日報088:二つの戦場
辺境に来てから六十三日目の朝。
俺たちの村は、いつものように、夜明けと共に活気に満ちた一日を始めていた。トランの建設チームが新しい住居の建設を進める槌音。ジークの農業チームが畑を耕す掛け声。その、日常となりつつあった平和な喧騒を、一本の矢が切り裂いた。
ヒュンッ!
村の見張り台に、銀狼族の紋様が刻まれた矢が、深々と突き刺さる。それは、ミオが緊急の知らせを持って帰還したことを告げる、彼女と村の警備部門との間で取り決められた合図だった。
「……! ミオ様のご帰還だ! 全員、配置につけ!」
見張り台に立つ、ヴァレリウスの部下である元騎士が、鋭く叫ぶ。その声を受け、村の自警団と、非番だった警備隊員たちが、即座にそれぞれの持ち場へと散っていく。その動きには、一切の無駄も、混乱もない。セシリアが不在の間、リリィとヴァレリウスが築き上げた、新しい警備体制が、完璧に機能している証だった。
数分後。
森の中から、まるで一陣の風のように、ミオが姿を現した。その銀色の髪は汗で濡れそぼり、小さな肩は大きく上下している。夜通し、森を駆け抜けてきたのだ。そのただならぬ様子に、出迎えたエリナとリリィの顔に、緊張が走った。
「ミオさん! いったい何が……!?」
「……はぁ……はぁ……! エリナ、リリィ……! すぐに、皆を集めてくれ……! シンイチからの、緊急指令だ……!」
領主館の執務室は、瞬く間に、村の全ての頭脳が集結する、作戦司令室と化した。
エリナ、リリィ、トラン、ガルフ、ジーク。そして、呼び出されたフィリアとマリー。全員が、ミオの言葉を、固唾をのんで見守っていた。
ミオは、エルフの里での出来事、呪われた沼の脅威、そして、守護者ゴーレムと、湿地帯の主である呪熊との死闘を、詳細に、そして、正確に伝えた。
村に、王都での戦いとは、全く質の違う、未知の、そして根源的な脅威との戦いが始まったことへの、重い緊張が、部屋を満たした。
「……これが、シンイチが、命懸けで手に入れた『希望』だ」
ミオは、そう言うと、慎重に、水晶の容器に封印された『聖なる泥』を、テーブルの中央に置いた。
その、自ら温かい光を放つ、奇跡の物質。
その場にいた誰もが、その、あまりにも清浄な魔力に、息を呑んだ。
「……これが、呪いを……生命力に、変換する物質……。信じられない……!」
マリーが、その容器に、吸い寄せられるように近づいた。彼女は、薬師としての魂を、根こそぎ揺さぶられていた。
「……すごい。この魔力……。これさえあれば……これさえあれば、師であるドミニク様ですら、たどり着けなかった、新しい薬が……!」
彼女は、即座に、不眠不休での分析と、これを基にした試作解毒薬――瘴気中和ミストの開発に取り掛かることを、決意した。研究室に籠る彼女の目には、もはや、ドジな弟子の面影はない。師であるドミニクすら超えようとする、天才の、狂気にも似た探求心の炎が、宿り始めていた。
一方、フィリアとトランの工房では。
フィリアが、ミオが持ち帰った報告書に記された、呪熊の戦闘データを、食い入るように見つめていた。
「……この硬さ……。オーガの比じゃない。通常の物理攻撃では、決定打にならない。……それに、この瘴気を放出する腫瘍。ここが、奴の生命線であり、最大の弱点……」
彼女は、即座に、結論を導き出した。
「……トラン」
「おう、嬢ちゃん。何だ?」
「手伝って。……奴を、殺すための、新しい『矢』を、作る」
彼女は、マリーが開発するであろう浄化薬を、敵の弱点である腫瘍の内部へ、直接、撃ち込むための、全く新しい兵器の設計を開始した。それは、着弾と同時に、内部の液体を、広範囲に、そして効率的に飛散させるための、複雑な機構を持つ『浄化拡散ボルト』だった。
フィリアは、自ら工房の炉に、勢いよく火を入れた。
「トラン! この矢じりの『芯』となる、木材の部分! 私の魔力と、浄化薬の力を、最も効率よく伝えられる、最高の木材を選んで、寸分の狂いもなく削り出して! 誤差は、0.1ミリも許さない!」
「へっ、面白え! 魔物退治の武器なんざ、作ったこたァねえが、大将と嬢ちゃんの頼みとあっちゃあ、やるしかねえだろうが!」
トランも、その前代未聞の要求に、職人としての魂を燃え上がらせ、工房に運び込まれた最高級の光条樫の心材の選定と、神業のような、精密な加工を開始した。
村の、二つの工房で、二人の天才が、それぞれの戦いを始めたのだ。
一方、その頃。エルフの里では。
俺たちは、ミオの帰りを、ただ待っているわけではなかった。ライラの案内で、再び『月の書架』を訪れ、さらなる文献調査を開始していた。
「ライラ殿。昨日の情報と、俺の分析を元に、さらに調査範囲を絞り込みたい。キーワードは、『呪熊』『ゴーレム(守護者)』、そして、五百年前の『大裏切り』の際に使われたという、呪詛魔法。この三つに関連する、どんな些細な情報でもいい。全て、洗い出してほしい」
「承知いたしました」
俺は、過去の浄化儀式の失敗例を、今度は、総務部長としての「プロジェクト失敗の原因分析」という観点から、徹底的に再調査していた。エルフたちは、その失敗を、魔力の不足や、術式の不完全さといった、「魔法」の観点からしか見ていなかった。だが、俺の目は違う。
(……この、二百年前の第五次浄化作戦。参加した魔導士のリストと、彼らの専門分野を見る限り、チーム編成に、明らかな偏りがある。浄化魔法の専門家ばかりで、結界魔法や、防御魔法のスペシャリストがいない。これでは、不測の事態に対応できない。典型的な、人的リソースの配分ミスだ)
(……こっちの、百五十年前の第七次作戦。古文書によれば、決行されたのは、雨季の直後。湿地帯の地盤が、最も緩んでいる時期だ。これでは、大規模な魔法陣の設置に、支障が出たはずだ。環境要因の、完全な見落とし)
俺は、エルフたちが、数百年もの間、気づくことのなかった、失敗の、本当の原因を、次々と特定していく。その、あまりにも異質な分析手法に、ライラは、驚きを通り越して、もはや畏怖の念を抱いているようだった。
その、俺の分析作業と並行して、セラフィナが、古代エルフ語で書かれた、難解な術式文献を、解読していく中で、一つの、驚くべき記述を発見した。
「シンイチ様! 見てください! この、呪熊に関する、古い伝承の一部です!」
彼女が指差した水晶板には、こう記されていた。
『……古の森の主、その怒れる魂は、瘴気と共に、不協和音を奏でる。されど、賢者の竪琴が奏でる、月の調べは、その魂を、一時、鎮めるという……』
「……『特定の音波』に、弱い?」
俺は、その記述に、目を見開いた。
「はい! おそらく、呪熊の、あの瘴気を放出する腫瘍が、特定の周波数の音波に対して、共振し、その機能を、一時的に低下させるのではないでしょうか!? もし、その音を、特定できれば……!」
俺は、自らの分析結果と、セラフィナの発見を、頭の中で統合し、来るべき決戦のための、より詳細な作戦計画を、練り上げていく。それは、ただ、村からの新兵器を待つだけではない。エルフたちの叡智と、この森の環境そのものを、最大限に利用した、複合的な戦術だった。
俺たちは、二つの場所で、仲間たちが、それぞれの戦いを始めたことを信じ、自らもまた、決戦への準備を、着々と進めていた。
反撃の狼煙は、もう、上がり始めている。




