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日報090:決戦前夜とエルフの贈り物

 辺境に来てから第六十五日目の朝。

 エルフの里での時間は、外界とは違う、穏やかで、しかしどこか張り詰めた独特の法則で流れていく。ミオが村から帰還した翌朝、俺たち「対呪詛汚染タスクフォース」のメンバー全員が、決戦を前に、客舎の中央テーブルを囲んでいた。部屋の空気は、夜明け前の森のように、静かで、しかし確かな緊張感に満ちている。


 テーブルの上には、俺たちがこの数日間で手に入れた、勝利への道筋を照らす全てのピースが、ずらりと並べられていた。

 ライラが提供してくれた『嘆きの湿地帯』の詳細な地図。俺とセラフィナが『月の書架』で発見した、呪いの核心に迫る古文書の写し。セラフィナが夜通しで完成させた、複雑怪奇な『共鳴魔法陣』の羊皮紙。そして、村の天才たちが、俺たちの期待を遥かに超える速さで生み出してくれた、二つの新兵器――マリー作の『試作・瘴気中和ミスト』と、フィリア&トラン作の『浄化拡散ボルト』。


「皆、聞いてくれ」俺は、仲間たちの引き締まった顔を見渡し、静かに、しかし力強く語り始めた。「村の仲間たちの奮闘と、エルフの皆さんの協力のおかげで、我々の手元には、考えうる最高の武器と情報が揃った。だが、油断はするな。これから我々が挑むのは、エルフですら五百年もの間、手をこまねいてきた絶望そのものだ。作戦の成否は、我々一人一人が、自らの役割を完璧に、そして寸分の狂いもなく遂行できるかにかかっている」


 俺は、地図の上に駒を置くように、指し示しながら、最終的な作戦計画の骨子を、全員に再確認させた。

「作戦は、三つのフェーズで進行する。フェーズ1、『無力化』。セラフィナが開発したこの『共鳴魔法陣』で、呪熊の瘴気の放出能力と、その動きそのものを鈍らせる。これが、我々の最初の、そして最も重要な一撃となる」

 セラフィナが、自信と、そしてわずかな不安が入り混じった表情で、こくりと頷いた。彼女の手には、昨夜から何度も、その複雑な術式を確認したであろう、羊皮紙が固く握られている。


「フェーズ2、『陽動と弱体化』。動きが鈍った呪熊に対し、ミオとセシリアが陽動をかけ、その注意を引きつける。その隙に、ライラ殿が、高台から『浄化拡散ボルト』で、呪熊の瘴気を完全に中和する。セシリア、ミオ。君たちの連携が、このフェーズの鍵だ」


「承知いたしました」

「分かった。任せて」

 セシリアとミオが、短い言葉の中に、絶対の覚悟を込めて応える。


「そして、フェーズ3、『救出と浄化』。呪熊を無力化した後、ゴーレム、すなわち『森の守護者』を保護し、俺が特定した、呪いの『核』が存在するであろう沼の最深部へ、最後の切り札である『聖なる泥』を撃ち込む。……以上だ」


 その、あまりにも複雑で、そして危険な作戦計画。仲間たちの間に、ゴクリと息を呑む音が響く。


「……シンイチ。その作戦、一つでも歯車が狂えば、私たちは全滅するよ」

 ミオが、その蒼い瞳で、俺を真っ直ぐに見つめながら言った。


「ああ、その通りだ」俺も、彼女の視線から、目を逸らさずに答えた。「だが、俺の【危機管理EX】が告げている。これが、我々が勝利を掴むための、唯一の、そして最も確率の高い道筋だと」


 俺の、その絶対的な自信に満ちた言葉に、仲間たちの間に漂っていた不安が、確かな覚悟へと変わっていく。

 その、俺たちの作戦会議が終わった、まさにその時だった。

 客舎の入り口に、森の番人ライラが、静かに立っていた。だが、彼女一人ではなかった。その背後には、穏健派の長老リラエルと、数名のエルフたちが、何かを恭しく捧げ持ちながら、控えていたのだ。


「……長老殿。これは、一体……」

 俺の問いに、リラエルは、これまで見せたことのない、穏やかで、そして力強い微笑みを浮かべた。

「長老方は、あなた方の村が作り上げた、その驚くべき『成果物』と、あなた方の、その揺るぎない覚悟を見て、決断されました。『もはや、試練ではない。これは、我らと森の友との、最初の共同作業である』と」


 彼女は、そう言うと、俺たち一人一人の前に、エルフたちが捧げ持っていた「贈り物」を、差し出した。

 それは、エルフの古代技術で作られた、三つの、伝説級の支援物資だった。


「まず、こちらを」

 差し出されたのは、月の光そのものを布地に織り込んだかのような、銀色に輝く、美しいマントだった。手に取ると、羽のように軽く、しかし、その繊維の一本一本から、清浄な魔力が、オーラのように立ち上っている。

「『月光の織衣げっこうのおりごろも』。世界樹の魔力を宿した繊維で織られており、いかなる邪悪な瘴気をも、完全に防ぐことができます。あなた方、調査部隊のメンバー全員に、長老からの贈り物です」

 その、あまりにも強力な防御性能。これさえあれば、あの湿地帯での、瘴気による消耗を、完全に無視できる。


「そして、セラフィナ殿」

 次に、リラエルは、セラフィナの前に、一本の杖を差し出した。それは、世界樹の、生きた枝から削り出されたかのような、滑らかな曲線を描く、美しい杖だった。その先端には、月の光を宿した水晶が、埋め込まれている。

「『世界樹の心枝しんし』。あなたの、その素晴らしい『共鳴魔法陣』の発動を補助し、その効果を、何倍にも増幅させてくれるでしょう」

「こ、こんな、すごいものを……!」

 セラフィナが、震える手で、その杖を受け取った。杖は、まるで彼女の魔力に応えるかのように、ポン、と柔らかな光を放った。


「そして、最後に」

 リラエルは、俺たちの前に、小さな水晶の小瓶を、人数分、差し出した。中には、虹色に輝く、粘度の高い液体が満たされている。

「『生命のいのちのしずく』。飲む者の、体力と集中力を、半日の間、極限まで高める、希少な霊薬です。決戦の前に、お飲みなさい」


 それは、もはや、ただの支援物資ではなかった。

 エルフたちが、数百年にも及ぶ人間への不信を乗り越え、ついに、俺たちを、傍観者や試練の対象としてではなく、対等な「共闘相手」として、認めた、確かな証だった。

 俺たちの士気は、最高潮に達した。


 その日の昼過ぎ。

 エルフからの、最新装備を身につけた俺たちは、二度目となる、あの『嘆きの湿地帯』へと、向かっていた。以前の、手探りの調査行とは違う。今回は、明確な作戦と、勝利への、確かな希望があった。


 道中、俺たちの案内役を務めるライラは、以前よりも、遥かに饒舌になっていた。

「……あの沼は、かつて『月光の泉』と呼ばれていました。夜になると、泉の水面が、月光を反射して、まるで夜空を映す鏡のようになる、森で最も美しい場所でした。我らエルフの子供たちは、そこで、水の精霊たちと戯れ、歌を歌ったものです」


 彼女は、遠い過去を懐かしむように、そして、それを奪った人間への、静かな怒りを滲ませながら、語る。

「……ですが、あの呪いは、その全てを、逆転させた。美しさは、醜悪さへ。生命は、死へ。祝福は、呪いへ。……だからこそ、我々は、あの場所を取り戻さなければならないのです。森の、魂の、ために」


 ミオが、先行偵察から、風のように戻ってきた。

「シンイチ! 見つけた! 呪熊は、沼の中心で、眠っている! 周囲に、他の魔物の気配はない! ゴーレムも、その傍にいる! ……だけど」

 彼女は、そこで、悔しそうに唇を噛んだ。

「……ゴーレムは、まだ戦っている。花を、咲かせ続けている。だけど、その光は、以前よりも、ずっと弱々しい。……もう、あまり時間がないかもしれない」

 守護者の消耗が、限界に近いことを示す、その報告。俺たちの、作戦の緊急性を、さらに高めた。


 俺たちは、ライラが示した、決戦の地へと、到着した。

 そこは、ゴーレムがいた場所から、少し離れた、沼全体を、そして呪熊の姿を、見渡せる、小高い丘の上だった。


「よし。セラフィナ、始めてくれ」

「はいっ!」


 セラフィナが、エルフから授かった『世界樹の心枝』を手に、地面に、複雑な術式を、描き始めた。杖の先端から放たれる、青白い光が、地面の上に、美しい幾何学模様を、寸分の狂いもなく、刻んでいく。その作業を、セシリアとライラが、剣と弓を構え、周囲を警戒して守る。


 数十分後。

 直径十メートルはあろうかという、巨大な『共鳴魔法陣』が、完成した。

 セラフィナが、汗を拭い、俺に、力強く、頷いた。


 俺は、深呼吸し、仲間たちの顔を見渡した。

 セシリアの、騎士としての覚悟。ミオの、森の民としての誇り。セラフィナの、魔導士としての探求心。そして、ライラの、森の番人としての、祈り。

 全員の想いが、今、一つになろうとしていた。


 俺は、静かに、しかし、力強く、その号令を下した。

「よし。……作戦、開始!」


 その言葉を合図に、セラフィナが、杖を、魔法陣の中心に、突き立てた。

 瞬間。

 魔法陣が、絶叫するような轟音と共に、起動する。

 そして、それに呼応するかのように。


「グルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!」


 呪熊の、森全体を震わせるほどの、苦痛と、憎悪に満ちた咆哮が、湿地帯の奥深くから、響き渡った。


 だが、それは、俺たちが予測していた、単なる目覚めの咆哮ではなかった。

 弱体化していくかに見えた呪熊。だが、それは、呪いの本能的な、最後の防御反応を引き起こす、引き金となったのだ。


 呪熊は、突如、沼の、俺たちが『核』と仮定した、最深部と、共鳴を始めた。

 沼全体が、まるで一つの巨大な心臓のように、どくん、どくん、と脈動し、周囲の、汚染された木々や、黒い泥が、生き物のように動き出し、無数の、おぞましい触手となって、俺たちへと、襲いかかってきたのだ。


「なっ……!?」

 敵は、呪熊一体ではなかった。

 この、呪われた沼そのものが、一つの、巨大な敵として、俺たちに、その牙を、剥いたのだ。

 俺たちは、四方八方から迫る、無数の触手に囲まれ、絶体絶命の危機に、陥っていた。


 決戦の火蓋は、俺たちの、想像を絶する形で、切って落とされたのだった。

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