日報084:嘆きの湿地帯と最初の接触
辺境に来てから第六十一日目の朝。
俺たち「対呪詛汚染タスクフォース」は、リズに見送られ、エルフの里を出発した。世界樹の根元に広がる里の、神聖なまでの静けさと、清浄な空気を背に、俺たちは森の番人ライラの先導で、これまで足を踏み入れたことのない、森の最深部へと向かっていた。目指すは、エルフの民が五百年もの間、手をこまねいてきた絶望の地、『呪われた沼』である。
ライラが導く道は、もはや道と呼べるものではなかった。彼女は、木々の幹に現れる微かな紋様や、風が運ぶ匂いの変化だけを頼りに、獣道すらない原生林の中を、音もなく進んでいく。その姿は、森と一体化した精霊そのものだった。
数時間も進んだだろうか。森の雰囲気が、明らかに一変した。
世界樹の周辺を満たしていた、神聖なまでの生命の気配が、嘘のように消え失せ、代わりに、空気が、まるで鉛を溶かし込んだかのように、重く、淀み始めたのだ。木々は、その幹を苦痛に悶えるようにねじ曲げ、葉は健康的な緑色を失い、病的な斑点に覆われている。地面を覆う苔は、黒く変色し、踏みしめるたびに、じゅ、と不快な水分が滲み出した。鼻をつくのは、腐臭。生命が、その本来の姿を失い、ゆっくりと腐敗していく、死の匂いだった。
「……ここから先が、『嘆きの湿地帯』。呪われた沼から溢れ出した瘴気が、森を蝕んでいる領域です」
ライラが、その美しい顔を、深い悲しみと嫌悪に歪ませながら、静かに告げた。
「この森の生命は、もはや、あなた方が知るものとは違う。その理性を失い、ただ、呪いのままに、破壊と汚染を撒き散らすだけの、哀れな怪物へと成り果てています」
彼女は、その言葉を証明するかのように、道端に咲く一輪の薔薇を指差した。その花は、血のように禍々しい赤色をしており、その花弁の縁からは、粘着質の毒の雫が、ぽたり、ぽたりと滴り落ちている。
「シンイチ様、あれを!」
セラフィナが、声を上げた。その視線の先では、一匹のリスが、木の幹を駆け下りていた。だが、その動きは常軌を逸している。毛皮は抜け落ち、皮膚は爛れ、その目は、血のように赤く輝いていた。その口からは、絶えず、黒い瘴気が漏れ出している。
「……間違いない。瘴気に含まれる『反生命』の魔力が、生物の魔力回路を侵食し、凶暴化させているんだ」
ミオが、斥候としての鋭い目で、そのリスの動きを追いながら、分析する。
(……これが、呪いの実態か。物理的な脅威だけではない。精神的な、そして存在そのものを捻じ曲げる、悪質なウイルスのようなものだ)
俺は、このプロジェクトの本当の困難さを、改めて肌で感じていた。
さらに湿地帯の奥深くへと進んだ、その時だった。
「――来る!」
先行していたミオが、鋭く、短い警告を発した。
茂みが、ガサガサと激しく揺れる。次の瞬間、その中から、涎を垂らし、血走った目をした、五頭の狼が飛び出してきた。沼沢狼。ライラが、そう呟いた。
その体は、一部の皮が剥がれ落ち、骨が剥き出しになっている。全身からは、耐えがたい腐臭と共に、黒い瘴気が、陽炎のように立ち上っていた。
「グルルルルアアアアッ!」
知性の欠片もない、ただ、飢えと憎悪に満ちた咆哮。
五頭の沼沢狼は、常軌を逸した速度で、一直線に俺たちへと襲いかかってきた。
「セシリア!」
「心得ています!」
俺の指示を待つまでもなく、セシリアが、その身を翻し、俺たちの前に立ちはだかった。彼女の手には、エルフの里に入る前に預けたはずの愛剣が、いつの間にか握られている。ライラが、その権限で、一時的に返却してくれたのだろう。
同時に、ライラもまた、背にした白木の弓を、流れるような動作で構えていた。
人間と、エルフ。二人の、最高峰の戦士による、初めての共闘だった。
一頭が、セシリアに飛びかかる。その爪は、鉄をも引き裂くであろう、禍々しい輝きを放っていた。だが、セシリアは、その攻撃を、最小限の動きでいなすと、カウンターで、その懐へと踏み込む。白銀の剣閃が、一筋、闇を切り裂いた。
悲鳴を上げる間もなく、狼の胴体が、綺麗に二つに分かれ、地面に落ちる。
その隙を突き、別の二頭が、左右から、ライラへと襲いかかった。
だが、ライラは、その視線を、目の前の狼たちではなく、後方の、木の陰に潜む、別の狼へと向けていた。
ヒュン、と、風切り音もなく、緑色に輝く水晶の矢が放たれる。その矢は、不可視の軌道を描き、木の陰に潜んでいた狼の、眉間を正確に射抜いた。
そして、ライラは、そのまま流れるように、二本目の矢をつがえ、振り返りざまに、左右の狼の心臓を、寸分の狂いもなく、同時に貫いたのだ。
その、あまりにも神がかった弓技。ミオですら、息を呑んでいた。
残る二頭が、仲間たちの死に怯むことなく、さらに凶暴性を増して、セシリアへと襲いかかる。
だが、その瞬間、セシリアの体が、淡い光を放った。
「――聖なる守護よ!」
彼女が持つ、騎士のスキル。聖属性の魔力が、彼女の剣に宿り、その刃は、浄化の光を纏う。
光の剣は、汚染された狼たちの、邪悪な瘴気を、まるで闇を払う太陽のように、霧散させながら、その首を、たやすく刎ね飛ばした。
戦闘は、わずか数十秒で終わった。
だが、本当の脅威は、ここからだった。
倒された狼の死骸から、これまでとは比べ物にならないほど、濃縮された黒い瘴気が、ブシュウッ!と音を立てて噴き出したのだ。
「しまっ……!」
その瘴気に触れた地面が、ジリジリと音を立てて黒く変色し、そこに生えていた草花が、瞬時に、灰となって崩れ落ちていく。
「シンイチ様! これを!」
セラフィナが、その瘴気から、貴重なサンプルを採取しようと、ガラスの小瓶を手に、駆け寄ろうとする。
「下がるんだ、セラフィナ!」
セシリアが、その腕を掴み、すんでのところで引き戻した。
「……汚染された生物は、その体液や死骸すらもが、致命的な脅威となる。迂闊に近づけば、あなたも汚染されるわ」
その言葉に、セラフィナは、悔しそうに唇を噛んだ。
俺は、この戦いを冷静に分析していた。
(……汚染地域での直接戦闘は、リスクが高すぎる。我々の目的は、あくまで『ゴーレム』の捜索と、サンプルの採取だ。全ての敵を排除することではない)
俺は、仲間たちに向き直り、今後の行動方針を、改めて、徹底させた。
「皆、聞いてくれ。これより先、戦闘は、可能な限り回避する。ミオの斥候能力を最大限に活かし、敵との接触を避ける。やむを得ず戦闘になった場合も、深追いはせず、速やかに離脱する。我々の目的を、忘れるな」
俺の言葉に、全員が、引き締まった表情で、頷いた。
慎重に、慎重に、湿地帯の奥深くへと進んだ俺たちは、やがて、信じられない光景を、目の当たりにした。
瘴気が、比較的薄い、不思議な一角。
その場所の中央に、俺たちの目標である『土塊の人形』が、静かに座っていたのだ。
それは、泥や、苔、そして、蔦が絡み合ってできた、身長2メートルほどの、素朴で、どこか、哀愁を漂わせる、人型の存在だった。
そして、そのゴーレムの周囲には、この、死にゆく湿地帯では、ありえないはずの、清浄な白い花が、まるで奇跡のように、健気に咲き誇っていたのだ。
俺たちが、警戒しながら、ゆっくりと近づいても、ゴーレムは、敵意を見せない。ただ、その、顔ともいえない、のっぺりとした頭部を、こちらに向け、じっと、俺たちを観察しているかのようだった。
その時、セラフィナが、震える声で、呟いた。
「……シンイチ様。……解析、します」
彼女は、ゴーレムに、そっと手をかざし、【解析魔法】を発動させた。その瞳に、膨大な情報が、流れ込んでいく。
そして、彼女は、信じられないといった顔で、絶叫した。
「……嘘……。ありえません……!」
「どうした、セラフィナ!」
「シンイチ様! 分かりました! このゴーレムは、呪いの魔力を、弾いているんじゃありません!……喰らっているんです! この湿地帯に満ちる『反生命』の瘴気を、自らの体内に取り込み、それを、完全に無害な、純粋な『生命力』へと、変換しているんです! そして、その生命力を使って、あの花を、咲かせているんです!」
その、あまりにも衝撃的な報告に、俺たちは、全員、言葉を失った。
呪いを喰らい、生命へと変える。そんな、神のような存在が、この、絶望の地に、静かに座っていたというのか。
まさに、その時だった。
ズウウウウウウン……!
大地が、揺れた。
湿地帯の、さらに奥の木々が、なぎ倒され、この地域の主ともいえる、ひときわ巨大な、汚染された熊――呪熊が、そのおぞましい姿を、現したのだ。
その体は、通常の熊の三倍はあろうかという巨体。全身の毛皮は抜け落ち、代わりに、黒い瘴気を放つ、無数の腫瘍に覆われている。その両目は、憎悪の炎で、赤黒く燃え上がっていた。
「グルオオオオオオオオオオオオッッッ!!!」
呪熊は、俺たち侵入者と、そして、そのテリトリーで、唯一、異質な光を放つ、ゴーレムの周りの清浄な花々を、敵とみなしたのだろう。全てを破壊し尽くさんとする、破壊的な咆哮を上げた。
その咆哮に、それまで、微動だにしなかったゴーレムが、初めて、動いた。
ゴゴゴゴゴ……と、重い音を立てて、彼は、自らの周りに咲く、小さな花々を守るように、ゆっくりと立ち上がった。
そして、侵略者である呪熊と、俺たちの間に、立ちはだかったのだ。
それは、言葉を発することのない、しかし、絶対的な守護の意志。
俺たちと、謎のゴーレムによる、予期せぬ共同戦線が、今、始まろうとしていた。




