日報093:新たな旅立ちと賢者の贈り物
『呪われた沼』との死闘から戻って開催された祝宴は、三日三晩続いた。
世界樹の根元に広がる里の中心広場には、穏やかな光を放つ苔や花々に加え、温かいオレンジ色の光を放つ焚き火がいくつも焚かれた。数百年もの間、悲しみと警戒心に閉ざされていたこの里に、エルフたちが奏でる竪琴と笛の音が楽しげに響き渡る。それは、長老たちですら幼い頃に一度聞いたきりだという、古代の祝いの歌だった。
宴の二日目の夜。俺は長老たちと共に、主賓として最上席に招かれていた。
「シンイチ殿。これは、我らの森で五百年間開かれることのなかった『星見の酒』だ。受け取ってほしい」
そう言って無骨な杯を差し出してきたのは、あの強硬派であったはずの長老アリオンだった。その表情はまだ硬かったが、その瞳には俺たちへの、そして自らの民が笑顔を取り戻したことへの深い感謝の色が浮かんでいた。
少し離れた戦士たちの輪の中心には、セシリアとライラの姿があった。二人は互いの得物である剣と弓を前に、それぞれの武具の思想について熱心に語り合っている。
「……エルフの弓は、一撃で『命』を絶つためのもの。だが、あなたの剣は、相手を生かしたまま、その『戦意』を断つための技。実に興味深い」
「ライラ殿の精密な射撃術も、王国のどの弓兵とも違います。あれは、もはや武術ではなく、芸術の域です」
種族も得物も違う二人の戦士の間に、確かな敬意と友情が芽生えていた。
広場の隅では、セラフィナが数人の若いエルフの魔導士たちに囲まれ、目を輝かせながら何やら熱弁をふるっていた。
「ですから! あの『共鳴魔法陣』の理論を応用すれば、世界樹の魔力を、もっと効率的に里の結界に変換できるはずなんです! この術式を、こう書き換えれば……!」
彼女が地面に木の枝で描き出す常人には理解不能な数式。それを、エルフの若者たちが憧れの眼差しで見つめている。知識の交流という新しい関係が、すでに始まっていた。
そして、宴の中心で最も温かい光景を織りなしていたのは、リズだった。
彼女は、生まれて初めて見る人間の子である自分を少し遠巻きに見ていたエルフの子供たちに、はにかみながら小さな光の蝶々をその手のひらから生み出して見せた。
「わあ……!」
子供たちから感嘆の声が上がる。その純粋な笑顔にリズも嬉しくなり、次々と光の蝶や花の冠を生み出していく。やがてエルフの子供たちはリズの周りに集まり、種族の壁など最初から存在しなかったかのように、一緒になって笑い合っていた。
その光景こそが、俺たちの戦いが単に一つの呪いを浄化しただけではなかったことの、何より雄弁な証拠だった。
俺は、アリオンから注がれた『星見の酒』を、静かに、そして深く味わった。
そうして三日三晩続いた祝宴が幕を閉じ、辺境に来てから第六十八日目の朝が訪れた。
俺たちタスクフォースは心からの歓待を受け、死闘で負った深い疲労から心身ともに回復していた。
その日の朝、俺は長老エララからの呼び出しを受けて一人で『月の書架』を訪れていた。そこには穏やかな表情の三人の長老たちが俺を待っていた。
「よく来てくれた、シンイチ殿」
エララはもはや俺を「人間」とは呼ばず、友としての温かい響きで俺の名を呼んだ。
「まずは改めて礼を言わせてほしい。あなた方のおかげで我らの森は五百年に及ぶ苦しみから解放された。この御恩は世界樹が朽ち果てるまで、我らエルフ一同決して忘れん」
その言葉と共に、強硬派であったはずのアリオンですら俺に深々と頭を下げた。
「そしてこれは今回の功績への、我らエルフ族からのささやかだが心からの『報酬』だ。受け取ってほしい」
エララがそっと俺の前に二つの品を差し出した。一つは世界樹の葉で丁寧に編まれた小さな箱。そしてもう一つは白銀に輝く美しい弓だった。
「その箱の中身は『世界樹の若葉』だ。あれは浄化された沼の中心で、偉大なる守護者が最後の涙から咲かせた一輪の花。その花から芽吹いた新しい生命でもある。それ自体が絶大な浄化の力と生命力を宿しており、必ずやあなた方の村の力となるだろう」
俺はそのあまりにも重い意味を持つ贈り物を恭しく受け取った。
「そしてその弓は、我らエルフと銀狼族が数百年ぶりに真の友好関係に戻った証として作らせたものだ。盟友であるガエル殿に渡してほしい。弦には世界樹の魔力を宿した糸を、弓幹にはいかなる邪気も寄せ付けぬ月の魔力を宿した木材を使っている」
そのあまりにも豪華で心のこもった贈り物に、俺はエルフたちの深い友情へただ感謝の言葉を述べることしかできなかった。
「……そして本題だ」
エララはついに、俺たちがこの森を訪れた最初の目的である『古代の素材』に関する情報を開示する。
彼が月の書架の中央に浮かぶ巨大な水晶に手をかざすと、その表面に古びた羊皮紙のようなものが光と共に浮かび上がった。だがそれはただの地図ではなかった。地図に描かれた大陸の地形が、まるで生きているかのようにゆっくりと呼吸をするように脈打っていたのだ。
「……これは?」
「『魂の脈図』。世界樹の記憶と直接リンクした古代の遺物だ。これさえあれば世界中のいかなる場所であろうと見つけ出すことができる」
地図の上には三つのひときわ強い光を放つ地点があった。
「あなた方が求める三つの素材の場所だ」
エララはその光を一つずつ指し示しながら説明を始めた。
「一つ、『星屑のミスリル』。北方の『凍てつく牙』と呼ばれる極寒の山脈。その古代ドワーフが掘り尽くしたとされる廃坑のさらに奥深く。満月の夜にしかその輝きを地上に現さぬという」
「二つ、『夢見うさぎの涙腺』。南方の『まどろみの森』。常に幻惑の霧に包まれ、訪れる者の精神を惑わし二度と現実の世界へは帰さぬという」
「そして三つ、『常闇苔』。東の果てにある大地の裂け目『奈落の口』。太陽の光が一切届かぬ地下世界の入り口にのみ自生するという」
そのどれもが、ただそこへたどり着くだけでも命を落としかねない伝説級の危険地帯だった。
俺は客舎に戻ると仲間たちにエルフからの贈り物と『魂の脈図』を見せた。地図に示された三つの素材のあまりにも絶望的な所在地に、仲間たちは言葉を失った。
「……ひゃあ……! ど、どれも普通の人間が近づいていい場所じゃありませんよ……!」
セラフィナが顔を真っ青にしている。
「……北の山脈は万年雪に覆われ、巨大な氷の魔物が棲むと聞く。南の森は一度入れば二度と出られぬ精神の牢獄。……どちらも王国騎士団ですら調査を諦めた禁断の土地だ」
セシリアもそのあまりの危険度に厳しい表情を浮かべていた。
だが俺は不敵に笑った。
「ああ、そうだろうな。だからこそ俺たちの出番だ」
俺はこのあまりにも困難な素材の確保を新たなプロジェクトとして定義し、その始動を高らかに宣言した。
「これより『熟成魔法陣・材料調達プロジェクト』を開始する!」
俺は地図を指し示した。
「三つの素材を同時に追うことはできない。一つずつ確実に手に入れていく。そして我々が最初に目指すべきはここだ」
俺が指差したのは北方の『凍てつく牙』。
「なぜ、そこからなのですか?」
セシリアの問いに、俺は総務部長としての合理的な判断を説明した。
「『星屑のミスリル』はフィリアが新たな装備を開発する上で基礎となる重要な素材だ。これを最初に確保すれば、残る二つの危険な地域へ挑むための新しい武器や防具を彼女に開発してもらえる。これがこのプロジェクトを最も効率的かつ安全に進めるための最適解だ」
俺のどこまでも冷静で戦略的な視点に、仲間たちの間の不安が確かな挑戦への意欲へと変わっていくのが分かった。
「よし。方針は決まった。我々は一度村へ帰還する。そこで万全の準備を整え、改めて北の山脈へと出発する」
その日の昼過ぎ。俺たちがエルフの里を出発する時が来た。
見送りにはライラだけでなく、多くの子どもたちを含む里の全てのエルフたちが集まっていた。その光景は俺たちが初めてこの地を訪れた時の、あの張り詰めた拒絶の空気とはまるで別世界だった。
「シンイチ殿」
ライラが俺の前に進み出た。
「あなた方と出会えたこと、そして偉大なる守護者の魂を救ってくださったこと、心から感謝します。このご恩は決して忘れません」
彼女は森の番人としてではなく、一人の友人としてその心からの言葉を贈ってくれた。
「リズちゃん、また遊びに来てね!」
「うん! 絶対また来るね!」
リズはこの数日間ですっかり仲良くなったエルフの子供たちと、涙の別れを交わしていた。その光景は種族を超えた新しい時代の始まりを象徴しているかのようだった。
最後に長老エララが俺たちの前に進み出た。
「森の友よ。道中、森の祝福があらんことを」
彼がそう静かに、そして力強く宣言すると、俺たちの体を世界樹の温かく力強い加護の光が包み込んだ。
数百年にもわたる長い確執を乗り越え、確かな友情を育んだエルフたち。彼らに盛大に見送られ、俺たち一行は懐かしい我が家、そして次なる壮大な冒険が待つ村へと帰路についた。
新たな章の始まりを告げる、希望に満ちた旅立ちだった。




