路地裏の賢者と“魂を喰らう魔法
最初の目的地は、王都。四つの資質のうち、最も重要であり、全ての基礎となる「理論家」の元へ。
鴉の情報によれば、その男――マルクス・レンフィールドは、王都の歓楽街の、場末の酒場にいるという。
出発前夜、俺はハロルドと二人、作戦会議を開いていた。
「王都までは、馬車を使っても片道で七日はかかります」ハロルドが、地図を広げながら言った。「往復と、王都での滞在を考えれば、最低でも三週間は領地を空けることになる。その間の統治を、どうされますか?」
「その点は、抜かりなく」ハロルドは続けた。「先代様に仕えておられた、元騎士団長のゲルハルト殿に、一時的な統治代行をお願いする手はずを整えました。私が説得し、アルヴィン様の『覚悟』と、民との『契約』についてお伝えしたところ、この大役を快く引き受けてくださいました」
俺の知らないところで、ハロルドはすでに手を打っていたのだ。彼は、ただ嘆くだけの老人ではなかった。
その時、部屋の隅の影が、ゆらりと動いた。音もなく、鴉の長、クロウが姿を現す。普段、彼が俺の前に姿を見せるのは、緊急の報告がある時だけだ。
「クロウ…」
「アルヴィン様」
彼の声は、いつも以上に冷たく、硬質だった。
「度の旅、私も同行させていただきます」
「護衛なら、部下に任せればいいはずだ」
「いいえ」クロウは、俺の言葉を遮った。「これは、護衛ではありませぬ。あなた様が、本当に我らが命を賭すに値する『主』か、この目で見定めるための“監視”です」
仮面の奥の瞳が、俺を射抜く。
「先日の失態、そして鴉からの裏切り。全ては、あなた様の未熟さが招いたこと。我ら鴉は、ギルデン領を守るための影。しかし、その光であるはずのあなたが、道を誤り、領地をさらなる闇に突き落とすのであれば…我らは、あなた様を光として仰ぐことを、やめねばなりません。そうなれば、我らは我らのやり方で、この地を守ることになる」
それは、忠誠の言葉でありながら、同時に、これ以上ないほど厳しい最後通牒だった。
「度の旅で、あなた様の『覚悟』の真価を、見せていただきたい。言葉ではなく、行動で」
俺は、何も言い返すことができなかった。ただ、彼の言葉を、その重みを、受け止めるしかなかった。
こうして、俺とハロルド、そして護衛兼監視役のクロウという、奇妙な三人組の旅が始まった。
王都の酒場。その店の最も汚い席で、男は一人、泥のように酔いつぶれていた。
「マルクス・レンフィールドだな?」
「…なんだ、お前は。借金の取り立てか? 生憎、もう骨の一本まで売り払ったぞ。魂でも持っていくか?」
「俺は、アルヴィン・ギルデン。ギルデン領の領主だ。あんたに、確かめたいことがある」
俺は、父の日記から書き写してきた『魔素編纂』の理論の一部を、彼の前に置いた。
マルクスは、その羊皮紙に目を走らせた。そして、次の瞬間、彼は腹を抱えて笑い出した。
「は…ははは! 『魔素編纂』だと? こんな御伽噺を、まだ信じている赤ん坊がいたとは! 小僧、聞いて驚け。この理論を最初に否定し、宮廷から追放されたのは、この俺自身だ!」
「どういうことだ…?」
「小僧、お前は『魔素編纂』の本当の恐ろしさを、何も分かっていない」
マルクスは、酒瓶を掴むと、それを一気に呷った。
「この魔法はな、術者の魔力を使わない。その代わり、術者たちの“生命力”そのものを触媒として、大地から魔素を強制的に搾り取るのだ。理論上はな。だがな、人間の生命力などという、あまりにも曖 …で不確かなものを、制御できると思うか?」
彼の声は、怒りではなく、深い、深い悲しみに震えていた。
「俺の師は、この理論に生涯を捧げた。魔力を持たぬ者にも、希望を与えられると信じてな。だが、研究は失敗した。不完全に発動した魔法は、制御を失った生命力の奔流となって暴走した。それは、大地を豊かにするどころか、周囲の命あるもの全てを喰らい尽くす、貪欲な捕食者と化したのだ。師の妻と娘は、目の前で、その奔流に飲まれ、塵となって消えた。そして、術者であった師自身も、魂を喰われ、抜け殻となって、今も王都の療養院で虚空を見つめている」
彼の瞳には、今も鮮明に焼き付いているであろう、過去のトラウマが映し出されていた。
「これは、人を幸せにする魔法などではない! 人を狂わせる、魂を喰らう呪いの理論だ!」
マルクスは、叫んだ。
「知識など、無力だ。いや、むしろ有害でさえある。人を絶望させ、悲劇を生むだけだ。帰れ、小僧。お前のような夢見る若造に、俺の絶望は救えんよ」
彼はそう言うと、テーブルに突伏し、再び眠りにつこうとした。
俺は、何も言い返せなかった。彼の絶望は、俺の想像を遥かに超えていた。俺の言葉は、あまりにも軽く、陳腐だった。
俺は、立ち上がり、酒場を後にしようとした。ハロルドが、憐れむような目で俺を見ている。クロウは、無言だ。彼の監視の目は、俺がここでどう動くかを、値踏みしている。
だが、扉に手をかけた、その瞬間。俺は、振り返った。
「…あんたの言う通りだ。俺は、この魔法の恐ろしさを、何も分かっていなかったのかもしれない」
俺は、マルクスの元へ戻ると、父の日記から書き写した、もう一枚の羊皮紙を、彼の前に置いた。それは、複雑な魔法陣が描かれた、一枚の設計図だった。
「だが、俺の父も、そしてあんたの師も、気づいていなかったことがある」
「これは、俺の父が最後に記していた、『魔素編纂』の最終魔法陣だ。父は、この魔法の代償が、術者の生命力であることに気づいていた。だから、彼は、この魔法を完成させようとしていたんだ。――全ての代償を、たった一人の術者、領主である俺自身に集約させ、他の仲間たちには一切の負担をかけないための、自己犠牲の魔法陣を」
マルクスの動きが、完全に止まった。彼は、酔いが醒めたかのように目を見開き、信じられないという顔で、その設計図を凝視している。
「…なんだ、これは…。こんな術式、見たこともない…。生命力の指向性制御だと…? 馬鹿な、理論上でも不可能だ…! これでは、術者は一度魔法を発動させただけで、魂ごと消滅するぞ…!」
「ああ、そうらしいな。だが、それこそが、俺の父が、そして俺が、領主として背負うべき『覚悟』だ」
俺は、彼の前に立った。
「俺は、これから残りの三人の仲間を探しに行く。そして、彼らの“呪い”を解き放ち、彼らが誰にも魂を削られることなく、その才能を存分に発揮できる場所を作る。そのための理論と設計図を、完成させてほしい」
俺は、マルクスに背を向けた。
「俺が彼らを見つけ出し、ギデン領に戻るまでに、あんたがこの“馬鹿げた理想”に乗るか、それともこのまま路地裏で朽ち果てるか、決めるがいい」
「もし、俺が三人を連れてくることができなかったら?」
彼が、初めて俺に問いかけた。
「その時は、この話は全て忘れてくれ。俺も、父や、あんたの師と同じ、ただの夢想家だったということだ」
俺は、それだけ言うと、今度こそ酒場を後にした。
ハロルドが、心配そうに俺に尋ねる。「アルヴィン様、よろしいのですか? あれほどの秘密を…」
「いいんだ」俺は答えた。「これは、俺が彼に課した試験であると同時に、彼が俺に課した試験でもある。俺は、俺の覚悟を、行動で示すしかない」
俺たちの“呪い”を巡る旅は、こうして、一人の絶望した賢者に、一つの“魂を賭けた契約”を提示することから始まったのだった。次なる目的地は、王都の裏社会に潜む、残りの仲間たちだ。