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日報085:守護者との共闘

 辺境に来てから第六十一日目の夕暮れ。

 『嘆きの湿地帯』の奥深く。瘴気が渦巻くその中心で、俺たちは、絶望そのものが形を成したかのような存在と、対峙していた。

 呪熊じゅゆう

 その巨体は、俺たちが森で遭遇したオーガに匹敵、いや、それ以上かもしれない。だが、その本質的な恐怖は、単なる大きさではなかった。全身の毛皮は抜け落ち、代わりに、脈打つ黒い瘴気を放つ、無数の醜悪な腫瘍に覆われている。その両目は、理性など微塵も感じさせない、ただ破壊と憎悪の炎だけで赤黒く燃え上がっていた。ズシン、と一歩踏み出すたびに、大地が揺れ、周囲の歪んだ木々から、黒い雫が滴り落ちる。


 その圧倒的な威圧感と、周囲に撒き散らされる濃密な瘴気に、俺たちのタスクフォースは、完全に動きを封じられていた。

「……なんという、邪気……。これでは、近づくことすら……」

 王国騎士として、数多の魔物と対峙してきたであろうセシリアですら、その顔から血の気を失わせ、無意識に後ずさりそうになるのを、必死で堪えている。

「……ダメだ。森が、泣いている。この生き物は、もう、森の一部じゃない。森を喰らう、病そのものだ」

 ミオは、斥候としての冷静さを失い、森の民としての本能的な恐怖と哀しみで、その銀色の毛を逆立てていた。


 俺の脳内で、【危機管理EX】が、これまでにないほどけたたましい警報を鳴らし続けていた。

【警告。対象の脅威レベル、オーガを大幅に超過。物理的戦闘能力、ランクA++。特殊能力:広範囲・精神汚染瘴気。直接戦闘における、現メンバーでの生存確率、15%以下。瘴気への五分以上の暴露で、精神及び肉体に、不可逆的な汚染が進行する可能性、90%以上】

 絶望的な戦力差。あらゆるデータが、即時撤退こそが唯一の生存ルートだと、告げていた。


「撤退すべきです! シンイチ殿!」

 森の番人であるライラが、その美しい顔を、焦りと恐怖に歪ませて叫んだ。

「アレは、我々だけでどうにかなる相手ではない! 今すぐに、この場を離れなければ、全員、森の糧となる!」


 だが、その絶望的な状況の中で、ただ一体、退かない者がいた。

 ゴーレム。

 彼は、俺たちのことなど意に介さず、ただ、自らが咲かせた、あの奇跡のような白い花々を守るため、ゆっくりと、しかし、確固たる意志で、呪熊の前に立ちはだかっていた。その土塊の背中は、あまりにも無防備で、しかし、何者にも屈しない、絶対的な守護の意志に満ちていた。


 その姿を見て、俺は、脳内で鳴り響く警報を、自らの意志で捻じ伏せた。

(……撤退すれば、生き残れる確率は高い。だが、それでは、何も得られない。あのゴーレムを見捨てることになり、ひいては、エルフからの信頼も、完全に失う。そして何より……俺の部下なかまになるかもしれない存在を、見殺しにすることなど、総務部長として、断じて許されることではない!)

 俺は、賭けに出ることを決意した。


「撤退はしない! 全員、俺の指示に従え!」

 俺の、普段の穏やかな口調とは違う、有無を言わさぬ指揮官としての声が、湿地帯に響き渡った。

 驚き、戸惑う仲間たち。だが、彼女たちは、俺のその声に、ただならぬ覚悟を感じ取ったのだろう。その視線が、一斉に俺へと集中する。


「この戦いの目的は、敵の討伐ではない! ゴーレムの能力を最大限に活用し、安全に『サンプル』を採取するための、時間稼ぎだ! それが、この試練を乗り越える、唯一の道だ!」

 俺は、即座に、この絶望的な戦場を、一つのプロジェクトとして再定義し、各員に、その役割を明確に、そして力強く、命じた。


「ゴーレムが、俺たちの【タンク】だ! 彼が、呪熊の攻撃を受け止め、前線を維持する! セシリア、ライラ! 二人は【攻撃手アタッカー】! セシリアは近接戦闘で呪熊の関節部を狙い、動きを阻害しろ! ライラは後方から、弱点である目や、瘴気を放出する腫瘍を、浄化の矢で精密射撃!」

「ミオ! 君は【遊撃手デコイ】だ! その俊足で呪熊の注意を引きつけ、攻撃を誘発させろ! セシリアとライラのための、決定的な隙を作り出すんだ!」

「セラフィナ! 君は【支援魔導士サポート】! 攻撃魔法は禁止だ! 地面を泥濘化させ、蔦を絡ませ、ありとあらゆる手段で、呪熊の動きを封じることに、徹してくれ!」

「作戦開始!」


「「「はいッッッ!!!」」」


 俺の号令と共に、新生タスクフォースの、最初の、そして、あまりにも過酷な戦いが始まった。

「グルオオオオオオッ!」

 呪熊が、その巨体に似合わぬ俊敏さで、まず、目の前のゴーレムへと、その禍々しい爪を振り下ろす。

 ゴウッ、と、空気を切り裂く音。

 だが、ゴーレムは、それを避けない。ゴガンッ!という、岩が砕けるような鈍い音と共に、その攻撃を、自らの土塊の体で、受け止めた。その肩の一部が、ごっそりと抉り取られるが、彼は、一歩も退かない。


「今だ!」

 その隙を突き、ミオが、矢のように飛び出した。彼女は、呪熊の足元を駆け抜け、そのアキレス腱に、クナイで、一瞬だけ切りつける。ダメージは、ほとんどない。だが、その挑発は、呪熊の憎悪を、完全に彼女へと向けさせた。

「こっちだ、化け物!」


 呪熊が、ミオへと向き直った、その瞬間。

「――そこです!」

 セシリアが、その巨体の死角へと滑り込み、聖なる光を纏わせた愛剣で、呪熊の膝の関節を、渾身の力で突き刺した。

 同時に、ヒュン、と、緑の軌跡を描いて、ライラの放った浄化の矢が、呪熊の肩にある、最も大きな腫瘍を、正確に射抜く。

 ジュウウウッ!と、聖なる魔力が、邪悪な瘴気を焼き、おぞましい悪臭が、あたりに立ち込めた。


「ギイイイイイアアアアアッ!」

 初めて、有効なダメージを受けた呪熊が、苦痛と怒りに満ちた咆哮を上げる。

「シンイチ様! 地面を!」

 セラフィナが叫ぶ。彼女は、すでに詠唱を完了させていた。呪熊が、次なる攻撃に移ろうと踏み込んだ足元の地面が、一瞬で、腰まで浸かるほどの、底なしの沼地へと変わる。


 完璧な連携だった。

 だが、相手は、この湿地帯の主。

 呪熊は、その有り余る力で、沼地から、強引にその足を引き抜くと、その憎悪を、最も素早く動き回る、ミオへと集中させた。

 ズシン、ズシン、と大地を揺らし、ミオを追う。ミオは、その驚異的な身のこなしで、攻撃をかわし続けるが、その顔には、次第に疲労の色が濃くなっていく。

 そして、ついに、その瞬間が訪れた。

 木の根に、わずかに足を取られたミオ。その、コンマ数秒の隙を、呪熊は見逃さなかった。

「しまっ……!」

 薙ぎ払われた、巨大な爪。それは、もはや回避不能だった。


 俺は、後方で、戦いの全てを、その目に焼き付けていた。そして、ミオが、絶体絶命の危機に陥ったのを、見ていた。

(間に合わない……!)

 セシリアも、ライラも、まだ距離がある。


 だが、その、誰もが絶望した瞬間。

 ゴゴゴゴゴ……!

 それまで、受けに徹していたゴーレムが、動いた。

 彼は、自らの体を盾にするように、ミオの前に立ちはだかり、呪熊の、その必殺の一撃を、その身に受けた。

 ゴシャアアッ!と、肉を抉るような、おぞましい音。ゴーレムの胸部が、大きく抉り取られ、その巨体が、ぐらりと揺れる。


「……ミオ! 大丈夫か!」

 俺が叫ぶ。

「……ああ。なんとか……。でも、腕が……!」

 ミオは、ゴーレムのおかげで、直撃は免れたものの、その爪の先端が、彼女の腕を、浅く切り裂いていた。

 そして、その傷口から、黒い瘴気が、まるで生き物のように、彼女の体内に侵食していくのが見えた。

「ぐっ……! あ……!」

 ミオが、瘴気による激痛に、その場に膝をつく。


 呪熊が、動けなくなったミオに、とどめを刺そうと、その巨大な爪を、再び振り上げた。

 その時だった。

 傷つき、半壊したゴーレムが、信じられない行動に出た。

 彼は、その泥と蔦でできた腕から、一本の、細く、しなやかな蔓を伸ばし、ミオの傷口に、そっと触れたのだ。

 すると、その蔓の先端に、蕾だった白い花が、ふわり、と咲いた。

 花が、淡い、慈愛に満ちた光を放つ。

 その光に照らされ、ミオの傷口を蝕んでいた黒い瘴気が、まるで朝霧が晴れるように、見る見るうちに浄化されていく。


「……ありえない。あれは、ただのゴーレムではない。……森の、『守護者』……」

 ライラが、その奇跡的な光景に、畏敬の念を込めて、呟いた。


 ゴーレムが、自らの身を犠牲にして、仲間を救い、そして、決定的な隙を作ってくれた。

 俺は、この千載一遇の好機を、見逃さなかった。

「セラフィナ、今だ! サンプルを!」


 俺の号令に、セラフィナが、はっと我に返る。

「はいっ!」

 彼女は、詠唱していた魔法を、即座に発動させた。それは、攻撃魔法ではない。ゴーレムの、抉り取られた体の一部、瘴気を浄化した後の、聖なる泥を、魔法の力で、安全に、そして、優しくすくい上げ、特殊な水晶の容器に、封印するための、高度な支援魔法だった。


「目的は達成した! 全員、撤退する!」

 俺の号令一下、一行は、ゴーレムに後を託し、森の奥へと、一斉に離脱を開始した。

 去り際に、俺が見たのは、傷つき、半壊しながらも、なお、一人で、呪熊と対峙し続ける、孤独な守護者の、あまりにも、雄々しい後ろ姿だった。


 安全な場所まで退避した後、俺たちは、言葉もなく、今、起きた奇跡について、思いを巡らせていた。

 俺は、セラフィナが採取した、温かい光を放つ、聖なる泥のサンプルを、固く握りしめた。

(……必ず、あの沼を浄化する。そして、彼を、あの孤独な戦いから、解放してやる)


 ゴーレムとの、言葉を交わさない、しかし、血よりも濃い、確かな絆が生まれた瞬間だった。

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