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月曜日2

「ふぅ、確かに外は良いね。頭がすっきりする」


 中庭は、日が地面に落ちる時刻が近づき、夏の暑さが少しずつ和らぎ始めていた。柔らかな夕陽が芝生を金色に染め、風が花壇の白いユリをそっと揺らして、病院の中では感じられなかった透き通った空気が、肺の中を満たしていく。

 どうやら結衣も、この空気を味わうことで、先ほど俺が口にした適当な理由に納得してくれたらしい。……まぁ、そんな当てつけのような理由を疑いもせず信じてしまう結衣に、少し危うさを感じているのも事実なんだけど。


「それで、良い案を思いついたの?」


 外の空気を存分に吸い込み、結衣がこちらを覗き込むように問いかけてきた。彼女も、ここへ来てから次の一手を考えていたようだが、結局は答えを見つけられなかったらしい。まぁ、それも無理はない。外に出る程度のことで、簡単に解決策が浮かぶような問題じゃない。

 だけど、今から俺が口にするのは、それとは少し違う話だ。


「まだ何も。だけど、一つ自称美少女の結衣に聞いておきたいことがあるんだけど、聞いていいか?」


 その言葉に、結衣は胸を張り、得意げに笑った。


「当然!美少女のわたしに答えられない問題なんて、存在しないからね」


 やっぱり、結衣ならそう言うと思った。美少女と持ち上げておけば、きっと調子に乗ってくれるだろうと、この数日間で仮説を立てていたが、どうやら的中したらしい。

 ……それにしても、どうしてここまで美少女という言葉を強調するのか。おそらく、その癖は恵理の影響なのだろう――そんな予測が、自然と頭に浮かんだ。


「それならさ……恵理が隠していたこと、その心当たりについて、教えてくれるよな」

「えっ?」


 結衣の笑顔が、夕陽の中で時が止まったかのように固まり、瞳が、ほんの一瞬揺れた。 胸を張っていた肩がわずかに落ち、唇が小さく閉じられる。


「……どうして、今それを聞くの?」


 声は小さく、さっきまでの軽さが消えていた。

 俺はユリの花弁が揺れるのを見ながら、ゆっくりと答える。


「ずっと気になってた。結衣が心当たりがあるって言ったあのこと……俺が知ったら意味がなくなるって言ってたけど、それが何なのか、やっぱり知りたい」


 結衣はしばらく黙っていた。風が二人の間を通り抜け、蝉の声が遠くで響く。やがて、彼女は深く息を吐き、少しだけ笑みを取り戻す。


「……今は、まだ言えない。だって……」

「だってじゃない。知りたいんだ。俺は……恵理のことを、全部知っておきたい」


 胸の奥で、決意がゆっくりと形を成し、岩のように固まっていくのを感じた。何を言われても、この思いは揺らがない。たとえその答えが、俺をさらに苦しめるものであっても――それでも、向き合わなければならない。

 結衣は、俺の決意を受け止めて、少し目を伏せ、短く息を吐いた。そして、何かを決心した様子で、車椅子の車輪を自分の手で回し始める。

 ゆっくりと花壇の白いユリへ近づいていくその背中は、いつもの軽やかさを失い、静かな緊張を帯びていた。

 俺は黙ったまま、その横顔を見つめ続けた。そこには、冗談を言う時の明るさも、挑発的な笑みもなく、ただ静かに何かを抱え込む人の表情があった。

 その沈黙を破る言葉を、今の俺は持っていなかった。


「ねぇ」


 結衣は花壇に充分近づくと、車椅子の上からそっと手を伸ばし、白いユリの花弁を優しく撫でた。その指先の動きは、まるで赤子の体を触る時の様に、静かで柔らかい。


「湊ってさ、押し花の作り方って知ってる?」


 俺は思わず眉をひそめた。


「押し花……?」


 唐突すぎる問いに、頭の中が一瞬空白になる。さっきまでの緊張感が、別の方向へねじ曲げられたような感覚だ。

 押し花の作り方――そんなこと、知っている訳が無い。母親はいそがしくて、一緒に何かをする時間なんて滅多になかったし、恵理以外の友達がいないせいで、そんなことを教えてくれる人もいなかった。

 でも、それが恵理が隠していたことに、どんな関係があるのだろうか?俺には、さっぱり予想できない。


「……知らないな」

「そっか。ま、それは仕方がないことだし、気にしなくていいよ。押し花ってのはね、まずは生きている花を摘むんだ。できるだけ形がきれいで、色が鮮やかなやつをね」


 その声は、まるで遠い記憶をなぞるようにゆっくりで、柔らかかった。


「それを紙に挟んで、重しを乗せて……時間をかけて、ゆっくりと乾かす。そうすると、花は色を残したまま、薄く平らになって、ずっと形を保つんだ。それはね……まるで、幸せな時が止まって、ずっと続くように」


 俺は黙って聞いていた。ただ、何故だか分からないけど、漠然とした不安が胸の奥にじわりと広がっていった。結衣の声は穏やかで、押し花の説明に過ぎないはずなのに、その比喩がどこか不吉な予感を伴って響いてくる。


 「……なんで、そんなことを急に言うんだ?」


 気づけば、声が少し震えていた。

 結衣はユリの花弁から手を離し、俺の方を見た。その瞳は、まるで俺の胸の奥にある不安を見透かしているようで、逃げ場を失った気がした。


「何で……ね。そういえば、話は変わるけど、湊の誕生日って、もう少しだよね」


 俺は一瞬、言葉を失った。

 誕生日――それは、俺にとって、最も意味を持たない日。祝福の響きなど一片もなく、ただ空虚さだけを思い出させる日。ただ、この世界でその日を知っているのは、母親だけのはずなのだ。

 ……なのに、どうして結衣が知っている?結衣が俺の誕生日を知っていたという事実が、胸の奥で、冷たいざわめきを広げさせていく。


「……どうして、それを知ってるんだ」


 声は低く、掠れていた。問いというより、吐き出すような言葉だった。

 結衣はすぐには答えなかった。ただ、夕陽に照らされた横顔を静かに保ち、ユリの花に視線を落としたまま、その沈黙が、俺をさらに追い詰める。


「恵理がね、湊の誕生日にサプライズをしようって言いながら、押し花を作ってたんだ。そのために、この白いユリを育てていたし、押し花を作っていたことはわたし以外に言わないようにしてた。……私が言うのはここまで。だって、ここから先は、ただの推測だから」


 結衣の言葉が、胸の奥に重く沈んでいく。

 恵理が――俺の誕生日に、サプライズをしようとしていた?確かに、恵理はそういう性格をしている。サプライズのような、他人を驚かせ楽しませることが好きな奴で、俺は何回もサプライズをされたことがある。

 ――やめろ、それ以上考えるな。

 だから、結衣が言っていることは正しいのだろう。そういえば、恵理は、俺が夏休みの間も病院に通うと言った時、喜んでいたよな。その理由の一つには、俺の誕生日の時にサプライズをすることが出来るということが分かったからなのかもしれない。

 ――分かっているだろ!もう、後戻りはできないんだぞ!

 それで、押し花を作っていたのか。確かに、俺にばれたら意味が無くなるものだな。

 



 押し花――?

『天候――晴

 時間――十四時三十六分

 風向――東南

 風速――平均7.2、最大瞬間12.8』

 昨日に見た、あのファイルの内容が、急に頭に思い浮かんだ。天候、時間、風向、風速。それは、あの午後の記録だ。恵理が死んでしまった、あの日の昼の。

 胸がぎしぎしと、軋みの音を立てていく。長い間、岩のように固めてきた決心が、ひび割れ、崩れ落ちて、砂のように消え去っていく。でも、踏み出してしまった足は、もう引き戻すことが出来ない。

――あの日、風は強かった。

 換気のために開け放たれた窓から、軽いものは容易く吹き飛ばされる。押し花にしようとしていた白いユリも、例外ではなかったはずだ。

 風に煽られ、宙へと舞い上がり、彼女はそれを追いかけて――。


「それは……つまり…………」


 喉が焼けるように熱くなり、胃の奥から酸っぱいものが逆流してくる。息が詰まり、肺が縮み上がる。頭の中で、何度も何度も同じ光景が繰り返される。

 ユリの花弁が舞い、恵理が窓辺に身を乗り出す。

 揺れるカーテン。

 伸ばされた手。

 そして――消える姿。

 あくまで、これは俺の想像での話。違う可能性もあるはずだ。事故ではなかったかもしれない。俺のせいではなかったかもしれない……そう思いたいのに、一度、そうだったのかもしれないと考えてしまった瞬間から、もう他の可能性を受け入れられなくなる。

 胸の奥で、死者の冷たい手が心臓を鷲掴みにする。

 吐き気が喉元までせり上がり、指先が痺れ、背筋が氷のように冷たくなる。

 全身を締め付ける圧迫感が、容赦なく思考を潰していく。


 ――恵理が死んでしまったのは、俺のために作った、押し花のしおりが原因だ。俺の誕生日に渡そうとしていた、ただの白いユリの花のために。それを守ろうとして、彼女は――。


 その事実が、胸の奥に突き刺さる。痛みではなく、沈黙のような重さで。言葉にならない後悔が、喉の奥で膨らみ、呼吸を奪っていく。

 もし、俺があの時、恵理と出会っていなければ、恵理が押し花を作ることは無かったし、俺の誕生日を祝おうなんて、考えることもなかったはずだ。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。

 もし、出会わなければ。

 もし、幼馴染なんて関係じゃなければ。

 もし、俺が彼女の世界に存在しなければ――。

 恵理は、命を落とすこともなかった。

 俺の存在そのものが、彼女を死へと追いやったのだ。


「……っ」


 喉の奥で声が押しつぶされて、言葉にならない。思考は千切れた糸のように散らばり、暴走を始めていた。恵理の死の真相が、こんな理由だと、まだ断定出来ていないのに。

 それと同時に、結衣があれだけ言い淀んでいた理由が、理解できた。おそらく、彼女も俺と同じような考えに至っているのだろう。だから、恵理が押し花を作っていたという事実を、ここまで隠していた。

 ははっ……でも、ある意味これでよかったのかもしれない。 これで、ようやく彼女の死は俺のせいになった。 自殺じゃない。だから、魂には救いがある――そう思えば、少しは楽になれるはずだ。

 ………………ふざけるなよ。


 何が救いだ。恵理は、あんな時に死ぬべきじゃなかった。こんな死に方をしていいはずがない。それを、救いなんて言葉で片づけた瞬間、俺自身が恵理を二度殺すことになる。だからこそ、彼女の死を肯定できるはずもない。

 胸の奥で、怒りとも悲しみともつかない熱が渦を巻く。自分自身に向けた憎悪が、血管を逆流するように全身を駆け巡り、呼吸を荒くさせる。


「……湊」


 結衣の声が、近くにいるはずなのに、遠くから響いているように感じた。その声は、俺のことを心配している優しさと、同時に何かを決意したような硬さを含んでいた。俺の暴走を止めるために、必死に声を届けようとしているかのように。


「……湊、聞いて」


 その声が、遠く霞んでいた意識を、この世界に引き戻す。俺はかろうじて彼女の方へ視線を向けた。夕陽に照らされた横顔は、いつもの軽口を叩く彼女ではなく、何かを抱え込んでいる人間の真剣さに満ちていた。


「自分を責めないで。恵理の死は、湊の罪じゃない。死は誰にでも平等に訪れるもので、最後までその人自身のものなんだ。それを罪に変えてしまったら、恵理から死という尊厳さえ奪ってしまうことになる。だから、恵理の死を湊の罰にしてはいけない」


 その言葉は、胸の奥深くまで突き刺さった。呼吸が乱れ、視界が歪んでいるけれど、結衣の言葉だけは、不思議と明瞭に耳へと届いていた。


「でも、俺は……」


 それでも、俺は俺のことを赦せない。喉から絞り出した声は、かすれて震えていた。


「俺がいなければ、恵理は……」

「違うよ」


 結衣の声が、鋭く俺の言葉を断ち切った。


「俺がいなければ良かったって?そんなの、認められない。湊のおかげで、恵理がどれだけ毎日を楽しく過ごしていたか……それは、自分でも分かってるはずだよ。わたしは見てた。恵理が湊の話をするときの顔を。押し花を作っているときの、あの嬉しそうな表情を。それを、湊が否定しないで」


 結衣の瞳は、まっすぐに俺を射抜いていた。そこには同情も慰めもなく、ただ揺るぎない確信だけが宿っている。

 恵理が、俺のおかげで、どれだけ毎日を楽しく過ごしていたのか。それは、今まで一度も考えたことが無かった。俺が今まで接していた恵理は、俺を振り回して、笑って、時に怒って……その全てが彼女の性格によるものだと思っていた。俺がいたから、あの笑顔が生まれていたなんて、考えもしなかった。

 俺は、俺がいない時の恵理を知らない。だから、結衣の言葉を否定しようとしても、言葉は喉の奥で凍りつき、どうしても出てこなかった。


「そう、なのか……?」

「うん。恵理がどれだけ湊に救われていたのか、それはわたしが一番知ってるから」


 その声が、胸の奥に静かに沈んでいく。夕陽はすでに傾き、白いユリの花弁が赤く染まっていた。

 風が吹き抜け、二人の間に沈黙が落ちる。

 ――俺は、何も言えなかった。

 ただ、その沈黙の中で、自分の中の何かが少しずつ形を変えていくのを感じていた

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