を上げ、それから静かに頷いた。


「……分かりました。ご本人の意思を尊重します。ただし、手術の準備には時間が必要です。ご両親にも必ず説明を行いますので、その上で正式な同意をいただきます」


 そう言って、医師は急いで病室から出ていった。おそらく、結衣の両親に連絡を取りに行ったのだろう。

 扉が閉まると、病室には静寂が訪れた。機械の規則的な電子音と、結衣の浅い呼吸だけが響いている。さっきまで医師の言葉に押し潰されそうだった胸の奥が、今は別の意味で締め付けられていた。


「……結衣、なんで……」


 思わずそんなことを呟いてしまう。でも、その答えはすぐに帰ってきた。


「なんでって……それは、湊を独りにさせたくないから」


 結衣はそう言って、かすかに笑みを浮かべた。弱り切った声なのに、その言葉は真っ直ぐで、俺の胸を深く突き刺した。


「結衣……」


 喉が詰まり、言葉が続かない。どうしてこんな時に、俺のことなんかを気にして――。本当は自分が一番苦しいはずなのに。

 結衣はゆっくりと視線を天井に向け、細い息を吐いた。


「私ね、ずっと怖かったんだ。恵理がいなくなった時も……湊がどれだけ傷ついたか、知ってるから。だから、私までいなくなったら、湊は……」


 そこで言葉を切り、かすかに首を振る。


「そんなの、絶対に嫌。だから、三割でもいい。生きられる可能性があるなら、私は賭けたい」

「結衣……」


 その言葉には、ダイヤモンドのように固い意志が含まれていた。今から、俺が――いや、誰が何を言っても、その決意を砕くことは出来ないだろう。だから、今の俺に出来るのは、手術が成功することを願うことだけだ。

 俺は、結衣の手を握りしめた。少しでもいいから、彼女の不安が和らぐように……。

 その手は氷のように冷たかった。けれど、確かに生きている温もりがそこにあった。俺はその感触を逃すまいと、さらに強く握りしめる。


「……湊」


 結衣が俺の名を呼ぶ。その声はかすれているのに、不思議と澄んで聞こえた。

 *


「じゃあね、また数時間後」


 あれからしばらくして、医師たちが病室にやってきて、少しだけ結衣と言葉を交わした後、彼女は看護師たちに支えられながら、ゆっくりとベッドごと手術室へと運ばれていった。

 その背中を見送ることしかできない自分が、情けなくて仕方がなかった。

――また数時間後

 結衣が最後に残したその言葉が、耳の奥で何度も反響する。扉が閉じられ、結衣の姿が完全に見えなくなった瞬間、足元から力が抜けそうになった。

 俺は壁に手をつき、必死に立っている自分を支える。


「……頼む、どうか……」


 声にならない音が、喉の奥からにじみ出てくる。赤く点灯した手術中のランプが、廊下の白い壁に不気味な影を落としていた。その光を見つめるたびに、胸の奥が締め付けられる。時間の流れが異様に遅く感じられ、秒針の音が一時間ごとになっているように聞こえてしまう。

 そして、無意識のうちに、俺は両手を組み合わせていた。

 恵理を失ったあの日、俺は神を呪った。そんな存在がいるなら、どうして彼女を救わなかったのかと。

 だけど今――結衣を前にして、俺は初めて気づいた。神というのは、全知全能の存在というわけでもなく、ただ苦しんでいる人の側で、そっと寄り合うことが出来る存在だということを。

 そして、祈りとは、神に奇跡を強いることじゃない。 ただ、この胸の痛みを委ね、そして生きようとする誰かのために願うことだ。

 ――それなら、俺は祈れる。結衣のために、何度でも、何度でも。

 きっと、あの時に神を呪ったのは間違いで、あの時にすべきだったのは、恵理の死後に救いがあるようにと、神に願うことだったのだ。


 赤く点灯したランプはまだ沈黙を続けている。

 だが、さっきまでのように押し潰されるような重圧は、少しだけ和らいでいた。


「……結衣。必ず帰ってこい。俺はここで待ってる」


 その言葉は、神への祈りであると同時に、自分自身への誓いでもあった。

 その瞬間、心臓が喉元まで跳ね上がり、時間が止まったように、廊下の空気が凍りついた。足元から血の気が引いていくのを感じながら、俺はただ、閉ざされた扉を凝視する。











 ランプが消えた。

 扉が開く。

 現れたのは、手術を担当した医師だった。その表情は、光と影の狭間に沈んでいて、すぐには読み取れない。


「先生……」


 声が掠れて、うまく言葉が出てこない。


「手術は――」


 *







 夏のはずなのに、丘の上を吹き抜ける風は妙に冷たかった。セミの声はどこにもなく、ただ草の擦れる音と、遠くの鐘の余韻だけが耳に残る。

 俺は教会の外に立っていた。

 目の前には小さな墓標が並び、そのひとつの前で足が止まる。石に刻まれた名前を指先でなぞると、ざらついた感触が皮膚に伝わった。

 ずっと、勇気が出なくて、ここに来ることが出来なかった。だけど、ようやく彼女の死と向き合うことが出来て、ここに足を運べた。

 まだ、完全に傷が癒えたわけでは無いし、一生この傷が癒えることはない。でも、今の俺は前を向いて歩くことが出来ている。それだけで、きっと彼女は喜んでくれるだろう。


「あのさ、俺はもう高校三年生になったよ。今年はもう受験だ。結局、生まれてから一度も部活に入ることは無かったけど、後悔は無いんだ。だって、クラスメイトに友達が出来たんだよ。信じられる? 俺は信じられないな。君もそう思うでしょ。だって、あの時の俺をしっているんだから」


 優しい声で、言葉を紡いでいく。


「あとね、将来の夢を決めたよ。俺は医者になる。学力的には、医学部に行けるぎりぎりのラインだけど、それでも俺は諦めないよ。だから、俺を見守っていてくれ」


 石に刻まれた名前は、返事をくれない。だけど、何故が不思議と聞いてくれているような気がする。冷たい風が一層強く吹き抜け、木々の葉を揺らす。その音はまるで、彼女が微笑んでいるかのように優しく響いた。

 そんな時、何者かが背後から俺の視界を塞ぎ、声を掛けてくる。


「だーれだ?」


 振替るまでもなく、その声の人物が誰なのかは分かっている。


「……結衣」


 俺が名を呼ぶと、彼女は小さく笑って手を離した。夏の風に揺れる髪が、夕暮れの光を受けて柔らかく輝いている。


「やっぱり当てられちゃったか」


 結衣は少し拗ねたように言いながらも、目元は優しく緩んでいた。

 俺は視線を墓標に戻す。そこに刻まれた名前――桜庭恵理。結衣もその名を見つめ、静かに息を吐いた。


「……恵理もきっと喜んでるよ。湊がここまで来られたこと」


 その声は、風に溶けるように穏やかだった。俺は小さく頷き、墓前に手を合わせる。


「うん。やっと、ちゃんと向き合えた気がする」


 あの時の手術は成功した。結衣が目を覚ました瞬間、あの冷たい手が確かに温もりを取り戻したことを、俺は今でも鮮明に覚えている。涙なんて見せるつもりはなかったのに、気づけば声を殺して泣いていた。結衣はそんな俺を見て、弱々しくも笑って「大げさだよ」と言った。――その笑顔が、どれほど尊く、どれほど救いだったか。


 それから、結衣に待っていたのはリハビリの数々、それらを俺と一緒に成し遂げ、結衣は車椅子なしで生活できるようになり、あの病院から退院した。その後は、俺の高校に転校してきたりして、いろいろあったのだが、今では俺の隣に立って、こうして一緒に恵理の墓前に手を合わせている。

 あの頃は想像もできなかった未来だ。あの頃の俺は、自分のことを永遠に責め続けていた。でも、やっと俺は俺のことを赦すことができ、幸せな未来を歩むことが出来る。


「ねえ湊。わたしね、あの時、手術室に入る前に言ったでしょ。『また数時間後』って。……ちゃんと約束、守れたよね」


 その言葉に、胸の奥が熱くなる。


「……ああ。守ってくれた。だから今度は、俺の番だ」

「俺の番?」


 結衣が首を傾げる。


「俺が約束する。これから先、どんなに大変でも、絶対に隣にいる。恵理に誓ってもいい」


 その言葉に、結衣は驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頷いた。 夏の風は冷たく、不快なセミの声はどこにもない。

 丘の上の教会の鐘が、夕暮れの空に柔らかく響き渡った。


ここまで読んでくださりありがとうございました!この話しで、この作品は完結します。もし、この作品が面白ければ、星評価などを下さると幸いです。ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!

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