日報086:後方支援チームへの報告と賢者の決断
辺境に来てから第六十一日目の夜。
『嘆きの湿地帯』から安全な距離まで退避した俺たちは、森の中に急ごしらえの野営地を築き、ようやく一息ついていた。月明かりだけが頼りの森の夜は、昼間の死闘の興奮をゆっくりと冷やしていく。仲間たちの間には、死線を乗り越えたことによる極度の疲労と、それ以上に、ゴーレムが見せた奇跡への、熱を帯びた感動が渦巻いていた。
「……ミオ。腕の傷は、本当に大丈夫なのか?」
俺が声をかけると、焚き火の光に照らされたミオは、自分の腕を不思議そうに見つめながら頷いた。
「うん。もう、痛みも何もない。あの泥の人形が触れた時、温かい光が傷の中に入ってきて、黒いモヤモヤを全部消しちゃったんだ。……信じられない」
彼女の腕にあったはずの呪熊の爪による傷は、跡形もなく消え去っていた。後遺症もない。あのゴーレムが放った、慈愛に満ちた白い花々の光。それが、呪いの本質である『反生命』の魔力を、完全に浄化してしまったのだ。
俺は、セラフィナが確保した『聖なる泥』のサンプルを、改めて確認した。水晶の容器の中で、それは、自ら温かい光を放ち続けている。ただの泥ではない。生命力そのものが、凝縮されて形を成したかのような、奇跡の物質だった。
「……あれは、我らエルフの古の伝承にのみ残る、森の再生を司る『土の精霊』そのものかもしれません」
ライラが、畏敬の念を込めて、静かに語り始めた。彼女の翡翠の瞳は、俺が持つサンプルの容器に、釘付けになっている。
「ですが、なぜ、あのような呪われた地に……。伝承によれば、土の精霊は、森で最も清浄な場所にしか、その姿を現さないはず。まるで、自らの身を犠牲にして、あの湿地帯の呪いを、一身に受け止め、浄化し続けているかのようです。……孤独な、守護者」
その言葉に、俺たちは、改めて、あのゴーレムの雄々しい後ろ姿を思い出していた。
俺は、仲間たちに向き直り、静かに、しかし、力強く告げた。
「今日の調査で、我々は二つの重要な情報を手に入れた。一つは、呪熊という、我々の想像を絶する脅威の存在。そして、もう一つは、その呪いを浄化しうる、ゴーレムという『希望』の存在だ。プロジェクトは、次のフェーズに移行する」
翌、第六十二日目の朝。
エルフの里に戻った俺たちは、休む間もなく、すぐに次の行動に移った。俺は、ミオを執務室代わりに使っている客舎の一室に呼び、彼女に最初の、そして最も重要なメッセンジャーとしての任務を与えた。
「ミオ。このサンプルと、俺が昨夜まとめた報告書を、今すぐ村へ届けてほしい。これは、時間との戦いだ」
俺が彼女に託すのは、このプロジェクトの成否を左右する、三つの重要な指示だった。
「まず、このサンプルと、瘴気の分析データを、マリーに渡してくれ。彼女には、これを徹底的に分析し、呪熊の瘴気に対する、簡易的な解毒薬、あるいは、瘴気の効果を中和・弱体化させる薬の開発を、最優先で進めてもらうよう伝えてくれ。村にある、最高の錬金設備を使えば、必ず、何らかの突破口を見つけ出せるはずだ」
「次に、この報告書だ。ここには、呪熊の戦闘データ――その分厚い皮膚の硬度、瘴気を放出する腫瘍の位置、そして、奴の攻撃パターンが、詳細に記されている。これを、フィリアとトランに渡し、呪熊に対抗するための、特殊な武器、あるいは、防具の開発を依頼してほしい。例えば、ライラ殿が使っていたような、浄化の力を込めた特別な『水晶の矢じり』や、瘴気の吸入を防ぐ『フィルター付きのマスク』のようなものだ。あの二人の天才なら、必ず、何か形にしてくれるはずだ」
「そして最後に、この手紙を、エリナとリリィに。村の運営は、全権を彼女たちに委任する。だが、万が一、こちらでの作戦が失敗した場合のことも考え、村の警備レベルを一段階引き上げ、いつでも籠城できる態勢を整えておくよう、伝えてくれ」
その、あまりにも重い任務。だが、ミオは、怯むことなく、その小さな体に、確かな覚悟を宿していた。
「分かった、シンイチ! 半日で村まで届けてみせる! 私の、一族の、名誉にかけて!」
彼女は、斥候としてのプライドをその言葉に込めると、風のように里を飛び出していった。その速さは、もはや獣の俊敏さを超え、森を駆ける一つの意思そのものだった。
ミオが出発したのを見届けた後、俺は、ライラの仲介で、再びエルフの長老たちとの謁見の機会を得ていた。
世界樹の『謁見の間』。その荘厳な空間で、俺は、昨日の調査で起こった全て――呪熊との戦闘、ゴーレムの存在とその奇跡的な行動――を、一切の脚色なく、ありのままに報告した。
「……だから言ったのだ! あの地は、お主ら人間が、手を出してよい領域ではない!」
俺の報告を聞き終えた強硬派の長老アリオンが、苛立ちを隠せないといった様子で声を荒げた。
「結果として、お主たちは、森の主の怒りを買い、何の成果も得られずに、命からがら逃げ帰ってきただけではないか! これ以上の調査は、無意味だ! 即刻、中止すべきだ!」
だが、穏健派の長老リラエルは、アリオンとは違う点に、深く心を動かされていた。
「……お待ちください、アリオン。あなたは、聞き逃しましたか。森の守護者が、亜人とはいえ、人間と共に在る者を見捨てず、その身を挺して救ったという、その事実を。……それは、我らエルフが、数百年もの間、忘れかけていた、森の、本当の『意志』なのかもしれません」
俺は、ここで、次なる一手として、エルフたちに『共同戦線』を提案した。
「賢者殿。アリオン殿のおっしゃる通り、今の我々だけでは、あの呪熊を討伐することは不可能でしょう。ですが、我々は、諦めません。今、この瞬間も、我々の村では、最高の薬師と鍛冶師が、この事態を打開するための研究開発を進めています。我々は、村の仲間たちの支援を待ち、必ずや、あの呪熊を無力化し、そして、あの孤独な守護者を救い出す策を講じます」
俺は、そこで一度、言葉を切り、三人の長老たちの目を、真っ直ぐに見据えた。
「つきましては、あなた方にも、一つ、ご協力いただきたい。我々に、あなた方が持つ、古代の『浄化魔法』に関する、全ての知識を、お貸しいただけないでしょうか」
それは、ただ助けを乞うのではない。自らも、最大限のリスクを負い、その上で、対等なパートナーとしての協力を求める、俺らしい交渉だった。
議長であるエララは、しばらく、その古木の如き顔で、黙考していた。やがて、その重い口を開いた。
「……よかろう。ライラよ、彼らを、世界樹の最上階、『月の書架』へ案内しなさい。そこに、我ら一族が、数千年かけて集めた、浄化に関する、全ての知識が眠っている」
その言葉に、アリオンですら、驚愕の表情を浮かべた。『月の書架』。それは、エルフの長老たちですら、特別な儀式の際にしか立ち入ることが許されない、禁断の聖域だったからだ。
それは、エルフたちが、俺たちを、単なる「試練の対象」から、共に戦う可能性のある「協力者候補」として、認め始めた、確かな証だった。
俺たちのプロジェクトは、村とエルフの里、二つの拠点が、本格的に連携する、総力戦のフェーズへと、移行していくのだった。




