日曜日3
みーんみんみん
じりじりじり――
二人はあの部屋から出たあとに、新鮮な空気を吸うために中庭まで来ていた。中庭の空気は、あの部屋の中の空気とは違い、とても澄んでいておいしかった。確かに、この空気を味わえるのならば、結衣がここを気に入っていることにも納得できる。
「あーあ、もう少し残ったら、まだ新たなことがわかったかもしれないのになー」
だけど、結衣は拗ねていて、周囲の空気がどんよりしている。しかも、その空気は夏の輝かしい光でも浄化出来ないほど暗くて、青空の下にだけぽっかりと浮かんだ黒い雲のようだった。
その横顔には、さっきまでの探究心や鋭さは影を潜め、代わりに子どもが駄々をこねるような拗ねた色が浮かんでいる。
「……そんな顔してると、せっかくの中庭も台無しだぞ」
俺がそう言っても、結衣は「ふーんだ」と言うだけで、こちらを見ようとしない。
みーんみんみん
じりじりじり――
蝉の声が、まるで二人の間の沈黙を埋めるかのように響き渡る。じりじりと照りつける日差しが、背中に熱を押し付けてくるのに、結衣の周囲だけは温度が低いように感じられた。
「ま、まぁまぁ元気出せって。恵理がここにいるのなら、笑顔のほうがかわいいよ、とかでも言うはずだぞ」
「……確かに」
結衣はようやくこちらに顔を向けた。
その口元が、ほんのわずかに緩む。けれど、それは笑顔というより、拗ねた表情の端がほどけただけのようにも見えた。
「でもさ、やっぱり悔しいんだよ。あそこにもう少しいられたら、何か掴めたかもしれないって思うと」
結衣はベンチの背にもたれ、空を仰いだ。真っ青な空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
俺はその横顔を見ながら、肩をすくめる。
「焦っても仕方ないだろ。記録は逃げないし、時間制限なんて無いんだから、どれだけ時間を掛けたとしても、問題はないんだから」
「……うん。じゃあ、次は絶対に最後までやり切る」
その声には、さっきまでの拗ねた色はもうなかった。代わりに、あの部屋で見せていた探究心の光が、ゆっくりと戻ってきていた。
「それで、これからはどうするんだ?今日はもうあの部屋に戻ることは出来ないし、ここらでいったん解散するか?」
「そうだね。今日わかったことを一度整理して、これからの調査方針を決めよう。それが終わったら解散にしようか」
中庭を抜ける風が、じりじりとした熱気を少しだけ和らげてくれた。蝉の声は相変わらず耳にまとわりつくが、不思議とさっきより軽く聞こえる。
「まずはペンの件を最優先にしよう。当時の巡回担当者の証言とかを確認出来たら確認する。これでいいかな?」
――うん、それでいいんじゃないか。
そう言おうとした瞬間だった。頭の何処かで、新たな疑念がよぎる。
それは、あの埃をかぶっている部屋の中で、恵理の死について書かれているファイルだけが、表面に埃をかぶっていなかったのだ。それを表すことをとは、すなわち――。
「なぁ、あのファイルを定期的に見返している人物がいる可能性は無いか?」
その言葉を聞いて、結衣は一瞬、目を瞬かせた。
「……確かに。あの部屋の他のファイルは、厚く埃をかぶってたのに、あれだけは違った」
彼女は腕を組み、視線を遠くに投げる。
「つまり、誰かが定期的に手に取っているってことだよね。でも、何で?わざわざ見返す理由なんてあるのかな?」
うーん、さっぱり分からない。あの時のことについて書かれているファイルを、捨てたり、改ざんしたり、趨勢したりするのではなく、定期的に見返すだけ。そんなことをする理由なんてあるのかな。
そう思った時だった。
視界の端に、白いユリの花が映る。結衣の話から推測すると、その花は恵理が生前植えていた花と同じ品種であり、結衣が恵理の存在を無かったことにしないために、植え続けている物だ。
それは、結衣以外からすると、意味のない行動に見えるかもしれない。だけど、彼女にとって、白いユリを植え続ける行為は、恵理との思い出を守り続けるための方法の一つなのだろう。
そして……誰かが、あのファイルを定期的に見返している理由も、それなのかもしれない。定期的に見返すことにより、恵理の存在を思い出す――そうした儀式のような行為が、その人にとっての日常になっているのかもしれない。
もし、そうだとすると、それはどんなに苦しいことなのか。彼女の死と向き合うことで、彼女のことを忘れないようにしているなんて。
「……忘れないために、見返してるんだろうな」
ぽつりと漏れた言葉に、結衣がゆっくりと頷いて、しばらく黙ったまま、白いユリに視線を落とした。花弁が風に揺れ、陽の光を受けて淡く透ける。その様子を見つめる彼女の横顔は、どこか遠くを見ているように見える。
「そうだね、きっとその誰かは恵理のことを忘れたくないんだろうね……」
結衣の声は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
その響きには、恵理への想いと、同じ痛みを抱える誰かへの共感が滲んでいる。
「……その人が、どんな気持ちでページをめくっているのか、知りたいな」
俺がそう言うと、結衣は小さく頷き、視線をユリから外した。
「うん。もし会えるなら、話を聞いてみたい。恵理のことを、どう覚えているのか……」
彼女の瞳には、再びあの部屋で見せていた探究心の光が宿っていた。
「じゃあ、次には、あのファイルを触っていたのが誰なのか調べよう。じゃ、今日はここまでね。解散」
「了解」
蝉の声が、また二人の間を満たす。
だが今度は、その音がまるで背中を押す合図のように聞こえた。俺たちは、恵理の死の手がかりを持っているはずの誰かへと、一歩近づこうとしていた。
「湊!またね!」
「ああ、またな」
正直、俺自身はまだ救われたいとは思えない。あの時からずっと抱きかかえていた罪悪感は、心の奥深くまで根付いていて、恵理の死因が自殺では無かったとしても、無くなってくれそうにも無かった。
そんな状態でも、恵理の死について探っているのは、結衣のためでもある。結衣も、まだ彼女の死を忘れることが出来ていない状態であり、そして、その痛みを抱えたまま前に進もうとしている。
彼女が真実を知ることで、少しでもその重荷が軽くなるのなら――それだけで、この調査を続ける理由になる。
……恵理の幼馴染として、それは当然の償いだ。
*
「ただいま」
玄関の扉を閉めると、外の蝉時雨が一気に遠ざかり、家の中の静けさが耳に広がった。
靴を脱ぎながら、ふと自分の声が少し掠れていたことに気づく。中庭での会話や、あの部屋で感じた重苦しい空気が、まだ喉の奥に残っているようだった。
「おかえりー。今日も病院に行ってたの?お昼ご飯用意しようか?」
家に帰ったことに気付いた母親が、リビングから声を掛けてくる。今日の朝、理由も言わずに家から飛び出したのに、怒ろうともしないなんて、まるで、俺の行動をすべて受け入れてくれているかのようだった。
その優しさが、ありがたい反面、胸の奥に小さな罪悪感を生む。本当は、母さんにだって心配をかけたくないのに。
「……うん、ちょっと用事があって。あと昼ご飯は食べていないから、簡単なものを用意してほしい」
できるだけ何でもないように答え、靴を揃えて廊下に上がる。リビングに入ると、テーブルの上には湯気を立てる味噌汁と、焼き魚の香りが漂っていた。
その温かい匂いが、病院の消毒液の匂いを少しずつ押し流していく。
「手、洗ってきなさいね」
何事も無かったように、母親がそう言った。どうやら、俺がどこに行っていたのかも、何時に帰ってくるのかも予測していたらしい。
俺は一瞬だけ足を止め、母さんの横顔を見た。
台所に立つその背中は、いつもと変わらない。けれど、その何気ない仕草の奥に、俺の行動を見守り続けてきた時間の重みがあるように思えた。
「……ああ、すぐ洗ってくる」
短く返事をして洗面所へ向かう。蛇口をひねると、冷たい水が指先を伝い、身体に残った熱を奪い去っていく。水の冷たさが、じわじわと掌から腕へと広がっていく。
その感覚に、病院で感じた重苦しさや、中庭での蝉の声が少しずつ遠のいていくような気がした。
「はぁ」
ため息をひとつ吐き、顔を上げる。鏡の中には、疲れの色を帯びた自分の顔と、その奥で何かを決意したような目が映っていた。
鏡越しのその顔は、ここ数年でいちばん穏やかに見えた。いつもはどこか揺れていた瞳が、今は確かな光を宿し、次の一歩を踏み出す覚悟を告げているようだった。
まぁ、その確かな光とは、結衣に対する償いであるのだから、良いことなのかはわからないのだがな。
そうして、手を洗い終わった後、俺はリビングへ戻った。
テーブルには、すでに炊きたてのご飯と小鉢が並んでいる。母さんは茶碗を差し出しながら、優しく告げた。
「座って。お味噌汁冷めるよ」
俺はそっと席につき、両手を合わせた。
「いただきます」
噛むたびに、焼き魚の香ばしさと味噌汁のまろやかさが身体に染み渡る。病院の緊張感から解放され、ほっと胸がゆるんでいく。
「そういえば、誕生日にほしいものはある?当日は、仕事があるせいで一緒にいることは出来なきけど、何か用意することは出来るよ」
そうして昼ご飯を味わっていると、突然母親が申し訳なさそうにそんなことを尋ねて来た。そういえば、俺の誕生日はもう少しだったんだ。ここ数日の出来事のせいで、とっくに忘れていた。
でも、俺にとっては誕生日ほど、どうでもいい日なんて他にはない。何故なら、今までの俺は、誕生日を祝われる資格なんて無いと思っていたし、恵理がいなくなってしまった以上、当日に祝われることなんて無くなってしまったからだ。
誕生日に本当に大切なのは、日付や演出ではなく、祝いの声をかけてくれる「誰か」がいることなのだろう。
「……何にも無いよ、ほしい物なんて」
母さんは小さく笑いながら、「そう」とだけ言い、それ以上追求することはなかった。
「……」
「……」
それからは、お互いに話すことは無く、俺はそのまま何も言わぬまま箸を動かし続けた。
味噌汁の最後の一口を飲み干すと、俺はそっと箸を置き、マットの上に置いた茶碗にだけ視線を落とした。
「……ごちそうさま」
声がかすれていることすら、自分でも気づかなかった。母さんはにっこりと笑い、「ありがとう」とだけ返す。
食器を台所まで運びながら、俺は改めて思う。
このままでいいのかな。
母親も、結衣も、俺のことをつねに気にかけてくれている。それは、本当にありがたいと思っているし、感謝もしている。だけど、俺はその優しさに報いることが出来ないのだ。
その理由は簡単だ。何度も言うが、俺は自分を許せないからだ。恵理を死に追いやったこの世界をつくった神も、日常の中で彼女の死に気づかない人々も、すべてを許せない。
この怒りは――身勝手で、傲慢で、ほんっとうに気持ちが悪い。他人の優しさを受け取れないのも、誰かに優しくできないのも、すべてこの憎しみのせいだ。
この気持ちを、母親や結衣に伝えたら、この気持ちを打ち明けて甘えれば、きっと優しい笑顔で受け止めてくれるだろう。だけど、それを承知で甘える自分こそ、一番許せない。
そんなことを考えながら、流しで茶碗を洗い終えたあと、リビングのソファに腰を下ろす。ソファにもたれかかり、俺はしばらく無言のまま天井を見つめていた。
静かな部屋の中を、夏の日差しと、まだどこかで聞こえる蝉の声が満たしている。
――俺は、自分を赦せないままでいいのか?
今まで、ずっと見ないようにしていた――一つの問い。これまでは、赦さないままでいいと思っていた。でも、そんなことを思っていなかったからこそ、今まで見なくて良かった俺のことを考えて行動している人の存在を思い知らされた。
ただでさえ母親は、女手一つで金を稼いでいて、とても忙しく辛いはずなのに、俺の心のことも気にかけて、毎日を過ごしている。
結衣は、まだ恵理の死という傷が治っていないにも関わらず、俺を救うと声高らかに宣言した。それは、俺の心の奥底に差し込む光だった。
頭ではいらないと思っている。でも、心の奥底では渇望していた――救い。
ずっと拒み続けてきたはずのもの。必要ないと突き放してきたはずのもの。
それなのに、結衣の真っ直ぐな眼差しと、母さんの何気ない優しさが、否応なくその渇きを浮かび上がらせてしまった。知らなければ、こんなにも苦しむことは無かったのに。頭と心の矛盾が、螺旋の様に渦巻いていく。
「ねぇ」
そんなことを考えていると、母親が声を掛けて来た。
「病院で、何かあったの?」
そう言われてしまうのは、必然のことだった。昨日から、ずっと避けていたはずの病院に通っているし、その影響でいつもと違う雰囲気になっているのだろう。生まれた時から、ずっとおれを見てい暮れている母親が、気付かないはずがない。
――何もないよ
――別に
――関係ないよ
用意された言葉はいくつも浮かぶ。
でも、喉元で止まった。
「……少しだけ。昔のことを調べてる。俺のことを救うって言った人と」
それだけを選んで、そっと机の上に置くように告げた。母さんは驚いた顔もせず、小さくうなずく。
「わかったわよ。今は、それ以上は話さなくていいから。話せるときに、話せる分だけで話してね」
その声は優しく、胸の奥が暖かくなった。だけど、胸の奥の暖かさは優しく広がる一方で、同時に小さな不安も芽生える。
――また、心配させてしまったのか?
でも、こんな内心なんて、母親はお見通しだったらしい。
「まだ子供なんだから、いくらでも心配かけていいんだよ。それにね、親には心配をかけるくらいがちょうどいいの」
母さんの声は優しく、まるで俺の胸に直接染み込んでくるようだった。
――心配かけてもいいのか……?
言葉を飲み込み、しばらく唇をかんでから、俺は小さく息をついた。幼い頃、熱を出してうなされていた夜、母さんがずっとそばで背中をさすってくれた感触を思い出す。あのときの安心は、どんな強がりよりも確かな温もりだった。
俺はようやく顔を上げ、母さんの方を見た。
「……ありがとう」
かすれた声を絞り出す。
母さんは満足げに頷くと、何でもないようにキッチンへ戻っていった。
本当に、恵まれているな。俺は。