月曜日1
じりじりじり――
目覚まし時計の電子音で、あの時の――恵理と初めて出会った日の幸せな夢は終わり、辛い現実に引き戻されてしまう。この世界には恵理はもういないし、残されたのは、この罪悪感だけだ。
こんなことを望む資格は無い――そんなことは分かっているけど、この夢が永遠に終わらないでほしい。
じりじりじり――
だけど、そんな思いなんて全く気にせず、目覚まし時計は自身の使命に従って、俺を起こそうと叫び続けている。母親や結衣とは違って、優しさという物が全くない。まぁ、俺にとっては、その方が楽なんだけどな。
じりじりじり――
あーもう、分かったよ。
「はぁ、今何時だ?……七時半か、二度寝する時間は無いな」
どうやら、時間も俺に厳しいらしい。あの時の夢に戻りたかったんだけどな。
そうして、俺は起き上がり、洗面台の方に向かって行く。寝起きのせいで、その足取りはまだしっかりとしたものでは無いけれど、運よくこけたり、物にぶつかったりせずに、洗面台に辿り着くことが出来た。
ぱしゃ、ぱしゃ
勢いよく、手ですくった水を顔にぶつけていく。その冷たさが、あの夢の余韻すらも洗い流してしまう。……なるほど、俺に厳しいのは、人間以外の全てだったのか。
まぁ、いいや。そもそも、俺は他人からの優しさに向き合うことすら出来ないんだ。優しいよりかは、厳しい方がよっぽど楽だ。
顔を拭きながら、鏡の中の自分と目が合った。そこに映っているのは、寝癖のついた髪と、あの時とは違う、生きたいという気持ちの欠けた目だ。この目を見るたびに、このままでいいのかという気持ちと、俺には生きる資格なんて無いという気持ちに挟まれてしまう。
ただ、この答えは自分で見つけないといけないんだ。母親や結衣に問いかけても……いや、それ以外の誰かに問いかけても、生きるべきだと言ってくるに決まっている。
だからこそ、他人にこの本心を話すわけにはいかないんだ。まぁ。母親や結衣は気付いているんだろうけどさ。
「おはよう」
そんなことを考えながら、階段を下りてリビングに行く。リビングでは、母親が作ってくれていた朝食と、その傍に一枚のメモ用紙が残されていた。
――おはよう!
今日は、朝早くから仕事が合って、湊が起きることにはもう仕事に行っているの。ごめんね。
でも、弁当はしっかりと用意しているから、安心してね。
……
最近、湊は何かに悩んでいて、そのせいで苦しんでいることは伝わってくるよ。
お母さんは何に苦しんでいるのか知らないから、何ていうべきか分からないけれど、一つだけ言えることはあるんだ。
湊は、責任感が合って、他人に優しすぎるの。そのせいで、自分のことを認めていない。
湊はきっと、素直に受け入れることが出来ないんだろうけど、それでも言うよ。
いい加減、自分のことを赦してあげて。
メモには、こんなことが書かれていた。
――いい加減、自分のことを赦してあげて。
その一行が胸に突き刺さる。何度も繰り返し、言葉を目でなぞる。何度もそう思ったことがある。でも、一度も出来なかった。そのたびに、もう一人の自分が「本当に赦していいのか?」 と小さく問いかけてくるような気がして、胸の奥がきゅうっと締め付けられてしまうのだ。
自分自身を赦すことは、本当に難しい。
俺は、そのメモ用紙を拳で握りしめて、そっとポケットの中に入れた。書かれた言葉は、まだ素直に受け入れられない。だけど、同じくらい心の奥底でずっと待ち望んでいたものだとも思えて、簡単に捨てることができない。
受け止めきれない自分と、渇望している自分――その板挟みに苛立ち、思わず息を荒くした。
「はぁ、まずは朝食を食べよう、今日は、学校があるから、ぼーっとしている時間なんて無い」
僕は大きく息を吐き、リビングのテーブルに戻った。母親が仕事に行ってから時間が経っているから、朝食はとっくに冷えてしまっているけど、そんなことを気にせずに箸を手に取った。
母親はきっと、電子レンジで温めてほしいと思っているんだろうけど、そんな元気は無いんだ。せっかく用意してくれたのに、ごめん。
「最近は、謝ってばかりだな……」
ふと、そんなことを思ったが、すぐに頭の片隅に追いやって、食べ物を口に運んで行った。
食欲はあるか、問題なく食べ続けることが出来る。だけど、味はよくわからなかった。その原因が、冷えているせいなのか、俺の精神の問題なのか――そんなことを考えながらも、箸を止めることはしなかった。
せっかく作ってくれたんだから、食べれるなら全部食べるべきなのだから。
「……ごちそうさま」
食器を片付けながら、今日の予定を考える。今日は六時間目までしかないから、病院に行く時間はある。だけど、休日に比べたら、病院にいることが出来る時間は少ないし、なにしろ結衣に行くと伝えていない。そんな状況で病院に行ったとしても、結衣と一緒に行動できるのだかろうか。
一応、学校をさぼって病院に行くという手もあるが、俺の平常点があまりよくないせいで、それをしてしまうと成績にかなりの影響が出てしまう。テストの成績は良いから留年はしないだろうけど。
「まぁ、めんどくさいや。学校が終わった時に決めよう」
そうして、俺は予定を考えることをやめて、学校に行く準備をしていく。鞄の中に、母親が用意してくれた弁当と、授業で使う教材を入れて、制服に着替える。
俺が通っている学校は、まだ時代に追いついていないせいで、iPadやpcなどが支給されていない。そのため、鞄の中にはたくさんの教科書やノートが入っていて、ずしりとした重さが身体にのしかかる。
そうして、俺は誰もいない家に「行ってきます」と言って、玄関の扉を開けた。
みーんみんみん
じりじりじり――
夏の蒸し暑い空気と、蝉時雨が肌にまとわりつく。一歩外に出ただけで、首筋にじわりと汗が滲み、アスファルトから立ち上る熱気が、足元からゆっくりと身体を包み込んでくるようだった。
「はぁ、何で夏は暑いんだ?いい加減にしてくれ」
そんなことを呟きながら、自転車の鍵を外してハンドルを握る。黒色のハンドルは、日光のせいでじんわりと暖かくなっており、触れた指先から熱が伝わってくる。
サドルに跨がり、ペダルを一度踏み込むと、チェーンが軽く鳴って車輪が回り出した。
みーんみんみん
じりじりじり――
通学路に漏れる蝉時雨が一層大きく胸を叩きつける。視界に入るアスファルトは陽光を反射して眩しく、そこから巻き上がる熱気が顔をじりじりと灼く。汗を拭いながらも、ペダルを踏む足に力を込めるしかない。
強烈な夏を耐え抜き、ようやく校門の影が見えたとき、俺は深く息を吐いて自転車を降りた。
「……さっさと教室に行こう。冷房の効いた部屋で休みたい」
靴を履き替えて、廊下の方に行くと、灼熱の空気から一転、教室から流れ出した冷気が体を撫でた。冷房から放たれている冷たく乾いた空気が、汗ばんだシャツをそっと乾かしてくれる。文明の利器を発明してくれた人に、心の底から感謝する。
教室に入ると、俺よりも先に来ていた何人かの生徒が、いくつかのグループを作って話していた。だけど、俺はそのグループの中に入ることが出来ない。だって、学校に友達が一人もいないからだ。俺は、学校でずっと独りだし、今まではそのことを苦痛に思ったことすらなかった。
……だけど、今日はいつもと違う、話す相手がいない、友達がいないという事実が胸を締め付けてくる。きっと、ここ二日で、結衣という人物の温かさを知ってしまったから、誰も話しかけてこない冷たい現実に耐えられなくなってしまっている。
もう、認めないといけないのかな。
そんなことを考えながら、自分の席で外の風景を眺めていると、気づけばチャイムが鳴って、朝礼が始まってしまっていた。見慣れたクラスメイトの顔、聞きなれた担任の声、何一つ変わらない教室の姿――その光景は、いつもと同じ光景のはずなのに、なぜか世界が少しだけ歪んで見えた。
……
……
……
ソレは、俺が――他人と関わることを避け、目を背け続けた世界。自分で閉じ込めた孤独の居場所。
結衣という光を知ったせいで、強制的に浮かび上がらせてしまう。ああ、駄目だ。コレを見てしまったら、もう救いがいらないなんて、言えそうにもない。
俺は、恵理の死と向き合い、この罪悪感を乗り越えなければならない。だけどね、恵理が自殺じゃなかったから、良かったというわけにもいかないんだ。もし、事故だったとしても、偶然の事故が、俺の心に刻んだ痛みを消してくれるわけじゃないから。
何がどうあれ、あの日、彼女を守れなかった事実だけが、ずっしりと胸にのしかかっている。
よし、決めた。今日も、病院に行こう。結衣に会えるかどうかは分からなくても構わない。ただ、あの場所へ向かう一歩を踏み出すことこそが、今の自分に必要なのだと思えた。
まぁ、出来ることなら、会いたいけどさ。
*
みーんみんみん
じりじりじり――
その後の授業は何事もなく終わった。誰とも会話を交わさず、誰からも声をかけられることはない。まるで流れ作業のように、いつもと変わらない学校での一日を、淡々と過ごした。
放課後のチャイムが遠ざかると、俺は無言で立ち上がり、机の上の教科書をかき集めた。誰とも交わらないまま、まるで日課のように肩に鞄を担ぎ直し、教室を後にする。
自転車置き場に向かう間も、クラスメイトたちの声や笑い声が背中に響いており、胸が少しだけ締め付けられる。誰かと話すことが出来るなんて、少しうらやましいと思ってしまう。
「そういえば、恵理以外の友達なんて、いなかったな……まぁ、後悔は一欠けらもしてないけど」
昔のことを思い出す。俺は、小学生の時からずっと、恵理がいる病院に通っており、クラスメイト達と関わっている時間なんて、ほとんどなかった。そのおかげで、俺の過去は恵理に埋め尽くされていて、いい思い出は数えきれないほどあるけれど、少しだけ寂しい。
もし、彼女が今も生きていたらと思ってしまうと、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がしてしまう。
――でも、過去は過去、恵理と会うことは、もう二度と出来ない。それに、恵理の代わりになる人物なんて、存在しない。
だから、俺がすべきことは、この罪悪感と過去の記憶に、踏ん切りをつけて、前を向いて歩きだすことなんだ。そのためには、ずっと避け続けていた彼女の死、ソレに触れなければならない。
俺は自転車にまたがり、放課後の校門をくぐった。まだ外は暑く、アスファルトの熱気は足元をじりじりと焼きつけていく。
だけど、そんなことは些事だ。足の熱さや、首筋から流れ落ちている汗を無視して、一度も足を止めずに、ペダルを漕ぎ続ける。
やがて、建物の影が見え始める。長い坂を登りきると、目の前に広がる正面玄関の前で、自動ドアが滑らかに開いていき、ひんやりとした空気が肌を撫で、消毒液のすっきりした匂いが鼻の奥まで届いた。
「あれ?湊?」
自動ドアをくぐった瞬間、思いがけない声が廊下に響いた。声の主は、自動ドアのすぐそばで待っていた結衣だった。彼女は車椅子のブレーキを外し、にこりと笑いかける。
「来てくれたんだね」
俺は小さく頷きながら、自転車の鍵をポケットにしまった。どうやら、彼女は今日も俺がここに来ると思って。自動ドアのすぐそばという、面白みが全くない場所で待っていたらしい。来るかどうか分からないのに、よくこんなところで待つことが出来るな。
「学校はどうだった?」
「どうだったって言われても、俺に友達なんていないから、何事も無かったよ」
「そっか……じゃあ、今日は私が話し相手をするね!」
結衣は、そう言って笑いながら、俺の手を引っ張った。その笑顔は、今までで見た笑顔の中でも、一二を争うほどの眩しさだった。たぶん、自動ドアの前で待っていたとはいえ、本当に俺がここに来るのか半信半疑だったんだな。
だから、実際に俺がここに来て、心底嬉しいのだろう。その笑顔を見れただけで、ここに来る価値はあった。
「わかった、わかった。頼むから、落ち着いてくれ。それで、今日はどうするんだ?」
まったく、こういう時に、はしゃいでしまうのは、恵理の影響か?恵理もよくはしゃいでいたから、その影響を受けていても不思議ではない。
何度も恵理に振り回せていたから、はしゃいでいる結衣に付き合うのは嫌では無いんだけど、心肺機能が低い結衣がはしゃうでいいのか心配になって、気が休まらない。恵理にもそう思っていたけど、もっと落ち着いて、安静に過ごしてほしい。
だけど、俺のそんな心配はよそに、結衣は笑いながら言葉を続ける。
「うーん、どうしようかな……。あれから、わたし一人であのファイルを見た人物を探してみたけれど、ヒントすら見つからなかったんだよね」
「じゃあ、どうやって探すんだ?」
結衣は少しだけ視線を落とし、唇を尖らせた。
「そこなんだよね。探すって決めたのはいいけど、方法がまだ見えてないの」
俺は腕を組み、頭の中であの埃っぽい部屋を思い浮かべる。あそこは、鍵がかかっていたから、この病院で働いている人物しか入れないわけだが、その病院で働いている人物という範囲がかなり広く、かたっぱしから聞いたとしても、全員聞き終わるまでかなり時間が掛かるし、そもそも忙しくて聞くことが出来ない人物もいるだろう。それに、正直に話してもらえる保証も無い。だから、他の案を考えるべきなのだろう。
しかし、他の方法が何一つ思いつかない。だって、俺は部外者だし、結衣は患者でもあるから、あの部屋の前でずっと張り込むことなんて、出来るわけがない。それに、あのファイル以外のファイルを見ようとしている可能性もあるため、見張ったところで目当ての人物と出会えると決まっているわけではない。
「そういや、恵理と仲が良かった看護師には聞いたのか?」
「うん、聞いてみたよ。でも、違うって言ってた」
結衣は肩をすくめて、少し悔しそうに笑った。
「その人なら何か知ってると思ったんだけどね。やっぱり違ったみたい」
俺は顎に手を当て、考えを巡らせる。
ファイルを定期的に見返している人物
病室に落ちていたペン
彼女の死の不可解なところ
この三つの謎が、複雑に絡み合っていて、今の俺たちにはさっぱり予想できない。どれか一つでも、その謎の正体が分かれば、後の二つの謎も分かるかもしれないのに。
……いや、間違っていた。結衣にとっては三つの謎だが、俺にとっては四つの謎がある。ソレは、恵理が何かを隠していたということであり、結衣には心当たりがあると言っていた謎だ。
結衣曰く、その謎の正体は、俺が知っていたら意味のが無くなるものらしいのだが、それが何なのか見当もつかない。ただ、この謎については、置いておこう。今の俺が探ろうとしても、どうにもならないことだからだ。
……
……
……
……待てよ。結衣は、あの「心当たりがある」と言った謎について、俺にはまだ話していない。それなら、同じようなことが俺たち両方にも起こっている可能性はないか?
例えば――あのファイルを定期的に見返している人物が、病室に落ちていたペンや恵理の死の真相を知っていて、それを俺たちに悟らせないために、あえてその事実を伏せている。そんな可能性だって十分にあり得る。では、なぜ隠すのか。
恵理の死が自殺でも事故でもなく、事件だったから……?
いや、それは考えにくい。もし事件なら、わざわざリスクを負ってファイルを見返すより、証拠を消したり改竄したりするはずだ。
だからこそ、その人物が隠している理由は、後ろめたさではなく――結衣と同じように、「今の俺たちにはまだ伝えるべきではない情報」だからなのだろう。
「なぁ、いったん中庭に行かないか?」
俺は向き合うべきなのだ。彼女たちが隠している事実に。
それはきっと、俺のために隠しているのだろうから。
「いいけど、急にどうしたの?」
結衣が、不思議そうに問いかけてくる。
俺は少し視線を逸らし、廊下の奥に見える窓の向こうを指さした。
「……外の空気を吸いたくなったんだ。ここじゃ、頭が固まってしまいそうで」
結衣は首を傾げ、納得していないような表情を浮かべながらも、俺の言葉に従う気になったらしい。
「ふーん……まぁ、いいけど。じゃあ、案内して」
俺は彼女の背後に回り、車椅子のハンドルを握る。金属の感触が掌に伝わり、ゆっくりと押し出すと、廊下の蛍光灯が等間隔に流れていった。
消毒液の匂いが少しずつ薄れ、遠くから蝉の声が微かに届き始める。中庭へ向かうその道は、思った以上に静かだった。




