教会の攻防と“共鳴する姉妹”
クロウは、風のように去っていった。彼が率いる鴉たちが、ギデン領の危機を少しでも食い止めてくれることを、俺は祈るしかなかった。
残された俺たち――俺とハロルド、そして護衛として残った二人の鴉、木の葉と時雨――は、休む間もなく次の目的地、貧民街の教会へと向かう必要があった。
「アルヴィン様、急ぎましょう。盗賊たちが教会を襲う前に、我々が着かねば」
木の葉が、娼婦の姿からは想像もつかないほど、鋭い口調で言った。
「下道は、衛兵の目が光っているやもしれません。最短距離で参ります。ご覚悟を」
時雨が言うと、彼と木の葉は、俺とハロルドの肩にそれぞれ手を置いた。
「鴉の技、『影渡り(シャドウ・ウォーク)』。影から影へと跳躍いたします。魔力を持たぬお二人には、少々堪えるやもしれませんが」
「案ずるな」俺は答えた。「時間がない」
次の瞬間、俺の視界は真っ暗な影に飲み込まれた。内臓がひっくり返るような浮遊感と、全身がバラバラになりそうな圧迫感が、同時に俺を襲う。魔法が使えない俺の体は、魔素が渦巻く影の通路を無理やり通過することで、悲鳴を上げていた。
数秒にも、数分にも感じられた暗闇の後、俺たちは教会の屋根の影の中に、吐き出されるように姿を現した。
「ぐっ…おえっ…!」
俺は、その場に膝をつき、激しく咳き込んだ。ハロルドも、顔面蒼白になっている。
「…はぁ…はぁ…。これが、日常なのか、お前たちは…」
「慣れですな」時雨が、悪びれもなく笑う。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。教会の周囲には、すでに十数人の、見覚えのある荒くれ者たちが集結していた。盗賊ギルドの残党だ。
「どうする、アルヴィン様」
「正面から突っ込むのは愚策だ。木の葉、時雨。お前たちは、左右に分かれて陽動をかけろ。目的は、敵の戦力を分散させることだ。俺とハロルドは、その隙に、裏口から教会に侵入し、少女を保護する」
「御意」
陽動は成功し、俺とハロルドは教会の裏口へと駆け込んだ。
教会の中は、静まり返っていた。祭壇の前で、十数人の孤児たちが、一人のシスターに寄り添い、恐怖に震えている。そして、その中心で、一人の少女が、静かに祈りを捧げていた。
彼女こそが、「調律師」。
「シスター、危ない! 早く子供たちを連れて、地下へ!」
だが、その時だった。
「見つけたぞ、てめえら!」
陽動を振り切った盗賊たちが、教会の正面扉を蹴破り、なだれ込んできた。
「ここまでだ!」
ハロルドが、俺の前に立ち、杖を構えた。
「『聖域の壁』!」
彼の杖から放たれた光が、俺たちの前に神聖な魔力の壁を作り出し、盗賊たちの侵入を阻む。
「ちっ、面倒な防御魔法を! 煙で目をくらませろ! 『濃霧』!」
盗賊の一人が煙幕魔法を放ち、教会内は一瞬で視界が悪くなる。
「『破魔の槌』!」
別の盗賊が放った邪悪な魔力を帯びた紫色の槌が、光の壁に叩きつけられ、激しい火花を散らす。壁に、ひびが入った。
「ハロルド! 持つか!?」
「五分と持ちませぬ! その間に、早く少女を!」
俺は、祈りを続ける少女の元へと駆け寄った。
その時、教会のステンドグラスを突き破り、新たな侵入者たちが現れた。
「見つけたぞ、“千里眼”!」
刀傷の男率いる、盗賊ギルドの別働隊だ。彼らは、リズとリアを追いかけ、この教会にたどり着いたのだ。
「ちっ、面倒なことになったわね…!」
リズは、リアを庇いながら、即座に戦闘態勢を取った。
「お姉ちゃん、右、三人! 強い殺気の音がする!」
リアの『神の耳』が、敵の殺意を音として捉える。その言葉と同時に、リズは右方向へ、見えない風の刃を無数に放った!
「ぐわあっ!」「何だ!?」「どこからだ!」
見えない攻撃に、盗賊たちが混乱する。リズとリアは、一心同体の戦闘ユニットだった。
これで、教会の中は、俺たち、盗賊ギルドの二つの部隊、そして教会の人々という、混沌とした状況に陥った。
さらに、事態は最悪の方向へと転がり落ちる。
「火事だーっ!」
外で陽動をかけていた木の葉と時雨が、追手の注意を引くために放った火が、古びた教会の一部に燃え移ったのだ。
「面白いことになっていますね」
教会の入り口から、拍手をしながらセバスチャン率いる商業ギルドの私兵部隊が現れた。
「鴉の魔封じの煙幕…その微かな痕跡を、我々の探索魔法がようやく捉えましたぞ。火事場泥棒とは、あなた方にぴったりの舞台ですな」
彼は、教会に突入してこなかった。代わりに、高らかに詠唱を始める。
「――愚者どもの聖域に、静寂の帳を。『沈黙の結界』!」
彼の足元から、紫色の魔力の膜がドーム状に広がり、教会全体を完全に覆い尽くした。
「なっ…!?」
「これで、中の音が外に漏れることも、外の者が中に手出しすることもできなくなりました。さあ、思う存分殺し合いなさい。我々は、生き残った勝者を、ゆっくりと調理させていただくとしましょう」
セバスチャンの、冷たい声が響き渡る。俺たちは、巨大な蟲毒の壺に閉じ込められたのだ。
「くそっ!」
ハロルドの結界が、ついに砕け散る。
「野郎ども、かかれ! あの“千里眼”の姉妹を捕まえろ! 邪魔する奴は、皆殺しだ!」
盗賊たちが、一斉に襲いかかってきた。
頭が、割れるように痛む。だが、それは絶望ではなかった。極限の集中状態。父から叩き込まれた戦術理論の数々が、目の前の混沌とした光景と、脳内で高速で結びついていく。
俺は、まず自らの身を隠した。祭壇の影に身を潜め、ハロルドに叫ぶ。
「ハロルド! 俺から離れるな! お前の結界は、俺個人を守るための『動く盾』だ! 敵の注意を俺に引きつけ、教会内を動き回れ!」
ハロルドが、俺を庇いながら移動を開始すると、案の定、盗賊たちの攻撃が、彼に集中した。
「木の葉、時雨! 天井裏と床下から、敵の詠唱者を狙え! 魔法を撃たせるな!」
屋根裏に潜んでいた二人の鴉が、クナイと煙玉を使い、盗賊たちの魔法詠唱を的確に妨害していく。
「リズ!」
俺は、孤立しているリズに向かって叫んだ。
「あんたは誰の味方でもないんだろう! ならば、好きにやれ! あんたの邪魔をする奴は、全員敵だ! リアを連れて逃げたいなら、この場を滅茶苦茶にかき乱せ!」
俺の挑発が、リズの最後の箍を外した。
「…うるさい! 指図するな!」
「お姉ちゃん、ダメ…! そっちじゃない!」
ずっと姉の背中に隠れていたリアが、初めて声を上げた。彼女は、耳当てを外し、全ての音を聞き入れていた。
「右! 三人! 火の魔法が来る! 左の後ろ、二人! 呪いの魔法!」
リアの『神の耳』が、敵の魔法詠唱の“音”――魔素が集まる独特の共鳴音を、正確に聞き分けていたのだ!
「リア…!?」
「私、もう、お姉ちゃんに守られてるだけは、嫌だ…!」
リアの言葉に、リズの目が、驚きに見開かれる。そして、次の瞬間、彼女の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「…そう。そうよね…!」
リアのサポートを得たリズの力が、完全に解放された。彼女の風の刃は、もはや無差別な嵐ではない。リアが指し示す方向へ、敵の魔法使いだけを狙い澄まし、詠唱を完了する前に沈黙させる、必殺の精密攻撃へと変貌したのだ!
姉妹の共鳴が、戦場の流れを変えた。
(今だ!)
俺は、父から教わった、古代魔法理論の応用を口にした。
「ハロルド! 祭壇の大理石に、防御魔法の魔力を流し込め! 反射させるんだ!」
ハロルドは、俺の意図を瞬時に理解し、杖を祭壇に突き立てる。
次の瞬間、盗賊が放った**『炎の矢』**が、魔力を帯びた大理石に当たって軌道を変え、セバスチャンが展開した『沈黙の結界』の、最も薄い一点を直撃した!
ガッシャーン!
巨大なドームに、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
「よし! 全員、北の告解室へ走れ! そこから脱出する!」
だが、その時だった。
「――聖なる鐘の音よ、響き渡れ。迷える子羊の魂に、安らぎの旋律を」
凛とした、しかしどこか儚い声が、教会全体に響き渡った。
それは、祭壇に取り残されていた、盲目の少女の声だった。彼女が詠唱を終えると、教会の古い鐘が、ひとりでに鳴り響いた。
ゴーン…ゴーン…
その音は、ただの鐘の音ではなかった。それは、乱れた魔素の流れを正常に戻し、人々の荒ぶる心を鎮める、聖なる**『調律』**の魔法だった。
その音色を聴いた瞬間、盗賊たちの殺気立った目が、わずかに和らぎ、動きが鈍る。
「な、なんだ、この音は…力が…」
彼らの魔法が、霧散していく。
俺は、この好機を逃さなかった。俺は、告解室の裏にある隠し通路の扉を蹴破った。
「行くぞ!」
俺は、まだ呆然としているリズと、祈りを終えた盲目の少女の腕を掴んだ。
「え…あ…」
少女は、まだ戸惑っていたが、俺は構わず彼女を抱きかかえた。
「リズ! リア! こっちだ!」
俺たちは、炎と煙に包まれる教会から、なんとか脱出することに成功した。
だが、安堵したのも束の間だった。
「ぐっ…!」
俺の左腕の古傷が、激しく痛み出した。呪いの魔力が、この混乱に乗じて、再び俺の体を蝕み始めていたのだ。
俺は、その場に膝をつき、意識が遠のいていくのを感じた。
仲間になるはずの者たち、そして俺を信用しきれない者たち。バラバラの心が、再び試されようとしていた。