火曜日1
次の日
「よし、早退するか」
チャイムが鳴り響いた瞬間、俺は机の中に忍ばせていた早退届を握りしめた。理由欄には体調不良とだけ書いてある。嘘だと分かっている。だけど、今の俺にとっては、これが唯一の正解だった。
職員室で担任に紙を差し出すと、思ったよりもあっさりと受理された。
「……無理しないでくださいよ」
担任の目には、わずかな疑念が浮かんでいた。だが、俺はそれ以上視線を合わせず、軽く会釈して職員室を後にした。長居はできない。体調不良が嘘だと悟られる前に、ここを離れなければならない。
それに、何より――一刻も早く病院に行きたい。
「それに、これから病院に行くってことは、実質体調不良みたいなもんだろ」
そんなことを呟きながら急いで足を動かす。この姿を担任の先生に職員室の窓から見られてしまえば、きっと叱られるだろう。そもそも、俺は素行があまりよくないから、反省文のような面倒なことになるかもしれない。
だけど、それでも別に構わない。どうせ、明日以降は早退して結衣に会いに行くことなんて、結衣が赦してくれないから出来ないし、今日あの佐伯という名前の看護師に話を聞くことが出来れば、病院に行く用事が無くなるからだ。
それでも、結衣と話したいから、何度も病院に通うつもりなのだが……。
「……ははっ、良くも悪くも、あの時と同じだな」
学校終わりに、友達に会うために病院に通う。ソレは、小学生や中学生の時にしていたことであり、恵理が死ぬまで続けていたことだ。
胸の奥で、懐かしさと新しい熱が入り混じる。罪悪感も、後悔も、まだ消えてはいない。それでも、足は迷わず病院へと向かっていた。
みーんみんみん
じりじりじり――
全身に蝉時雨を浴びながら、俺は何とか病院にまでたどり着いた。額から流れ落ちる汗は首筋を伝い、シャツの内側に染み込んでいく。布地が肌に張り付き、息をするたびに不快な熱気がまとわりついた。
だけど、そんなことは気にならない。病院の中は冷房が効いていて、すぐに汗は引いてくれるし、何より結衣と会うことが出来れば、この不快感なんて消えてくれる。……一つ、心配していることを上げるとするならば、今の状態の俺が近づくことを、結衣が赦してくれるかどうかだけだ。
自動ドアが開いた瞬間、冷気が一気に流れ込んできて、火照った身体を包み込んだ。張り付いていたシャツが少しずつ乾いていく感覚に、ようやく息が整う。
そんな時だった。
横から何かが飛んできて、反射的に手を伸ばす。冷たい感触が掌に収まり、ようやくそれがアクエリアスのペットボトルだと気づいた。
「……っ」
思わず握り直し、飛んできた方向に視線を向ける。そこには、少し――いや、かなり怒った様子の結衣が立っていた。頬をふくらませ、腕を組み、じっと俺を睨んでいる。、その表情から伝わる怒気に、背筋がぞくりと冷えた。ついさっきまで夏の暑さにぐったりしていたはずの身体が、一瞬で氷点下に放り込まれたように強ばってしまう。
どうやら、彼女は本気で怒っているらしい。心当たりは――すごくある。
「や。やぁ……おはよう、結衣」
「えぇ。こんにちは、湊。この時間は学校があるはずなのに、どうしてここにいるのかな?アレだけ言ったのにも関わらず、学校をさぼったの?」
その言葉に、喉がひどく渇いた。言い訳を探そうとするけれど、頭の中は真っ白で、まともな言葉が出てこない。
「……いや、その……さぼったっていうか……」
声が掠れる。結衣の視線が突き刺さり、背中に冷たい汗が流れ落ちる。
「……午前中は学校に行ってたから、サボりではないよ」
必死に絞り出した言葉は、我ながら苦しい言い訳にしか聞こえなかった。
結衣はじっと俺を見つめたまま、ふぅっと小さく息を吐く。
「それを世間ではサボりって言うんだよ。しょうがないから、今日は赦してあげるけど、次は無いからね」
結衣の言葉は、冷たくも優しさを含んでいた。
怒っているのは確かだが、その奥には、俺の将来心配しているという気持ちが透けて見える。
「……はい」
俺は素直にうなずくしかなかった。反論の余地なんてない。結衣の言う通りだ。
「あ、言い忘れてたけど――一回くらいなら赦してくれるだろうなんて考えてたでしょ。そういうの、わたしには全部バレてるから」
結衣はわざとらしく肩をすくめ、けれどその瞳は真剣そのものだった。
「次は本当に許さないよ。……湊に後悔してほしくないから」
どうやら、そっちもバレていたらしい。二度と結衣相手に隠し事をしないと誓おう。どうせ、隠すことなんて出来やしないから。
それにしても、確か恵理も隠し事をすぐに見破って来たな……。俺がどんなに取り繕っても、声の調子や視線の揺れだけで、すぐに気づかれてしまった。恵理も、結衣も、なんでここまで俺の嘘を見破ることが出来るか、さっぱりわからない。
「わるかったって。それで、今日はこれからどうする?」
この話を続けるのは危険だと、本能が告げていた。だから、急いで話題を変える。
結衣はため息を吐き、呆れたように肩を落としたが、やがて小さく笑ってその話題に乗ってきた。
「そうだね……今日こそは、佐伯さんに話を聞こうか。もしかしたら、あのファイルとは全く関係ないかもしれないけど、その時はその時に考えよう」
そして、少し意地悪そうに唇を吊り上げる。
「じゃあ今日の罰として――車椅子、押してもらうからね」
「……そんなこと、言われなくてもするのに」
思わず口を尖らせて返してしまうけれど、結衣はそんなことに興味が無い様で、楽しそうに車椅子を押してもらうのを待っていた。どうやら、罰ゲーム的な面白さを感じているらしい。……はぁ、それなら仕方がない、付き合うか。
俺は、結衣の後ろをに回り、車椅子のハンドルを握る。金属の冷たさが掌に伝わり、妙に現実感を覚える。
「よし、まずはどこに行こうか」
「そうだね、まずはナースステーションかな」
結衣は少し考えるように視線を上に向け、それから俺の方を振り返った。
「佐伯さんがいるかどうか、確認してみよう」
「……分かった」
俺は短く答え、車椅子を押し出す。車輪の回るカラカラという音が、病院の廊下に響いていくが、すぐに周りの音に消されて、廊下を進むたびに、消毒液の匂いが鼻をかすめる。
白い壁と床はどこまでも同じ景色で、歩いているのに前に進んでいないような錯覚さえ覚えた。
「……なんか、緊張してきたな」
思わず口にすると、結衣が小さく笑う。
「わたしだって、緊張はしているよ。でもね、やっと胸の奥でくすぶっていた物が無くなるかもしれないんだ。ここで逃げ出すわけにはいかないよ」
「そうだな。それは――俺も同じだ」
俺も、もう逃げださず、恵理の死という現実を受け止めよう。ソレは、とても辛いことかもしれないし、永遠の苦しみを俺に与えてくるかもしれない。だけど、俺はソレがどんなものであっても、絶対に認めなければならない。俺が前に進むためには、必要なことだから。
やがて、ナースステーションが見えてくる。しかし、そこには佐伯の姿は無かった。書類を整理する看護師や、電話を取るスタッフの声が交錯しているだけで、探していた人物の影はどこにも見当たらない。
「……いないな」
思わず口にすると、結衣も小さく首を振った。
「そうだね。今日は、佐伯さんがいる曜日のはずだし、この病院の何処かにいるのかも。結構広いけど、探しに行こうか」
そう結衣が呟いた時だった。後ろから、聞き覚えのある――そして、恐怖を感じる声が投げかけられた。
「アンタ、学校はどうしたの?」
振り返ると、そこに立っていたのは、先週のボランティアで出会った年配の看護師だった。皺の刻まれた顔は笑っているようで、しかし目だけは鋭く、こちらを射抜いてくる。
どうやら、彼女は俺がこんな時間い学校にもいかず、この病院にいることに対して、疑問と怒りのようなものを感じているようだった。その怒りは、学校をさぼったことに対する怒りであり、まるで氷の刃のように俺の胸を突き刺した。
言葉を返そうとしたが、喉がひどく乾いて声が出ない。なんで、今日はこんなにも怒られないといけないんだ。……あっ、俺が学校をサボったからだ。自業自得過ぎて、言い訳が出来ない。
そんな時、その空気を断ち切るように、結衣が口を開いた。
「湊が今ここにいるのは、わたしの我儘なんです」
結衣の声は、張り詰めた空気を切り裂くように響いた。
「どうしても来てほしかったから、お願いしたの。だから、湊を責めないでください」
年配の看護師の視線が、俺から結衣へと移る。その目は、俺に向けられた時よりもさらに鋭く、何かを探るように細められていた。いや、どちらかというと、その目線の正体は……。
「嘘つくんじゃないよ、その程度の嘘、あたしが見破ることが出来ないと思っているのかい?」
年配の看護師の声は低く、しかし確実に俺たちの胸を抉るように響いた。笑みを浮かべた口元とは裏腹に、その目は氷のように冷たく、結衣を射抜いている。
「……っ」
結衣の肩がわずかに震えたのが、車椅子越しに伝わってきた。それほどまでに、この看護師の目線は鋭く、恐ろしい。あの時、結衣が怖くて有名な人だと言っていた理由が、今なら痛いほど理解できる。
でも、このまま庇われるのは、違う。俺が勝手な理由でここに来たんだから、怒られるのは、俺だけでいいはずだ。
「すみません。本当は、俺が黙ってここに来たのが原因なんです。……結衣と話したかったから、学校を抜け出して」
恵理の死には、触れていないが、これは俺の本心でもあった。
年配の看護師の視線が、再び俺に突き刺さる。その目は、まるで心の奥底まで見透かすようで、背筋が冷たくなる。
「……結衣ちゃんと話すために、学校を抜け出した?」
年配の看護師の声は低く抑えられていたが、その奥に潜む怒気は隠しようもなかった。まるで、俺の言葉の一つひとつを試すように、鋭い視線が突き刺さる。
「……はい」
逃げ場はない。俺は小さくうなずき、震える声で答えた。看護師はしばらく黙ったまま俺を見据えていたが、やがて深く息を吐いた。
「はぁ、相変わらず、アンタはそういう人間なんだね。あのころから、何も変わっちゃいない」
その言葉に、胸の奥がざわりと揺れた。
――あのころ?
思わず顔を上げる。だが看護師の表情は、呆れたように口元に笑みを浮かべながらも、懐かしい物を見るように目を細めていた。
「……どういう意味ですか」
声が震えていた。問いかけというより、反射的に漏れた言葉だった。
「どういう意味もなにも、言葉通りの意味よ。数年までの、恵理ちゃんが生きていた時と同じ。あのころから、アンタはいつだって、その他の何よりも大切な人と一緒にいる時間を大事にしてた。他のことなんて、何一つ見向きもせずに」
それは、俺の過去を知らなければ出てこない言葉だった。つまり、この看護師は、昔から俺のことを知っていたということだ。俺は、この人のことを知らないのに。
「なんで……」
思わず、弱々しい声で呟いてしまう。俺は、この人のことを知らない。なのに、どうして俺の過去を、恵理との時間のことまで知っているんだ。胸の奥がざわつき、冷たい汗が背中を伝う。
そんな俺の様子を見て、看護師は呆れた様子で溜息を吐いた。
「なんでって……そういうところだよ。アンタと恵理のことなんて、当時からここで働いている人なら全員知ってる。成長して体格や顔が変わったとしても、一瞬で見破れるくらいには。だけど、アンタは当時話したことがある看護師なんて、誰一人覚えていないんだろうね……。せめて、佐伯の奴ぐらいは覚えていると思っていたんだが」
佐伯、ここでその名前が出てくるのは予想外だった。やはり、俺は過去に彼女と関わったことがあったのか。だけど、記憶の中をいくら探しても、彼女に関する物は何も出てこない。なんで、俺は覚えていないんだろうか。
「なんで、佐伯さんの名前が出たのですか……」
「そんなの、アンタと恵理が初めて会った時に、当時まだ新人だった佐伯が関わっているからよ。本当に覚えてないの?」
その言葉を聞いた瞬間、あの時の記憶が蘇った。
『そうなの?じゃあ、お母さんを探してあげないとね』
それは、俺がまだ幼く、この病院で迷子になった時に、母親を探してくれた看護師の言葉。確かに、あの人の顔などは覚えてないが、雰囲気は覚えている。おそらく、佐伯さんと会った時に感じた懐かしさは、きっとそれなのだろう。
それにしても、本当に同一人物なのか?過去の佐伯さんと、今の佐伯さんが同じ人物だとはとても思えないんだが。
「へぇ、そんな顔をするってことは、やっと思い出したのかい」
看護師がそんなことを呟く。その声には、呆れのようなものも含まれていたが、どこか喜びのようなものもあった。
「で、でも、昔の佐伯さんと今の佐伯さんでは印象が全く違って……」
「そんなの、当たり前じゃない。あの一件は、人を変えるには十分な出来事だよ。アンタにも心当たりがあるだろう」
……それは、そうだ。恵理の死という強烈な出来事は、人の在り方を変えてしまうことだってある。それは、俺自身の変わりようで証明できるだろう。
だから、あの時の人物が佐伯さんだというのは、本当のことなんだろう。
「わたしたちは、佐伯さんを探しているのだけど、どこにいるか知ってる?」
目の前にいる看護師の怒りが和らいでいることに気が付いた結衣が、いつもの調子で話しかける。
看護師は結衣の言葉に一瞬だけ目を細めた。その表情は、先ほどまでの鋭さを少しだけ緩めたものの、完全に警戒を解いたわけではない。
「……あの人を探してるのかい?」
低く呟いた声には、探りを入れるような響きがあった。結衣は小さく頷き、真っ直ぐに看護師を見つめ返す。
「うん、どうしても聞きたいことがあるから」
看護師はしばらく沈黙した。廊下の時計の針の音がやけに大きく響き、時間が止まったように感じられる。
やがて、彼女は深く息を吐き、肩を落とした。
「……なるほどね。そういうことだったのかい。今の佐伯なら休憩中だろう。あの部屋にいるはずさ。場所は分かるだろう?休憩が終わる前に、さっさと行ってきな」
それだけ言い残すと、看護師は踵を返し、再び仕事へと戻っていった。残された廊下には、消毒液の匂いと、胸の奥に残る不穏な余韻だけが漂っていた。
俺たちは、じっとその後ろ姿を見つめていた。あと少しで、恵理の死の真相がわかるかもしれない――その思いが胸を締めつける。
「……行こうか」
結衣が小さく呟いた。声は震えていたが、その瞳には迷いがなかった。
俺は無言で頷き、車椅子のハンドルを握り直す。金属の冷たさが掌に伝わり、現実感を強く突きつけてくる。廊下を進むたびに、消毒液の匂いが鼻をかすめ、靴音と車輪の音がやけに大きく響いた。
同じ白い壁と床が続く病院の景色は、まるで出口のない迷路のようで、心臓の鼓動だけが道しるべになっていた。
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