絶望の共有と“血判”の契約
エグバートが嘲笑を残して去った後、俺は自室に閉じこもり、鍵をかけた。城壁に投げつけられる石の音、俺を罵る民の声、そしてハロルドの嘆きとクロウの冷徹な言葉が、頭の中で渦巻いていた。全てが、俺の未熟さが招いた結果だった。
俺は、父の日記を開いた。そこに書かれていたのは、古代魔法の理論だけではなかった。
『領主とは、民の先頭に立つ者ではない。民の最も後ろに立ち、全ての責任を背負う者だ。喜びは民に、苦難は己に。それができぬ者は、民を導く資格はない』
父の言葉が、今の俺にはあまりにも重かった。
机の引き出しの奥から、小さなビロードの箱を取り出す。中には、母がこの城を去る時に、幼い俺の枕元にそっと置いていったという、唯一の形見であるイヤリングが、静かな輝きを放っていた。俺のせいで不幸になった母。俺が“無才”でさえなければ、母は父と共に、幸せに暮らせていたはずだ。このイヤリングは、俺の罪の象徴であり、同時に、いつか立派になって母を迎えに行くという、叶わぬ夢の証でもあった。
俺は、日記とイヤリングを並べて、自問した。俺は、一体何を守りたいのだ? 父の理想か? 母との思い出か? それとも、領主としての、くだらないプライドか?
違う。俺が守るべきは、今、この瞬間も飢えと絶望に苦しんでいる、ギデン領の民だ。
数日が過ぎ、俺は一つの決意を固めた。
俺は、ハロルドを自室に呼んだ。
「ハロルド、広場に領民を集めてくれ。隠していたことも、これからのことも、全て話す」
ハロルドは、俺のやつれた顔を見て、静かに首を振った。
「アルヴィン様…しかし、今、民衆の前に出られるのはあまりにも危険です。彼らの怒りは、頂点に達しております」
「分かっている。だが、ここから逃げれば、俺は本当の意味で領主ではなくなる。石を投げつけられる覚悟はできている」
「その覚悟は、本物ですかな?」ハロルドは、俺の目を真っ直ぐに見据えた。「先代様は、常に民と共にありました。民のために傷つくことを、決して恐れなかった。あなた様にあるのは、その場しのぎのプライドではなく、真に民の痛みを背負う覚悟ですかな?」
その問いに、俺は、母の形見が入った箱を、彼に差し出した。
「これを、王都で最も高く買い取ってくれる商人に売ってきてくれ」
ハロルドは、箱の中身を見て、息を呑んだ。
「…これは、奥様の…! なりません、これだけは!」
「いいんだ」俺は、静かに言った。
「過去にすがるのは、もうやめた。俺は、今を生きる民のために、未来を掴む。そのための覚悟だ」
ハロルドは、俺の瞳の奥にある決意を読み取り、震える手で、その箱を受け取った。
城門前の広場は、凍てつくような敵意に満ちていた。集まった領民たちの目に、かつてのような期待の色はもうない。あるのは、軽蔑と、怒りと、そして深い絶望だけだった。
俺は、ハロルドと共に、彼らの前に立った。鴉たちが、万一に備えて屋根の上から俺たちを見守っている。
「みんな、集まってくれてありがとう」
俺の第一声に、容赦ない罵声が飛んだ。
「今さら何のようだ、落ちこぼれ!」
「エグバートに領地を売り渡した裏切り者が!」
「そうだ! お前の母親も、お前が“無才”だから、愛想を尽かして出ていったんだろうが!」
その言葉は、俺の心の最も深い傷を抉った。だが、俺は感情を押し殺し、ゆっくりと、深く頭を下げた。
「…すまなかった」
俺の声は、震えていた。
「全ての責任は、俺にある。俺が、焦りと未熟さから、詐欺師の口車に乗り、なけなしの領地の財産を失った。そして、エグバートとの屈辱的な契約を結び、一年という猶予しか残されていないこの状況を作ってしまった。全ては、領主である俺一人の、過ちだ」
ざわめきが、少しだけ収まった。彼らは、俺が言い訳をするとでも思っていたのだろう。
「俺は、みんなに嘘をついていたわけではない。だが、大事なことを話していなかった。今日は、それを全て話すために来た」
俺は、ハロルドに合図した。ハロルドは、巨大な黒板を運び出し、そこにチョークで、領地の収入と支出を書き出していった。それは、先日の報告書の内容、そのものだった。
「これが、ギデン領の現実だ。見ての通り、税収は必要経費の三分の一にも満たない。ファルコの件がなくても、この領地は、あと半年もすれば自然に崩壊していた。俺は、その事実から目を背け、一発逆転の甘い夢に飛びついて、失敗した」
民衆は、初めて自分たちの領地の正確な財政状況を知り、息を呑んだ。そこには、希望の欠片もなかった。
「だが」
俺は続けた。
「俺は、まだ諦めてはいない。俺たちに残された、たった一つの希望がある」
俺は、『魔素編纂』の存在を、初めて公にした。
「魔法だと? そんな御伽噺が、俺たちの腹を満たしてくれるのか!」
一人の老人が、そう叫んだ。
「俺たちに必要なのは、未来の夢じゃない! 今日のパンだ!」
「その通りだ」
俺は、はっきりと頷いた。
「だから、用意した」
ハロルドが、震える手で、一つの小さな布袋を高く掲げた。中からこぼれ落ちたのは、数枚の、しかし紛れもない王都発行の大金貨だった。
「俺の母の形見を、売って得た金だ。俺個人の、最後の財産であり、俺の過去との決別の証だ。この金で、西のクヌス領から、最低限の小麦を買い付けた。クヌス領主は、俺の悪評を知って、足元を見てきた。通常の三倍の価格だったが、それでも、これだけあれば、全員が餓え死にすることはないはずだ」
俺は、父だけでなく、母との繋がりさえも、この地のために断ち切った。その覚悟が、民衆の心をわずかに揺さぶった。
だが、俺は続けた。その声には、先ほどまでの弱々しさは、もうなかった。
「だが、このパンは、ただでは渡さない!」
俺の言葉に、民衆がどよめく。
「俺は、俺の覚悟を示した。過去を全て捨てて、この土地に骨を埋める覚悟をだ。だが、君たちにも覚悟があるのか、と聞きたい!」
俺は、広場に集まった全員の目を、一人ひとり見据えた。
「今日、このパンを食って、明日も同じように、ただ生き延びるためだけの今日を生きるのか? 来年も、その次の年も、子供や孫の代まで、この痩せた土地で、ただ死なないためだけに生き続けるのか? 今を精一杯生きたとして、その先に何がある! そこに、希望はあるのか!」
俺の言葉が、彼らの心に突き刺さる。
「俺が提案しているのは、ただの魔法じゃない! 賭けだ! 俺たちの子供たちが、『ギデン領に生まれてきて良かった』と、心の底から笑える未来を作るための、たった一度の、人生を賭けた大博打だ! 俺は、そのために、俺の全てを賭けた! お前たちは、何を賭ける!? 今日だけを生きるのではなく、未来の子供たちのために、明日を生きるという、その覚悟を賭けることはできないのか!」
それは、あまりにも厳しく、そしてあまりにも熱い問いかけだった。広場は、完全な沈黙に包まれた。
やがて、西の村のミラーが、震える足で一歩前に出た。彼は、俺の前に来ると、深く、深く頭を下げた。
「…領主様。俺たちは、間違っておりました。俺たちが失っていたのは、パンだけじゃなかった。あんたがおっしゃる通り、未来を信じる『覚悟』だったんだ」
彼は顔を上げ、その目には涙が浮かんでいた。
「もう、娘を人買いに売るなんて、考えたくもねえ。あいつらが、この土地で笑って暮らせる未来があるんなら…俺のこの命、あんたに賭けてやる! 俺たちに、やらせてくれ! 俺たちの手で、未来を作る手伝いを、させてくれ!」
その一言をきっかけに、他の者たちからも、「そうだ!」「俺たちもだ!」と、堰を切ったように、力強い声が上がり始めた。それは、もはや打算や諦めから来る同意ではなかった。アルヴィンの覚悟が、彼らの心に眠っていた誇りと希望の炎に、火をつけたのだ。
俺は、彼らと、血判を押した契約書を交わした。俺の血と、彼らの血が、一枚の羊皮紙の上で混じり合う。それは、領主と領民という関係を超えた、運命共同体としての、重い、重い誓いだった。
俺は、領民との、そして過去との、最初の契約を果たした。次なる契約の相手は、王都の路-地裏にいる、絶望した賢者だ。