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日報092:放たれた矢と守護者の涙

 辺境に来てから第六十五日目の午後。

 『嘆きの湿地帯』の中心で、俺たちの、そして、この森の五百年に及ぶ悪夢との、最後の戦いが繰り広げられていた。

 リズが放った『原初の光』。その、あまりにも神聖で、あまりにも強大な一撃は、呪熊の体を覆っていた瘴気のオーラを、その根源から浄化し、霧散させた。だが、その巨体は、未だ倒れてはいない。弱々しく、しかし、その瞳の奥に、消えぬ憎悪の炎を宿して、最後の抵抗を試みようと、その身を、ぐらりと揺らした。


「今だ! これが、我々の、最後の好機だ! ライラ! セシリア! 『聖なる泥』を、奴の、剥き出しになった、核へッ!!」


 俺の、その絶叫にも似た号令。

 それに、二人の戦士が、完璧に、呼応した。


「――行けッ!」

 セシリアが、叫んだ。

 彼女は、もはや、最後の攻撃役ではない。ライラが、この世の全ての理を込めた、その最後の一矢を放つための、完璧な舞台を作り出す、「盾」としての役割を、その一身で、担っていた。

「――聖なる守護よ、我が剣に宿れ!」

 彼女の愛剣が、これまでにないほどの、眩い光を放つ。彼女は、弱体化しつつも、なお最後の抵抗を見せる呪熊の、その薙ぎ払われんとする巨大な腕の下へと、死を恐れず、踏み込んだ。そして、渾身の力を込めて、その聖なる剣を、地面へと、突き立てた。

 瞬間。

 剣が突き立てられた地点から、光の鎖が、無数に伸び、呪熊の腕を、そして、その巨体を、地面へと縫い付ける。それは、攻撃ではない。ただ、その動きを、ほんの数秒だけ、完全に封じ込めるための、自己犠牲にも等しい、騎士の、祈りだった。


 その、セシリアが、命を懸けて作り出した、数秒の静寂。

 高台の上で、ライラは、すでに、その精神を、極限まで研ぎ澄ませていた。

 フィリアが作り上げた『浄化拡散ボルト』。その、水晶でできた矢じりの内部には、ゴーレムの、五百年分の哀しみが凝縮された、最後の『聖なる泥』が、静かな光を放って、満たされている。

 彼女の、数百年にも及ぶ、弓の技量。森の番人としての、誇り。そして、人間たちと出会って、初めて生まれた、種族を超えた、仲間への信頼。その全てが、今、この一矢に、込められようとしていた。


 狙うは、瘴気が晴れたことで、呪熊の胸の中心に、まるで、おぞましい心臓のように、禍々しく脈打つ、呪いの『核』。

 ライラは、静かに、息を吸った。

「……森の友よ。……そして、偉大なる、守護者よ。……今、この永き悪夢を、終わらせる」

 彼女の唇から、古エルフ語の、祈りの言葉が、紡がれる。

 そして、その指が、静かに、弦を、離れた。


 放たれた矢は、もはや、ただの矢ではなかった。

 浄化の光そのものが、凝縮された、一筋の流星。

 それは、美しい、緑色の軌跡を描きながら、寸分の狂いもなく、呪いの『核』へと、吸い込まれていった。


 矢が命中した瞬間。

 俺たちが予測していた、爆発的な飛散は、起こらなかった。

 ただ、静かに。しかし、圧倒的な光が、呪熊の体内から、溢れ出したのだ。『聖なる泥』が、『核』と接触し、浄化の、連鎖反応を、開始したのだ。


「グル……ル……ォ……」

 呪熊が、上げた声。それは、断末魔の悲鳴ではなかった。

 どこか、安堵したような。五百年の、永きに渡る苦しみから、ようやく、解放されたかのような、長い、長い、溜息。

 その巨体が、光の粒子となって、ゆっくりと、霧散していく。憎悪に満ちていたその顔には、一瞬だけ、元々、この森の主だったであろう、誇り高い、一頭の熊の、穏やかな面影が、戻っていた。


 呪熊が、完全に消滅すると同時に。

 沼全体に、浄化の光の、柔らかな波紋が、広がっていった。

 黒く、淀んでいた泥は、元の、生命力に満ちた、清らかな土へと、戻っていく。ねじ曲がり、おぞましい姿となっていた木々は、その呪いから解放され、枯れ落ち、そして、その下から、新しい、生命力に満ちた、若葉が、一斉に、芽吹き始める。

 沼全体が、『死』から、『再生』へと、向かい始めていた。


 やがて、浄化の光が、完全に、収まった。

 その、再生された大地の中心に、力尽き、全身に、深いひびが入り、もはや、動かなくなった、ゴーレムの姿があった。

 彼の、永い、永い役目は、終わったのだ。

 俺たちが、彼の、そのあまりにも、献身的な自己犠牲に、哀しみの言葉を、かけようとした、その時だった。


 リズが放った『原初の光』の、最後の余波が、まるで、彼の魂を祝福するかのように、空から、静かに、光の雪となって、降り注いだ。

 その光の雪が、ゴーレムの体に、そっと、吸収されていく。

 すると。

 ゴーレムの、ひび割れた胸の中心から、これまでで、最も大きく、そして、最も美しい、一輪の、純白の花が、ゆっくりと、その蕾を、開いた。


 それは、彼の、五百年にも及ぶ苦しみが、ついに終わり、そして、その魂が、ようやく、安らぎを得たことを示す、本当の意味での『守護者の涙』だった。


 その日の夜。

 俺たちは、疲労困憊になりながらも、エルフの里へと、帰還した。

 俺たちを待っていたのは、長老エララをはじめとする、全ての里のエルフたちだった。彼らは、ただ、静かに、道を開け、俺たちを迎えた。その瞳には、もはや、以前のような、警戒や、不信の色は、なかった。


 謁見の間で、ライラが、誇らしげに、長老たちへ、事の顛末を、報告した。沼の浄化、呪熊の消滅、そして、偉大なる守護者の、最後の姿を。

 その報告を聞き終えた、強硬派の長老アリオンが、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。そして、俺たちの前に進み出ると、その、数百年間、一度も、誰にも下げたことのないであろう、誇り高い頭を、深々と、下げた。


「……人間よ。いや、森の友よ。我らの、数百年にも及ぶ、過ちと、怠慢を、許してほしい。我らは、お主たちを、試していたつもりだった。だが、本当に、試されていたのは、我らの方だった」


 その、歴史的な和解の言葉。

 議長であるエララが、俺たちの前に進み出て、その、古木の如き顔に、穏やかな笑みを浮かべ、正式に、宣言した。

「試練は、見事に、達成された。これより、サトウ・シンイチとその仲間たちを、我らエルフ族の、永遠の『友』として認め、その功績を、世界樹の記憶に、刻むことを、ここに、誓う」


 その言葉を合図に、里中から、歓声が、上がった。

 人間と、エルフの間に、五百年ぶりに、新しい、そして、血よりも濃い、確かな絆が、生まれた瞬間だった。


 エララは、約束通り、俺たちが求める『古代の素材』――『星屑のミスリル』や、『夢見うさぎの涙腺』のありかと、その、安全な入手方法について、全ての情報を、与えてくれることを、約束した。

 俺は、その、あまりにも大きな成果に、心からの、感謝を述べた。


 壮大な試練を乗り越え、最大の目的を達成し、新たな、そして、最強の同盟者を得た、俺たち。

 俺は、自らが、この異世界で作り上げようとしている「組織」が、また一つ、大きな、そして、温かい、成長を遂げたことを、実感していた。


 この、エルフたちとの出会いは、俺たちの村の、そして、この世界の未来を、大きく変える、その、始まりに過ぎなかったのだ。

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