日報082:対呪詛汚染タスクフォース始動
辺境に来てから第五十九日目の夜。
世界樹の根本に位置する『謁見の間』は、月光と星の光だけを照明とし、荘厳な静寂に包まれていた。俺が、エルフたちが提示したあまりにも困難な『試練』を、一切の躊躇なく受け入れたことで、その場の空気は、新たな局面へと移行していた。強硬派の長老アリオンですら、その即答には驚きを隠せず、値踏みするような目で俺を黙って見つめている。
「……良い覚悟だ、人間よ」
議長であるエララが、静かに、しかし、どこか試すような響きを込めて言った。
「ならば、約束通り、我らが知る全ての情報を、お主たちに開示しよう。リラエル」
エララの言葉を受け、穏健派の長老リラエルが、その玉座から静かに立ち上がった。彼女が、その白く細い手を空間に滑らせると、何もない場所から、古代樹の木肌を持つ、分厚い羊皮紙の巻物が、いくつも姿を現した。
「こちらが、我らエルフが、数百年にも渡って記録し続けてきた、『呪われた沼』に関する、全ての観測記録です」
リラエルの声は、美しくも、深い哀しみを湛えていた。彼女は、その巻物の一つを広げ、俺たちの前に、その絶望の歴史を語り始めた。
「元々、あの場所は、森で最も生命力に満ちた、聖なる泉でした。世界樹の魔力が、地下水脈を通じて湧き出る、我らにとっても特別な場所……。『生命の揺り籠』と、呼ばれていたほどです」
彼女の瞳が、遠い過去を懐かしむように、細められる。
「ですが、五百年前の『大裏切り』……。人間たちが、我らの信頼を裏切り、この森に軍勢を向けた、あの忌まわしき戦いの折に、彼らは、その聖なる泉に、禁忌の呪詛魔法を放ちました。自らの敗北を悟った人間たちが、せめて我らの聖地だけでも汚してやろうと、その魂を悪魔に売り渡して放った、最後の呪いです」
その言葉に、セシリアが、騎士として、そして人間として、悔しそうに唇を噛んだ。
「その呪いは、ただの毒ではありません。生命力を喰らい、その対極にある『反生命』の魔力へと、強制的に転換させる、最も邪悪な呪いの一つ。我らが最も得意とする生命魔法や自然魔法は、あの場所では、逆に呪いの活性化を促す『餌』にしかならないのです。浄化しようとすればするほど、沼は、その汚染を広げていきました」
リラエルは、別の巻物を広げた。そこには、おぞましい魔物の姿が、写実的に描かれている。
「そして、沼は、自ら歪んだ生命を生み出し始めました。沼の泥から生まれる、知性のない魔物たち。そして、沼から立ち上る瘴気に触れた、森の動植物は、その生態系を捻じ曲げられ、凶暴な怪物へと変貌するのです」
その説明に、ミオは、森の民として、本能的な嫌悪感に顔を青くさせていた。
「我らも、これまで幾度となく、浄化を試みました。ですが、全て失敗に終わっています。これが、その記録です」
差し出された羊皮紙には、過去の浄化作戦に参加した、エルフの魔導士たちの名前と、その結末が、淡々と記されていた。「精神汚染により発狂」「魔力暴走により消滅」……その、あまりにも凄惨な記録に、セラフィナですら、ごくりと喉を鳴らした。
「……なんて、おぞましい呪い……。ですが……反生命の魔力ですって!? なんて興味深い研究対象なんでしょう!」
絶望的な情報の中で、一人、セラフィナだけが、魔導士としての純粋な好奇心に、その目を輝かせている。その、あまりにも場違いな反応に、長老アリオンの眉が、ぴくりと動いた。
謁見を終え、一行は、ライラに案内された客舎で、緊急の作戦会議を開いていた。客舎といっても、それは世界樹の太い枝の上に作られた、美しいテラスのような空間だった。眼下には、ランタンのように光る花々に照らされた、幻想的なエルフの里の夜景が広がっている。
だが、その美しさとは裏腹に、俺たちの間の空気は、重く、張り詰めていた。
「……慎一様。これは、我々だけで解決できる問題とは思えません。あまりに、危険すぎます」
セシリアが、厳しい表情で進言した。
「ええ、その通りです。ですが、慎一様」セラフィナが、興奮を隠しきれないといった様子で、身を乗り出した。「あの呪いは、確かに邪悪です。ですが、その構造は、非常に論理的で、美しい数式に基づいています。もし、あの呪いの中核を成す『反転術式』を解明できれば、これは、魔法学における、歴史的な大発見になりますよ!」
絶望と、希望。二つの極端な意見が、俺の目の前で交錯する。
俺は、彼女たちの言葉を、静かに頷いて受け止めると、宣言した。
「この試練、一つの巨大な『プロジェクト』と位置づける。そして、これより、それに挑むための専門チーム「対呪詛汚染タスクフォース」の結成を宣言する」
俺は、各員に、その役割を明確に割り振った。
「まず、このプロジェクトのリーダー、いわばプロジェクトマネージャーは、俺が務める。全体の情報分析、戦略立案、最終的な意思決定を行う」
俺は、次に、目を輝かせているセラフィナを見た。
「セラフィナ。君は、このプロジェクトの心臓部だ。『魔法科学分析官』として、エルフから提供された、この膨大なデータを元に、呪いの魔法的な性質を、完全に解析してほしい。君の研究開発部門の責任者だ」
「はいっ! お任せください!」
「次に、セシリア」
「はっ!」
「君は、『現地調査部隊・隊長』だ。実際に、沼へ向かう際の、安全確保と、作戦行動の全てを指揮してもらう。君の冷静な判断力が、我々全員の生命線になる」
「承知いたしました」
「ミオ」
「うん!」
「君は、『先行偵察・ナビゲーター』だ。呪われた沼周辺の、安全なルートの確保と、汚染された魔物の生態調査を担当してもらう。君の森の知識と、斥候としての能力が、このプロジェクトの成否を分ける」
「分かった。任せて!」
「そして、リズ」
俺が、その名を呼ぶと、リズは、こてんと首を傾げた。
「君は、我々の、最終切り札、いわばジョーカーだ。君の持つ『原初の光』の魔力は、おそらく、あの『反生命』の呪いに対する、唯一のカウンターとなりうるだろう。だが、君の安全が、何よりも最優先だ。俺の許可なく、絶対に、その力を使ってはならない。いいね?」
「うん、分かった!」
俺の、その役割分担に、セシリアが、なおも懸念を口にした。
「ですが、慎一様。この問題は、マリー殿の薬学の知識が不可欠かと。一度、村へ連絡員を送るべきでは?」
「その通りだな」俺は、彼女の進言に頷いた。「だが、マリーを今、この危険な場所に呼ぶのは得策ではない。彼女には、村にある最高の錬金設備を使って、我々が送るサンプルを分析してもらう方が、遥かに効率的だ」
俺は、自らの計画の全貌を語った。
「我々『現地調査チーム』と、村の『後方支援・研究チーム(マリー、フィリアたち)』。二つのチームが、連携して、このプロジェクトに当たる。そして、その二つのチームを繋ぐ、高速連絡網となるのが……」
俺は、ミオに向き直った。
「ミオ、君だ。君と、君の仲間である銀狼族には、我々と村との間の、メッセンジャーとしての役割も担ってもらいたい。頼めるか?」
「……! 分かった。シンイチの頼みなら、一族も協力してくれる。兄貴に、すぐに話を通すよ」
ミオは、その重要な役割を理解し、力強く快諾してくれた。
翌、第六十日目の朝。
俺たちが、エルフから借りた膨大な資料の分析を始めようとしていると、森の番人ライラが訪ねてきた。
「長老エララ様からの伝言です。『お主らの覚悟が本物か、この目で見届けさせてもらう』と」
ライラは、今回の試練が完了するまで、長老会の代理として、一行の専属の連絡役兼、案内人を務めることを告げた。彼女は、エルフの里の、禁断の書庫への立ち入りすら許可し、沼に関する情報収集を、全面的にサポートしてくれるという。
敵意を向けていた森の番人が、心強い協力者(監視役でもあるが)となったことに、俺たちは驚きつつも安堵した。
ライラは、一枚の古びた地図を広げた。そこには、赤黒く塗りつぶされた「呪われた沼」の位置と、これまでの調査で判明した危険地帯が、詳細に記されていた。
俺は、その地図を見下ろし、結成されたばかりのタスクフォースのメンバーに向かって、最初の指示を出した。
「よし、皆。プロジェクトを開始する。まずは、この膨大な情報の中から、敵の『弱点』を洗い出すぞ」
俺の総務部長としての情報分析能力と、仲間たちの専門知識。そして、エルフの数百年にも及ぶ叡智。
それら全てを結集させた、壮大なプロジェクトが、今、まさに始動したのだった。




