とある夏の日4
みーんみんみん
じりじりじり――
窓から室内に入って来たセミの鳴き声が、廊下中になり響いて耳がいたい。看護師さんたちは慌てて追い払おうとしているが、虫に触れず悪戦苦闘中だ。どうして触れないのか僕にはさっぱりわからない。母さんは平気で捕まえていたのに。
でも、今は手を貸していられない。僕には、どうしても急がなければいけないことがある。
「うーん、ここはどこなんだろう……?」
今日は母さんと一緒に父さんのお見舞いに来たはずだった。だけど、ほんの一瞬目を離したすきに、母さんがどこかへ行ってしまった。早く見つけてあげないと。
僕は小走りで廊下を駆け出す。本来、病院内で走るのは禁止だけど、僕の小さな足ではスピードが出ず、看護師さんに注意されることはなかった。曲がり角が近づいたらいったん歩き、また追い抜く――まるで気づかれない小さな忍者みたいだ。
あの突き当たりまで行けば、母さんの白いワンピースが見えるはず。
セミの声に背を押されるように、僕はさらに速度を上げた。急がなくちゃ。――母さん、待っててね。
でも、そこにはお母さんはいなかった。そもそも、この時の僕は言づいていなかったけれど、勝手に階段を使ったせいで、お母さんといる階が違ったのだ。だから、どれだけ探しても、お母さんが見つからないのは当然のことだった。
まぁ、その時はそんなことに気付いていなくて――いや、自分自身が迷子になっている自覚すらなかったんだけど。
「あれ?おかあさんがいない。もー、いったいどこにいったの?おとななんだから、まいごにならないでよ」
僕は廊下の先をきょろきょろと見回しながら、もう一度歩き出した。白い壁と同じ色のドアが、どこまでも続いている。どの部屋からも、消毒液の匂いと、機械の小さな電子音が漏れてくる。
「おかあさーん……」
声を少し大きくして呼んでみるけれど、返事はない。代わりに、どこか遠くでタイヤが床をこする音と、誰かの笑い声が響いた。
そうして、曲がり角をひとつ曲がると。
「わっ!」
目の前に、同じくらいの背丈の女の子が現れた。危うくぶつかりそうになって、僕は慌てて足を止める。
その少女は、歩行器を使って歩いていて、細い腕でしっかりとハンドルを握り、足元を確かめるように視線を落としている。
僕と目が合うと、彼女は少し驚いたように瞬きをして、すぐに柔らかく笑った。
「ごめんね、びっくりさせちゃった?」
「う、ううん……こっちこそ、ごめん」
僕は慌てて頭を下げる。近くで見ると、彼女は僕と同じくらいの年に見えたけれど、どこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。きっと、僕と同じくらいの年齢なのに、歩行器を使わないと歩けないほど体が悪いと幼い僕でもなんとなく察した。
だけど、そのことを不思議に思うよりも先に、彼女の笑顔の方が強く印象に残った。
病院の白い廊下の中で、その笑顔だけがやけにあたたかく、やわらかく見えたのだ。
「きみ、ここでなにしてるの?」
彼女が首をかしげながら尋ねてくる。
「おかあさんをさがしてるんだ。さっきまでいっしょにいたのに、いなくなっちゃって」
そう答えると、彼女は少しだけ考えるように視線を落とし、歩行器をほんの少し前に押し出した。
「そうなの?……じゃあ、わたしもいっしょにさがしてあげる」
思いがけない言葉に、僕は目を丸くする。歩行器を使わないといけないほどの体なのに、僕のお母さんを探すのを手伝ってくれるなんて、それは予想外のことだったからだ。
「いいの?」
「うん、こまっているひとをたすけることは、かみさまがしなさいっていっていることだから」
彼女はそう言って、にこりと笑った。
「それに、わたしとおなじくらいのとしのこと、はなしてみたかったしね」
「……そっか」
なんて返せばいいのか分からなくて、僕はただそう言った。彼女はまた歩行器を押し、ゆっくりと僕の横に並ぶ。
「じゃあ、どっちから行く? こっちの廊下と、あっちの廊下」
「……こっちはいっかいみたから、あっちにしよう」
「おっけー。じゃあ、いこう」
歩行器のタイヤが床をこする音と、僕の足音が並んで響く。
不思議だ。さっきまで心細くてたまらなかったのに、彼女が隣にいるだけで、少しだけ胸の奥があたたかくなる。
「ねえ、きみのなまえは?」
「みなと、きみは?」
「わたしはえり。いいなまえでしょ」
「そうだね」
いい名前かどうか、そんなことは僕にはわからなかった。だけど、恵理の笑顔を見ていると、なんとなく目の前の少女が恵理という名前に相応しい人物だと思えて来る。
その笑顔は、病院の白い光の中でやけにあたたかくて、胸の奥に小さな灯りをともすみたいだった。
「じゃあ、みなとくん。おかあさんが見つかるまで、わたしがいっしょにいるからね」
「……うん」
短く返事をすると、恵理は満足そうにうなずき、また歩行器を押し出した。その横顔を見ながら、僕はふと、どうして初めて会ったばかりの彼女がこんなにも安心させてくれるのか、不思議でたまらなくなった。まぁ、お母さんがいない状況で、話すことが出来る人と出会えたから安心しただけかもしれないけど。
そうして、歩いている間も、恵理は何度も話しかけて来た。
「みなとはどうしてびょういんにきたの?」
「おとうさんがびょうきになって、にゅういんしているから。にゅういんしてすうかげつもたっているのに、いっこうによくならないんだよ……」
「そっか……」
恵理は小さくうなずき、ほんの一瞬だけ視線を落とした。歩行器のハンドルを握る手に、わずかに力がこもっている。恵理もこの病院に入院しているから、その話に何か思うことがあったのかもしれない。だけど、それについては分かることは無かった。
「えりは、いつからここにいるの?」
「うーん、おぼえてないかな。きがついたときには、ここでくらしてたから、わかんないや」
恵理は、まるで今日の天気の話でもするみたいに、さらりと言った。
「ほら、わたしはあしのちからがよわくて、これがないとあるけないし、あしいがいにも、わるいところがあるらしいよ」
「それって、いやじゃないの?」
思わずそう聞くと、恵理はくすっと笑った。
「うーん、たいへんなときもあるけど……それでも、いやではないかな。せっかく、かみさまがこのからだをくれたんだから、まいにちかんしゃして、たのしくいきたいな」
「かみさま?」
思わず聞き返すと、えりは少しだけ首をかしげて笑った。
「うん。わたし、ちいさいころからかみさまのことをしんじてるの。かみさまは、わたしのことも、みなとくんのことも、ちゃんとみてくれてるんだよ」
その言葉は、やさしいけれど、不思議なくらいまっすぐで、迷いがなかった。病人なのに、まっすぐ前を向いて生きているその姿が、俺にはとっても輝かしいものに思えた。お父さんなんて、いつもごめんって謝ってくるのに。
どうしてだろう。
同じように病気と向き合っているのに、恵理はこんなにも明るくて、まっすぐで――。胸の奥が、少しだけざわついた。
「……みなとくん?」
恵理が首をかしげて僕を覗き込む。
「あ、ううん。なんでもない」
慌てて首を振ると、恵理はそれ以上は聞かず、また前を向いた。歩行器のタイヤが床をこする音が、一定のリズムで響く。その音に合わせるように、僕の足も自然と同じ速さになる。
しばらく歩くと、廊下の先にナースステーションが見えてきた。白いカウンターの向こうで、看護師さんたちがカルテをめくったり、電話を取ったりしている。
恵理は歩行器を止め、僕の方を見た。
「ねえ、みなとくん。まずはあそこで、おかあさんをみなかったかきいてみようよ」
「う、うん」
同年代のはずなのに、何故か恵理の方が大人っぽい。なんか、少し悔しいな。
「すみませーん」
そんなことを考えていると、恵理が看護師さんたちに声を掛けた。その声は、決して大きい声では無かったが、澄んでいて、よく通る声だった。
看護師さんの一人が顔を上げ、恵理の方へ歩み寄ってくる。
「どうしたの、恵理ちゃん?」
「このこがおかあさんとはぐれて、まいごになっちゃったんだって」
「ぼくじゃなくて、おかあさんがまいごになったの」
看護師さんは一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
「そうなの?じゃあ、お母さんを探してあげないとね」
「うん!」
僕が力強くうなずくと、恵理も小さく笑って、近くの椅子に座っていた。
「お母さんの名前、教えてくれる?」
看護師さんにそう聞かれ、僕ははっきりと名前を告げる。
「かざま!かざま あんり!」
「風間杏里さんね。ちょっと待っててね」
看護師さんはメモ用紙に名前を書きとめると、カウンターの奥へと消えていった。電話の受話器を取り、どこかに連絡を入れているらしい。
その間、僕は恵理の方をちらりと見た。彼女は椅子に腰掛けたまま、歩行器のハンドルに両手を置き、足をぶらぶらと小さく揺らしている。
だけど、その表情はどこか安心させるような穏やかさを湛えていた。
「だいじょうぶ。すぐにみつかるよ」
「うん、みつかってよかった。でも、まいごになったのは、おかあさんだよ」
恵理はくすっと笑って、頭を撫でてきた。
「そうだね。できるだけはやく、おかあさんをみつけてあげないと」
その瞬間、なぜだか恵理のことを姉のように感じた。理由ははっきりしないけれど、その感覚は妙にしっくりと胸におさまった。
姉なんて僕にはいないのに、もし姉がいたら、きっとこんなふうに頭を撫でてくれるのかもしれない――そんな想像が浮かんだ。
「おまたせ」
看護師さんが戻ってきて、僕たちの前に立った。
「お母さんは、五階で君のことを探してるんだって。私と一緒に行く?」
「うん!」
僕は勢いよく立ち上がった。胸の奥が一気に軽くなって、足が自然と前に出る。
「じゃあ、いこう」
恵理も歩行器を押して立ち上がる。
看護師さんが僕たちの前を歩き、エレベーターへと案内してくれた。その看護師さんは、ほほえましい物を見るような目で僕たちのことを見ていて、なんだか少しこそばゆくなった。
「みつかって、よかったね」
「うん。えりちゃんもてつだってくれて、ありがとう」
エレベーターの前に着くと、看護師さんがボタンを押した。
「お母さんは、五階のエレベーターの前で待ってるって、すぐに会えるわよ。それじゃあ、ここからはひとりで行ける?」
「うん、だいじょうぶ!」
そう答えたけれど、胸の奥が少しだけざわついた。
母さんに会えるうれしさと、恵理と別れるさみしさが、同時に押し寄せてくる。
「じゃあ、気をつけてね」
看護師さんがやさしく微笑む。でも、僕はもう少しここにいたいような気持ちになってしまっていた。お母さんが心配しているはずだから、今すぐにでも向かわないといけないのに。
そんなことを考えていると、恵理が手を握って来た。
「また、あえる?」
それは、まっすぐで、少しだけ不安を含んだ声だった。僕は一瞬だけ言葉に詰まったが、それから力いっぱいうなずいた。
「うん、またここにくるし、そのときにあおう」
恵理の顔に、ほっとしたような笑みが広がる。
「やくそくだよ」
小さな手が、ぎゅっと僕の手を握り返した。
チン、と軽い音を立ててエレベーターの扉が開く。僕は恵理の手をそっと離し、もう一度だけ振り返った。白い廊下の光の中で、恵理が小さく手を振っている。
その姿が、扉が閉まる直前まで、ずっと目に焼きついていた。




