月曜日3
「落ち着いた?」
「ああ……悪い。無駄な時間だった」
そう口にした瞬間、自分でもその言葉が強がりにしか聞こえないことに気づいた。だけど、結衣は笑ったり怒ったりせずに、小さく首を横に振った。
「ううん、無駄な時間なんかじゃないよ。湊にとっても……わたしにとってもね」
結衣は、そう言ってほんの少しだけ笑った。その笑みは、優しくて柔らかく、胸の奥に残っていたざらついた痛みを、ほんの少し和らげてくれるようだった。あまりにも、その感覚が心地よくて、これが一種の麻薬のように感じてしまう。
だけど、同時に、怖さもあった。
この心地よさに甘えてしまえば、俺はまた立ち止まってしまうんじゃないか――そんな予感が胸の奥でざわめく。
「……ありがとな」
ようやく絞り出した言葉は、情けないほど小さかった。何度も情けない姿を見せることになったのが恥ずかしかったからなのか、あれだけの決意を見せておいて、結局結衣の言葉が無ければ自責に沈んでしまっていたのが情けなかったからなのか。それは自分でも分からない。
まぁ、そんなことはどうでもいいだろう。理由が分かったとしても、何も変わらないのだから。
「どういたしまして。そういえばさ、何で急にこんなことを聞いてきたの?昨日は聞いてくる気配がしなかったのに」
その質問に、俺は一度だけ深く息を吐いて、結衣の目をまっすぐ見ながら答えた。
「あくまでこれは俺の予測なんだけどさ。あのファイルを定期的に見返している誰かは、ペンが落ちていた理由も、恵理の死の真相も知っていて、それらをわざと俺たちに隠している。結衣が俺に、押し花のことを隠していたように」
その言葉に、結衣は目を見開き、驚いたように息を呑んだ。だけど、すぐに視線を落とし、唇を噛んでから小さく頷く。
「……確かに。わたしは、押し花のことを湊に言えば、湊自身が傷ついてしまうと思って、何も言えなかった。だから、隠したの」
結衣はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに俺を見つめる。
「でも、ペンの謎や恵理の死の真相が、わたしたちを傷つける可能性のあるものだったとしたら、わたしと同じように考える人が、他にもいても……おかしくないよね」
結衣は、俺と同じ考えに至っていた。それは、俺の考えには一定の確かさがあるという証拠だった。ならば、当面の間は、この仮説に従って恵理の死について探っていくべきだろう。
……問題点を上げるとすれば、恵理の死について知っている人物の心当たりが、俺には一切なかったということだけだ。
「……なぁ、結衣は心当たりがあるのか?」
「うーん、恵理とかかわりがある人物でしょ……恵理はこの病院に長い間いたから、範囲が多すぎて絞れないよ。むしろ、これに関しては、幼少期からこの病院に通っている湊の方があるんじゃないの?」
うん、一般的に考えたら、そうなるだろう。ただ、俺に心当たりが無いのは、仕方がないことなんだ。とっても言いにくい理由なんだけど……な。
「……俺には、心当たりが無いな」
「ほんとー?わたしと同じように何か隠していない?」
結衣が、じっと俺の顔を覗き込んだ。その目は、俺の心を全て見透かしているようで、隠し事が出来る予感がしない。それならば、バレる前に言ってしまったほうが、俺にとってダメージが少なくなるだろう……誤差程度かもしれないけど。
「本当だよ。俺には心当たりが一切ない……だって……恵理以外に興味が無かったから……誰も覚えてない」
言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついた。結衣の瞳が揺れ、唇がわずかに開いては閉じる。予想していなかった答えに、どう返すべきか迷っているのが伝わってきた。
沈黙が痛いほど長く感じられる。俺は視線を逸らし、握りしめた拳に爪を立てた。
――やっぱり、言うべきじゃなかったか。
やがて、結衣は小さな溜息を吐き、静かに言葉を紡いでいった。
「……そっか、湊は心の全てを恵理で満たしていたんだね。いいじゃん、その事実を恵理が知ると、きっと喜ぶよ」
結衣は、言葉ではそう肯定していた。だけど、俺のほうに得体のしれないものを見たような目を向けていて、それが少しだけ俺の心を傷つけていく。確かに、これは自分でもおかしいと思っているよ。幼少期からずっとこの病院に通っていて、看護師一人の名前すら憶えていないのは、いくらなんでも現実的ではないだろう……現実に起こってしまったのだが。
やっぱり、これは言わない方が良かったのかもしれない。
……もっとも、学校のクラスメイトの名前を一度も覚えたことがない、という事実までは口にしていないのだから、まだマシなほうかもしれないが。
「でもさ、本当に誰のことも覚えてないの?」
結衣が首をかしげながら問いかけてくる。
「名前までは無理でも、顔とか、雰囲気とか……そういう断片くらいは残ってるんじゃない?」
結衣の問いに、胸の奥がざわついた。俺が、何度も会ったことがあるはずの看護師――顔も、声も覚えていない。だけど、何故か俺の直感が、その存在だけは確かにそこにあったと告げている。
その人物の雰囲気は、つい最近も出会ったはずだ。確か、その人物の名前は――。
「……佐伯?」
それは、土曜日のボランティアで最初に会った看護師で、昨日あの部屋で恵理の死の真相について探っていた時に、不意に部屋の中へ入って来た人物。彼女は、初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい気配をまとっていた。つまり、それは俺がこの病院に通っていた時にあったことがある人物だということを示している。
いったい、いつ彼女と会ったのだろうか?
「……佐伯って、あの看護師さんのことを言っているの?確かに、あの人は昔からここにいるらしいけど、患者に深入りするイメージが無いんだよね」
結衣は、そう言って少し悩んでいる様子を見せた。どうやら、佐伯という看護師は、結衣とはあまり親しくないようであり、患者とはあまり親しくならない人らしい。なのに、何で俺には、あの人のことが印象に残っているのだろうか。昔の顔も、声も、名前すらも覚えていなかったのに。
いや、もしかしたら、昔は患者と関わっていたのかもしれない。それが、恵理の死ということの出来事のせいで、患者と関わることを恐れてしまった……まぁ、これはただの想像だから、そうとは限らないけど。
「まぁ、一応聞いてみる価値はあるんじゃないのか?」
「そうだね。でも、今日はもう日が暮れそうだし、明日以降に聞いてみよっか」
空を見上げてみると、少し前までオレンジ色だったのが、群青に沈みかけていて、星々が光り輝き始めていた。その光は、暗闇の中に散らばる小さな手がかりのように瞬いて見えた。
不安はまだ存在するし、もう一度……いや、何度も苦しむかもしれない。それでも、この熱があるのなら、また歩いていける。……こんな光を魅せてくれる星に、思わず感謝したくなる。
「湊は、明日ここに来るの?」
空を見上げていると、不意に結衣の声が耳に届いた。
「できれば来たいけれど、明日は七時間目までだから、ここに来ることは難しんだよな……いっそ、学校を休んででも来るか」
俺にとっては、それも十分に選択肢の一つだった。学校の成績よりも、恵理の死の真相の方がはるかに重要だ。テストの点は悪くないし、留年の心配もない。将来の夢も志望校も、俺には無い。だから、多少成績が下がったところで、痛みにはならない。
でも、結衣にとっては、それを認めることは出来ないようだ。
「それは、駄目。せっかく学校に行けるんだから、ちゃんと授業を受けて、友達としっかり話して」
「……友達なんていないんだけど…………」
言った瞬間、少しばかりの沈黙がこの場を包んだ。
結衣の瞳がわずかに揺れ、俺をまっすぐに見つめる。
「……湊」
その声は、驚きと、少しの哀しみを含んでいた。
「ごめんね。友達がいない人に、こんなことを言ってしまって」
その言葉が、胸に染みる。少し前までは、友達なんていらないと思っていたけど、結衣と出会ってから、その考えは少しずつ揺らいでいた。
「……別に、謝ることじゃないよ。本当のことだし」
そう言った瞬間、自分の声が思った以上に掠れていることに気づいた。強がっているつもりなのに、胸の奥がじんわりと痛む。改めて、自分で言うと、その事実の悲しさが、思っていた以上に重くのしかかってきた。
孤独を当然のように受け入れてきたはずなのに、口にした瞬間、それがただの言い訳だったことを思い知らされる。
結衣は、そんな俺の心の揺らぎを見透かしたように、静かに口を開いた。
「大丈夫だよ。同じ学校ではないけど、わたしという友達がいるんだからさ」
その言葉は、胸の奥にじんわりと広がっていく。確かに、結衣とは仲がいい方だとは思っていた。だけど、この関係を友達と言っていいのかは、俺には分からなかった。
本当に、俺が友達でいいのだろうか。恵理以外に友達がいなかった俺には、その答えが分からなかった。
そんな疑問が思い浮かんだせいで、何も言えない状態になった俺を見て、結衣が首を傾げながら問いかけてくる。
「どうしたの?もしかして、わたしは友達じゃないって言いたいの?」
結衣の声は、冗談めかしているようでいて、その奥にほんの少しだけ不安が滲んでいた。
「……いや、そういうわけじゃないよ。本当に、俺なんかが友達でいいの?ほら、俺ってめんどくさいし、すぐ自責の念に駆られてしまって、側にいるだけでも疲れると思うんだけど」
そんなことを言うと、結衣は大げさなくらい肩を落とし、心底呆れたように言った。
「はぁ……ほんと、湊ってそういうところあるよね。自己評価が、とっても低い。今までのことから考えると、それは仕方がない部分もあるけれど、それを理由に自分は友達にふさわしくないなんて言うのは違うよ。恵理だって、湊と一緒にいる時間を心から楽しんでた。わたしも同じ。めんどくさいとか、自責に駆られるとか、そういうのも含めて湊なんだよ」
何も言えない。でも、それが結衣の本心だってことは、彼女の目を見れば理解できる。結衣は、俺と一緒にいる時間を心の底から楽しんで、喜んでいる。その事実が、どうしようもなく胸に迫ってきた。
ここで、もし――本当に、そう思ってるのか?と言ってしまえば、結衣は本当に怒るだろう。さすがに、俺と絶交するまではいかないだろうが、当分口をきいてもらえなくなるのを覚悟しなければならない。だから、喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込んだ。
「そっか、俺たちは友達だったんだ」
「そうだよ。わたしたちは、もう友達なの」
結衣は、まるで当たり前のことを告げるように微笑んだ。その笑顔は、思わず見惚れてしまうほど優しい笑顔であり、孤独だった俺の心に、友達という名の温かさを与えてくれる。
「あっ、一応言っておくけど、わたしと湊の関係は友達だからね。私にとっての親友は、恵理だけだから」
結衣は少しだけ視線を落とし、どこか照れくさそうに、だけど真剣に言葉を紡いだ。その言葉に、思う所なんて存在しない。なぜなら、恵理は結衣にとっても特別で、かけがえのない存在だったからだ。
その親友という言葉が恵理に向けられていることが、むしろ嬉しく、恵理という人物を、俺だけじゃなく、結衣も同じように大切に思っている事実が、胸の奥をじんわりと温めていく。
「そりゃそうだ。別に自分を卑下したいわけじゃないけど……恵理と俺を比べたら、やっぱり恵理の方がずっと凄い存在だったと思う」
恵理は、とても信仰深く、困っている人がいたら、迷わず手を差し伸べ、生まれた時から身体が悪かったのにもかかわらず、常に笑っていて、周囲に明るさをもたらしてくれる人物だったのだ。俺には、到底真似できない。
……俺に出来るのは、自分のことを責め続けることだけだったから。
「わたしは、そんなことないと思うけどね。湊って、他人と関わることを避けているだけで、実際には優しいし」
結衣は、まるで当たり前のことを言うように微笑んだ。
「優しい……?」
思わず聞き返す。自分ではそんなふうに思ったことは一度もなかった。むしろ、優しさからは、程遠い人物だと思っているのに。
「そうだよ。車椅子を押している時も、わたしのことをずっと気遣っているし、他人の話を聞き流したりせずに、ちゃんと聞いてるからね……まぁ、返事をするかどうかはその時しだいだけど」
結衣は少し肩をすくめて、からかうように笑う。
「でもね、そういうところが大事なんだよ。他の人がどう思うのかは知らないけど、わたしにとっては、返事があるかどうかよりも、ちゃんと聞いていることの方が大事だから。それに、ちゃんと他人のことを見ているんだなって伝わってくるしね」
その言葉に、俺はどう返せばいいのか分からなくて、ただ黙り込んだ。褒められることに慣れていないせいで、胸の奥がむず痒く、頬がじんわりと熱を帯びていく。
――これ以上ここにいたら、きっと顔に出てしまう。
「……そうか。ありがとな。じゃあ、もうこんな時間だし……俺は帰るよ」
強がりのように言い残して、その場を離れる。だけど、結衣には俺の気持ちが伝わっているようで、優しいほほえみを浮かべながら、じっと見送っていた。
「ふふっ、照れ隠しなんてしなくていいのに。……ばいばい、湊」
その声が背中に届いた瞬間、胸の奥がさらに熱を帯びていくのを感じた。
みーんみんみん
じりじりじり――
セミの鳴き声が、夏の夕方の空気に溶けていく。その鳴き声と、結衣の言葉が混ざり合い、妙に心がざわついて、今まで感じたことが無いような感覚に襲われる。嬉しいような、苦しいような――はたまた、悲しいような。
そんな思いを胸に、群青の空へ歩いていく。
*
家に帰ると、冷蔵庫の中には母が用意してくれていた晩御飯が並んでいた。ラップに包まれた皿の上には、豚バラ巻。電子レンジで温めると、肉の香ばしい匂いがふわりと広がり、現実に引き戻される。
「……おいしいな」
たった独り、俺しかいない食卓で、そんなことを呟く。誰に聞かせるわけでもない言葉が、部屋の中で淡々と響き消えていく。そこには、結衣の明るい声も、忌々しいセミの鳴き声もなく、ただ静寂だけが横たわっていた。
だけど、そこには不思議と寂しさが存在しなかった。以前までは、誰もいない部屋で食べていると、味を感じるより先に虚しさが押し寄せてきたのに。
何故、寂しさを感じないのか。そんなことを思っていると、結衣の笑顔が頭に思い浮かんだ。
以前までの俺は、自らソレを望んでいたとはいえ、ずっと独りだった。恵理は死に、母親は仕事で家におらず、父親は記憶の片隅にしか存在しない。
だけど、今は結衣という友人がいる。たとえ、今晩御飯を食べている時は独りであっても、少し離れた病院に行けば、友人と会うことが出来る。それだけで、身近な孤独など、少しも感じることは無かった。
「明日、どうしようか」
出来ることならば、明日も病院に行き、結衣に会いたい。だけど、明日の学校は七時間目まであるから、病院に行くことが出来たとしても、ほんの少しの時間しか滞在できず、会うことすら出来ない可能性がある。
いっそのこと、学校を休んでしまおうかと考えたのだが、それは結衣に止められている。どうすればいいのだろうか、そんなことを考えた時、一つの考えが思い浮かんだ。
「あ、早退すればいいんだ。そうすれば、結衣にも会えるし、学校を休んだことにもならない」
もちろん、これは屁理屈であって、結衣が納得しない答えであることも理解している。だけど、こんな隙を残していた結衣にも責任はある――そう思った瞬間、思わず苦笑してしまう。頭の中で、困ったような、怒ったような顔をしている結衣が思い浮かんだからだ。
「……でも、会いたいんだよな」
ぽつりと漏れた声は、静まり返った部屋に吸い込まれていく。恵理を失ってから、誰かに会いたいと思う気持ちを抱くことなんてなかった。だけど、今の俺は結衣に会いたいなと思ってしまっている。その事実が、どうしようもなく、嬉しかった。
まだ、この身に宿る罪悪感が無くなったわけではない、まだ神に対する怒りは残っている。だけど、結衣という清い水のおかげで、それらが少し薄くなっていた。
「よし……そうと決まれば、さっさと宿題を終わらそう」
そう呟いて、食器を流しに運ぶ。水道の蛇口をひねると、冷たい水が皿に当たり、かすかな音を立てて弾けた。流れ出した水に触れると。身体の中に宿っていた熱がどんどん奪われていき、少しだけ気持ちが良い。
だけど、その熱が無くなることは無く、むしろ心の奥底にある何かが炉心のように燃え続け、そこから絶え間なく熱があふれ出していく。
「ははっ、本当にどうかしているよ。俺は」
一週間前の俺ならば、こんな気持ちになることは無かっただろう。それなのに、今の俺はこの一週間で別人のように変わってしまっている。過去の俺と今の俺を知るものが見れば、同じ顔、同じ声、同じ遺伝子をもっているだけの別人のように感じてしまうだろう。それほどまでに――俺は変わってしまった。
そんなことを思いながら、階段を上り、自分の部屋の机に向かって、ノートを開いた。ペン先を紙に走らせながらも、頭の中では結衣の笑顔がちらついて離れない。どうやら、友達と言われたことで、浮かれているらしい。
「恵理がいたら、なんて言うのだろな」
思わず口にしたその言葉は、ペン先の動きを止めさせた。恵理なら――きっと、あの優しい笑顔で「よかったね」って言うのだろうか。それとも、「やっと友達ができたんだね」って、少しからかうように笑うのだろうか。いいや、もっと別の――
だけど、そんな仮定に答えはない。もう恵理には会えないし、正解など存在しないのだから。
……それでも、俺は考えてしまう。もし、恵理が生きていたら――
今まで避けてきたその問いに、ようやく向き合えるようになったのは、きっと結衣のおかげだった




