火曜日2
「入るよ」
「うん、いいよ」
あの時の部屋――つまり、恵理の死に関するファイルがあった部屋の前に、俺たちは立っていた。扉一枚を隔てているだけなのに、胸の奥が重く圧し掛かるような緊張が漂っている。
結衣の横顔を盗み見ると、彼女もまた唇をきゅっと結び、視線を扉に固定していた。
その瞳には恐怖と決意が入り混じっていて、その気持ちが手に取るように伝わってくる。
コンコンコン――。
静かな廊下に、俺のノックの音が響いた。一瞬、時間が止まったように感じる。返事があるのか、ないのか。そのわずかな間が、やけに長く思えた。
「……どうぞ」
低く落ち着いた声が、扉の向こうから返ってきた。俺は息を呑み、結衣と視線を交わす。彼女は小さく頷き、震える手を膝の上でぎゅっと握りしめていた。
ギィ……と、扉を押し開ける。中は薄暗く、夏の光が窓から差し込み、机の上に積まれたファイルを照らしている。
その中央に、一人の女性が座っていた。
「佐伯さん……」
佐伯は、手元の書類からゆっくりと顔を上げた。窓から差し込む太陽光が彼女の横顔を照らし、その影が机の上に長く伸びている。
「なにをしているのですか、さっさとマスクをつけなさい」
佐伯の第一声は、それだった。思わず面食らう。もっと重い言葉が返ってくると覚悟していたからだ。
「……え?」と間の抜けた声を出してしまった俺に、佐伯は淡々と続ける。
「この部屋は、埃が舞っているんです。古いファイルばかりで、掃除も行き届いていない。長居すれば喉を痛めますよ」
それは、医療にかかわるものとして、当然の指摘だった。だけど、恵理の死に関することを言われると覚悟していた俺は、少しだけ肩透かしを食らったような気持ちになった。
「もし、マスクを持っていないのなら、これを使いなさい」
そう言って、佐伯はマスクを一つずつ、俺たちに渡していく。俺は、マスクを二つ用意していたのだが、この状況でそれを取り出すことはできなかった。
差し出された佐伯の手から受け取らざるを得ず、ぎこちなく「ありがとうございます」と口にする。
結衣も同じようにマスクを受け取り、静かに装着した。
その仕草を見届けると、佐伯はようやく椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
「……さて」
彼女の声色がわずかに変わる。先ほどまでの事務的な響きではなく、どこか覚悟を決めたような重さがあった。
「あなたたちがここに来た理由は、もう分かっています。――桜庭恵理のことですね」
その名が出た瞬間、結衣の肩が小さく震えた。俺もまた、胸の奥を鋭く抉られるような感覚に襲われる。やっぱり、彼女は恵理の死の真相を知っていたんだ。
「……はい」
緊張で声が掠れる。俺が追い求めてきたものが、ついに目の前に現れた。それがどんなものであろうと、逃げずに受け止めなければならない。
ふと結衣に目を向ける。その瞳は揺れていたが、奥底には確かな決意が宿っていた。俺と同じだ。怖い――だけど、もう後戻りはしない。
「お願いします。本当のことを教えてください」
俺が深く頭を下げると、部屋の空気がさらに重く沈んだ。時計の針の音と、外から聞こえるセミの声だけが、静寂を切り裂いている。
佐伯はしばらく黙ったまま俺たちを見つめていた。その瞳には、ためらいと痛み、そして語らざるを得ないという覚悟が入り混じっていた。
「……分かりました」
低く落ち着いた声が、ようやく沈黙を破る。
「貴方たちは、恵理の死の真相がどんなものだと思っていますか?」
佐伯の問いかけは、まるでこちらの覚悟を試すようだった。俺は言葉を失い、喉がひどく乾くのを感じる。結衣は、口を閉じ、目線を俺の方に向けた。その瞳には、俺のことを心配している気持ちが含まれていて、それだけで、少しだけ気が楽になる。だって、俺はもう独りじゃないから。
「俺の誕生日のために用意していた――押し花」
それ以上は言葉にしない。だけど、これだけで俺が言おうとしていたことは、全て佐伯に伝わり、彼女は少しだけ目を伏せた。彼女が今、何を思っているのかは分からない。でも、その表情だけで、どのような返事が来るのかは予想できる。
静寂がこの場を包んだ後、佐伯の一声がそれを切り裂いた。
「ええ、正解です。彼女は、作っていた押し花が風に飛ばされてしまい、それを取ろうとして……恵理は死にました」
胸が――心臓が握り潰されるような錯覚を覚える。恵理は、俺の誕生日のために――
「だから、私はずっと悩んでいました」
佐伯の声は、かすかに震えていた。
「私は、本来あなたが持つべきものを二つ持っています。でも、その二つはあなたを傷つけてしまう……そのことが分かっているからこそ、貴方に渡すことはありませんでしたが、今なら貴方に渡すことが出来ます」
そうして、佐伯は一歩――また一歩と近づいてくる。その歩みは、まるで過去の重みを一歩ごとに踏みしめているかのように、ゆっくりで、しかし確実だった。
俺と結衣の間に漂う緊張が、さらに濃くなる。佐伯は机の引き出しに手を伸ばし、二つの封筒を取り出した。一つは、真新しい白い封筒で。もう一つは、角が擦れて色褪せた茶色の封筒、そこには綺麗な文字で「湊へ」と書かれていた。
「……これが、その二つです」
佐伯は封筒を両手に抱え、俺たちの前に立った。
「一つは、恵理が最後まで大事にしていた押し花。あの時、警察が自殺だと判断したことに納得できなかった私が、この病院の外を探し続けて、見つけることが出来たもの」
それは、どれだけの執念で探し続けたのだろうか。恵理がいた病室は五階にあり、そこから押し花を風が強い日に落としたとなると、それを見つけることは、砂漠の中から一円玉を見つけるような、ほとんど不可能のような行為だったはずだ。
だけど、佐伯はソレを成し遂げた。その事実が、この軽い封筒を重くする。
「……私は、あの日からずっと探し続けました。誰も信じてくれなくても、あの子が自ら命を絶つはずがないと分かっていたから」
佐伯の声は低く、しかし確信に満ちていた。
「だから、押し花を見つけたとき……私はようやく、恵理の真実を取り戻せた気がしたのです」
そうして、彼女は白い封筒を差し出してきた。俺は、優しくその封筒を受け取り、中を開ける。そこには、少しばかり汚れていて、ところどころ破れている白いユリの押し花があった。保存状態は悪く、見た目は決して良いものでは無い。でも、何故か綺麗に感じた。
(これのせいで、恵理は……)
ふと、頭の中でそんな考えが浮かんでしまう。押し花は何も悪くないし、これに込められた思いは、清く立派なものだ。だけど、これのせいで恵理が死んでしまったのかと思うと、胸が締め付けられる。
もし、彼女が俺の誕生日に用意してあったものが、この白いユリの押し花以外の物であったのなら、こんなことは起きなかっただろう。そんな思いが、胸の奥でどうしようもなく渦巻いていく。
疑念、憤怒、後悔、絶望、虚無、悲嘆、怨嗟、喪失感――言葉に出来ないような感情が複雑に絡み合い、大きな網を形成していく。その負の網に心が包まれ、呼吸が浅くなる。胸の奥で何かが軋み、今にも崩れ落ちそうな感覚に襲われた。
この押し花を破ってしまえば、どれだけ楽になるだろうか。そんな思いが、耳の側でささやいてくる。実際に、もしこの押し花を破ることが出来れば、きっとこの心を包んでいる網も破れて、消えていくだろうし、何より自分を責め続ける理由から解放されるのではないか。
でも、そんなことは俺には出来ない。恵理がこれをどんな思いで作っていたのか、そして、キリスト教徒である恵理が、この白いユリにどんな意味を込めていたのか――それを思うと、俺には到底、破り捨てるなんてことはできなかった。
「……湊」
結衣がそっと俺の肩に触れた。その手は、震える俺の心を支えるように、静かで温かかった。
「恵理は、あなたを苦しめるためにこれを残したんじゃない、湊を喜ばせるために用意したの。だから、破らないで」
その声は、胸の奥に絡みついていた黒い網を、少しずつ解きほぐしていくようだった。俺は押し花を見下ろし、震える指先でそっと撫でる。
その押し花の花弁は、色褪せ、破れ、汚れている。だけど、そのすべてに恵理の思いが込められているような気がした。
「そうだな……」
かすれた声で呟く。
「これは、恵理が俺のために残してくれたものだ。俺を苦しめるためじゃなく、喜ばせるために。だから……大切に持ち続けるよ」
押し花には罪が無く、そこには恵理の思いがあるだけだ。その事実を受け入れた瞬間、胸の奥に絡みついていた重苦しい網が、少しずつほどけていくのを感じた。
「……ありがとうな、恵理」
きっと、このしおりを俺はずっと大事にするだろう。胸の奥に溜まっていた澱のような感情が、少しずつ流れ出していくのを感じた。押し花を握る手はまだ震えていたが、その震えは絶望からではなく、確かな温もりを抱きしめている証のように思えた。
そして、その様子を見ていた佐伯が、もう一つの古く茶色封筒を渡してきた。白い封筒とは違う重みがそこにはあった。見た目以上に、心を圧し潰すような重さが。
「……これは、恵理が最後に残そうとした手紙です」
佐伯の声は低く、しかし震えていた。
「これは、まだ作成している途中の物であり、最後まで書かれていません。だけど……そこに込められた想いは、確かに存在しています」
俺は押し花を胸に抱いたまま、震える指先でその封筒を受け取る。ざらついた紙の感触が、やけに生々しく伝わってくる。
もし、この中に自分を責めるような言葉が書かれていたら――。
もし、恵理の最後の想いが、俺の心をさらに抉るものだったら――。
そんな恐怖が、喉の奥を締め付け、封筒を握る手が汗で湿り、紙がわずかに軋んだ。
「……湊」
結衣が小さい声で呟く。
「大丈夫、わたしも一緒にいるから。湊は、独りじゃない」
その言葉に、張り詰めていた胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。結衣の瞳は揺れていたが、その奥には確かな決意が宿っている。
――俺は独りじゃない。
深く息を吸い込み、震える指先で封筒を開ける。その中には、一枚の紙が入っていて、その一文字一文字に、恵理の心が込められていた。
――湊へ
誕生日、おめでとう!
毎日のように顔を合わせているのに、どうしてわざわざ手紙なんて?って思うかもしれないね。
でも、これにはちゃんと意味があるんだ。言葉にして残すことで、気持ちが形になるから。
……本当は、目の前で言うのが恥ずかしくて出来ないだけなんだけどね。
それでね、なんでこんな手紙を書いたのかというと、日ごろの感謝を伝えたいからなんだよ。
どうせ、湊のことだから、わたしのことなんて、いつも笑っていて、明るい人だとでも思っているんでしょ。
だけどね、それは違うんだよ。わたしだって、不安になることもあるし、夜ひとりで泣いてしまうことだってある。
信じている神様に祈っても、すぐに心が軽くなるわけじゃない。弱い自分を隠すのが上手になっただけなんだと思う。
でもね、そんなときに思い浮かぶのは、いつも湊の顔なんだよ。あなたが隣にいてくれるって思うだけで、少しだけ勇気が出るの。
だから、この手紙は「ありがとう」を伝えるために書いたの。わたしが笑っていられるのは、湊がいてくれるからなんだよ。
それに、わたしは結構怖がりなんだ。一年くらい前に、この病院で親友ができたんだけど、その親友と湊が仲良くなって、わたしから離れてしまうんじゃないかって考えたら、どうしても紹介できなかった。
でも、一年かけてようやくその気持ちに踏ん切りをつけたから、今度こそ紹介するよ。これは、神様に誓うから。
最後に、どうしても伝えたいことがあるんだ。湊、わたしは……。
そこで、文字は途切れていた。何度も書き直した跡が紙に残り、インクのにじみが彼女の迷いを物語っている。最後の一言をどうしても書ききれなかったのだろう。彼女は、ここに何を描こうとしていたのだろうか? 何とか読み解こうとしても、何も分からない。
そんな時、結衣がそっと俺の手に触れる。その温もりが、現実へと引き戻してくれる。
「湊……恵理は、最後まで君に伝えようとしていたんだよ。言葉にならなくても、その想いはここに残ってる」
未完の手紙。これから、どんな言葉が続いていくのかは、誰にも分からない。だけど、その手紙に込められている思いは、確かにここに息づいている。
震える指で、消し跡をなぞる。そこには、彼女が何度も迷い、書いては消し、また書こうとした痕跡が刻まれていた。言葉にはならなくても、その迷いの一つひとつが、俺への想いの証のように思えた。
胸の奥に、静かな温もりが広がっていく。涙が滲み、文字が霞んでいくのに、不思議と心は澄んでいった。その想いだけで、生きていてよかったと思うことが出来る。
「ありがとう。最高の誕生日プレゼントだよ、恵理」
誕生日には約三年遅い――いや、少しだけ早いプレゼントだったけど、きっと俺は、この先の人生で何度もこの手紙を読み返すだろう。そのたびに、恵理の声が胸の奥で響いて、俺を立ち止まらせたり、また歩かせたりするんだと思う。
未完の言葉は、俺にとって呪いじゃない。むしろ、これからを生きるための祝福だ。
――湊、わたしは……。
その続きを、どう受け止め、どう生きていくのかは、俺自身に委ねられている。でも、俺はもう二度と悲観的にはならない。
俺は手紙を胸に抱きしめ、深く息を吸い込んだ。窓の外から差し込む光が、少しだけ眩しく感じる。恵理の残した未完の言葉は、俺の生き方で完結させる。そう思うと、胸の奥にあった重苦しい影が、静かに溶けていった。
結衣が隣で小さく微笑んでいた。その瞳には涙が浮かんでいたけれど、確かな強さも宿っている。
「湊……良かったね」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「ああ……もう大丈夫。佐伯さん、ありがとうございます。これを俺に渡してくれて」
佐伯はしばらく黙ったまま俺を見つめていた。その瞳には、安堵と寂しさが入り混じっているように見えた。
「……あの子も、きっと喜んでいるでしょう」
そう言った声は、かすかに震えていたが、どこか救われたようでもあった。
俺は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
佐伯は、その言葉を背に、この部屋から出ていった。
扉が閉まる音が、部屋の静寂に溶けていく。 残されたのは、押し花と手紙、そして結衣と俺だけ。 窓から差し込む光は、さっきよりも柔らかく感じられた。
「湊……これから、どうする?」
結衣の問いかけは、未来を見据えるためのものだった。
「そうだな……日が暮れるまで、まだまだ時間はあるし、中庭で恵理との思い出でも話さないか?」
恵理の思いをしれたから、今は悲しみに沈むよりも、彼女と過ごした時間を大切に語りたいと思った。 結衣は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……うん、いいね。わたしも聞きたい」
そういって、二人は中庭に向かって歩き出す。廊下に差し込む光は、さっきよりも温かく感じられ、その時の俺たちは、しっかりと前を向いていた。




