失われた“光”と二つの戦線
王都の裏路地にある、鴉が用意した隠れ家。リズがリアを連れて去っていった後、そこには重い沈黙だけが残された。俺は、彼女たちが消えていった路地の闇を、ただ呆然と見つめていた。
「…行って、しまいましたな」
ハロルドが、力なく呟いた。その声には、俺を気遣う響きがあった。
「アルヴィン様」
冷徹な声が、沈黙を破った。クロウだ。彼は、壁に寄りかかったまま、仮面の奥から俺を見据えている。
「今回の失敗、原因は何だとお考えですかな」
彼の問いは、ナイフのように鋭く、俺の心に突き刺さった。それは、非難というよりは、むしろ領主としての俺の資質を試すような、冷たい響きを帯びていた。
「…俺が、無力だからだ」
俺は、拳を強く握りしめた。爪が食い込み、手のひらから血が滲む。
「結局、俺は何も示せなかった。安全な場所を作る? 口先だけだ。あいつらの居場所を奪い、危険に晒しただけじゃないか…!」
「違いますな」
クロウは、俺の答えを、静かに、しかしきっぱりと否定した。
「原因は、あなた様の無力さではない。『覚悟』の示し方を、間違えられたのです」
彼は、一歩前に出た。
「あなたは、ご自身の情報網と策謀だけで、彼女らを『説得』できるとお考えだった。しかし、リズ殿のような心に深い傷を負った者にとって、言葉巧みな説得は、かつて自分を裏切った者たちの甘言と同じにしか聞こえない。彼女らが求めていたのは、言葉ではなく、あなた様が何を犠牲にし、何を懸けているのかという、魂の証明だったはずです」
クロウの言葉は、正論だった。俺は、彼女の才能を評価し、利害を説くことはできても、彼女の心の奥底にある痛みに、本気で向き合おうとはしていなかったのかもしれない。
「追いかけますか? 力ずくで連れ戻したところで、心を繋ぎ止めね-ば、いずれまた同じことの繰り返しになるだけです。さて、どうされますかな」
彼は、俺に答えを委ねた。それは、主君に対する、厳しくも誠実な問いかけだった。
その夜、俺は眠れなかった。隠れ家の屋根の上で、一人、王都の汚れた空を見上げる。これから、どうすればいい? 計画は、もう頓挫したも同然だ。リズとリアを見つけ出せなければ、『魔素編纂』は発動できない。ギデン領に未来はない。
「…眠れぬのですかな」
気づくと、隣にハロルドが立っていた。
「ハロルド…すまない。俺は…」
「謝罪は、もう結構です」ハロルドは、俺の言葉を遮った。「それよりも、これからどうされるおつもりか、それをお聞かせいただきたい」
「…分からない。もう、何も…」
「そうですかな?」
ハロルドは、静かに言った。
「老いぼれの目には、そうは見えませぬが。あなた様は、確かに失敗なされた。しかし、以前のあなた様とは、何かが違う。ファルコに騙された時のあなた様は、ただ怒りと絶望に打ちひしがれておられました。しかし、今のあなた様は…悔いている。ご自身の未熟さを、本気で悔いておいでだ。それは、大きな進歩ではございませんか?」
彼は、温かい茶の入ったカップを、俺に差し出した。
「リズ殿も、ただあなた様を拒絶したわけではない。もし、本当にあなた様を信じていなかったのなら、衛兵に囲まれたあの時、あなた様を見捨てて、一人で逃げていたはずです。あの子は、あなた様の中に、何か、信じるに値するかもしれぬ『何か』を見出した。だからこそ、迷っているのです」
ハロルドの言葉が、凍りついた俺の心を、少しだけ溶かしていくようだった。
「…俺は、どうすればいい?」
「今は、待つしかありますまい。ですが、ただ待つのではありません。我々が、彼女らが信じるに値する存在であることを、行動で示し続けるのです」
その時、クロウが、音もなく俺たちの背後に現れた。その気配は、いつも以上に張り詰めている。
「良い報せと、悪い報せがあります」
「何だ?」
「良い報せは、次の候補者、『調律師』の資質を持つ少女の居場所が、より正確に判明したこと。彼女は、やはり貧民街の教会に身を寄せているようです。しかも、あの盗賊ギルドの残党たちが、我々のせいでしたたかな損害を被った腹いせに、教会が持つなけなしの備蓄食料を狙っている、という情報も入りました」
「なんだと…!?」
「そして、悪い報せです」
クロウは、一枚の羊皮紙を俺に差し出した。それは、鴉がギデン領から運んできた、緊急の伝令だった。
『エグバート、不穏な動きアリ。南ノ森ニ、兵ヲ集結中。“森林伐採”ヲ名目ニシタ、実質的ナ侵攻準備。ゲルハルト殿、警戒ヲ強メルモ、兵力差ハ歴然。早急ノ帰還ヲ請ウ』
最悪のタイミングだった。仲間探しは難航し、領地には、エグバートの魔の手が迫っている。二つの火急の事態が、同時に俺にのしかかってきた。
「…どうされますか、アルヴィン様」クロウが、冷徹に問いかける。「ここで全てを諦め、領地に戻られますか? それとも、万に一つの可能性に賭け、このまま仲間探しを続けられますか? どちらを選んでも、茨の道ですが」
彼の問いは、俺の領主としての資質を、改めて試しているかのようだった。ハロルドも、固唾を飲んで俺の決断を見守っている。
俺は、しばらく目を閉じていたが、やがて顔を上げた。その瞳には、もう迷いはなかった。
「…両方やる」
「!?」
「部隊を、二手に分ける」
俺は、クロウに向き直った。
「クロウ。お前は、王都にいる鴉の半数を率いて、今すぐギデン領に戻れ。ゲルハルト殿と合流し、お前たちの諜報能力とゲリラ戦術で、エグバートの侵攻を、俺が戻るまで、一日でも、一刻でも長く、遅延させてほしい。お前にしかできない仕事だ」
クロウは、仮面の奥でわずかに驚いたようだったが、すぐに深く頷いた。
「…御意。あなた様の信頼に、命を懸けてお応えしましょう」
「王都には、例の二人――旅芸人と娼婦に扮していた者を残せ。彼らを、俺の直属の護衛とする」
「承知いたしました。彼らは、鴉の中でも、対人戦闘と隠密行動に最も長けた者たちです」
次に、俺はハロルドを見た。
「ハロルド。お前は、俺と一緒に残ってくれ。俺がまた道を間違えそうになった時、俺を叱りつけてくれる人間が必要だ」
「…我が身、朽ち果てるまで」
ハロルドは、深く頭を下げた。
俺は、最後に、東の空を見つめた。ギデン領のある方角だ。
「俺は、ここで残りの仲間を必ず見つけ出す。リズとリアも、教会にいる少女も、俺が見捨てることはない。領地も、仲間も、俺はどちらも諦めない」
俺たちの仲間探しは、一度、完全に振り出しに戻った。だが、俺の心は、不思議と折れてはいなかった。王都とギデン領。二つの戦線で、俺たちの逆転劇は、新たな局面を迎えようとしていた。守るべきものが、一人、また一人と増えていく。その重みが、俺を、さらに強くさせているような気がした。