日報080:客人の東屋と長老たちの評議
辺境に来てから第五十九日目の午後。
俺たちが光の橋を渡り終えたのを確認すると、それはまるで役目を終えたかのように、音もなく光の粒子となって霧散した。
退路は断たれた。俺たちは今、完全にエルフの領域に、良くも悪くも取り残された形となる。目の前の森は、先ほどまでいた森とは明らかに違う、静かで、しかし圧倒的な生命の気配に満ちていた。
一行が案内された『客人の東屋』は、もはや人間の建築様式を遥かに超越した、芸術そのものだった。
建物というよりは、天を突くほどの巨大な古木、その根本の空間を利用して作られた、自然と一体化した聖域。銀色に輝く樹皮を持つ木々の枝が、人の手による加工の跡を一切見せず、しかし完璧なドーム状に優雅に絡み合い、天井を形成している。床には柔らかな苔が、まるで最高級の絨毯のように、足音を吸収しながらどこまでも敷き詰められていた。
壁や柱として機能しているのは、同じく生きた木々の幹であり、その表面には、生きている蔦や、自ら淡い光を放つ神秘的な花々が、計算され尽くしたかのように、装飾として絡みついていた。釘や金具の跡は一切見当たらない。全てが、成長と調和によってのみ形作られている。
東屋の中央からは、清らかな泉がこんこんと湧き出ており、その水面は周囲の光る花々の光を反射して、ドーム状の天井に美しい光の揺らめきを描いていた。空気は、どこまでも澄み渡り、濃密な魔力と、古代の森だけが持つ、甘く静かな植物の香りに満ちている。それは、ただ空気が綺麗という次元ではない。呼吸をするだけで、魂が浄化されていくような、神聖な感覚だった。
その、あまりにも神聖で、清浄な空間。俺たちは、しばし言葉を失い、立ち尽くした。
「すごい……! すごいですよ、シンイチ様!」
最初に沈黙を破ったのは、セラフィナだった。彼女は、魔導士として、この空間の異質さを誰よりも敏感に感じ取っているのだろう。その大きな瞳は、好奇心で爛々と輝いていた。
「空気中の魔力濃度が、王都の王立魔術院の聖域よりも、遥かに濃密です! それに、この柱……生きてます! 建築物そのものに、高度な生命維持と結界の魔法が付与されているなんて……! しかも、術式が見当たりません。これは、術者が魔法をかけたのではなく、この木々自体が、長い年月をかけて、魔法そのものに進化したとしか……! 理論上は可能ですが、実在したなんて!」
彼女は、興奮のあまり、光る苔のサンプルを採取しようとして、セシリアに「セラフィナ殿、触らないで! 我々は客人ですよ! この森の全てが、我々を試していると考えてください!」と、鋭く制止されていた。
「……空気が違う。私たちの森とは、格が違う」
森の民であるミオでさえ、その神聖な雰囲気に圧倒され、畏敬の念を込めて呟いた。彼女は、銀狼族の鋭い嗅覚で、この森に満ちる無数の生命の気配を感じ取っているのだろう。だが、それは彼女が知る、弱肉強食の野生の匂いではなかった。全てが、一つの巨大な調和の中に存在する、気高い生命の匂いだった。
セシリアは、その美しさに感嘆しつつも、騎士としての警戒を解いてはいない。彼女は、この東屋が、森のあらゆる場所から見通せる、完璧な監視所でもあることを見抜いていた。その視線は、常にリズを守るように、周囲の森の暗がりへと向けられている。
(……美しい。だが、ここは敵地だ。身を隠す場所が、どこにもない。我々は、完全に彼らの掌の上だ)
その中で、リズだけが、この不思議な空間を心から楽しんでいた。彼女が、泉のほとりに咲く鈴蘭のような花に近づくと、その花は、まるで応えるかのように、チリン、と澄んだ音色を奏でた。
「わあ! 歌ってる!」
リズが嬉しそうに声を上げると、周囲の他の花々も、次々と共鳴するように、美しい音色を奏で始めた。それは、まるで森が、彼女のその純粋な魂を歓迎しているかのようだった。
その頃。エルフの里の最深部。
世界樹とも呼ばれる巨大な樹の内部にくり抜かれた、荘厳な議場では、森の番人であるライラの報告が、静かに響き渡っていた。議場は、壁も、床も、天井も、全てが世界樹の生きた木そのものであり、木々の間から差し込む木漏れ日が、自然のステンドグラスのように、空間を彩っている。
彼女の前には、生きる伝説ともいえる、三人のエルフの長老が座していた。数百、あるいは千年の時をその身に刻んだ、賢者たちだ。
「……以上が、境界の川での一部始終です」
ライラの報告が終わると、議場は重い沈黙に包まれた。
沈黙を破ったのは、最も厳しい顔つきをした、武闘派の長老アリオンだった。その声は、古木の幹が軋むように、硬質で、厳格だった。
「馬鹿な! 人間など、信用に値せぬ! 数百年前の、あの忌まわしき『大裏切り』を忘れたか!奴らは、我らが差し伸べた慈悲の手を、斧で切り落としたのだぞ! あの子供とやらも、奴らが我らを欺くために用意した、新たな罠に決まっておる! 今すぐ追い返すか、あるいは森の『浄化』の対象とすべきだ!」
その強硬な意見に、穏健派である女性の長老リラエルが、静かに首を横に振った。彼女の声は、森の泉のように、どこまでも澄んでいた。
「お待ちください、アリオン。ライラの報告によれば、彼らはこれまでの人間とは違う。何より、あの子供の魔力……。『原初の光』など、もはや神話の時代の話。あれがもし本物ならば、それは、この世界の理が、静かに、しかし大きく変わりつつある前兆やもしれません。それを、我ら賢者が、ただ過去の憎しみという感情だけで無視するのは、あまりにも愚かな選択ではないでしょうか」
「ですが、リラエル様! 奴らは人間ですぞ!」
なおも食い下がるアリオンに、ライラもまた、自らの所感を述べた。
「長老方。私も、最初は彼らを警戒しておりました。ですが、彼らのリーダーである男は、我らを敬い、ただ知恵を借りたいと、深々と頭を下げました。そして何より、あの子供を守る仲間たちの姿に、嘘や偽りは感じられませんでした。彼らは、あの子供を、道具としてではなく、大切な『家族』として、命を懸けて守っている。それは、私の魂が、保証いたします」
その言葉に、議場は再び沈黙した。
最後に、議長である、最も年嵩の長老エララが、その重い口を開いた。その声は、風が木々の葉を揺らす音のように、静かで、しかし、森の全てを支配する威厳に満ちていた。
「……確かめねばなるまい」
「彼らが、本当に森の友となりうるのか、それとも、新たな災いとなるのか。……その目で、直接。ライラよ、人間たちを、大樹の麓にある『謁見の間』へ通し なさい」
日が傾き、東屋を照らす光が、オレンジ色から深い紫へと変わっていく。
何時間も待ち続け、俺たちの間にも、さすがに緊張と疲労の色が漂い始めた、その時だった。
ライラが、現れた時と全く同じように、音もなく、俺たちの前に姿を現した。
彼女の表情は、相変わらず硬い。だが、その瞳の奥には、以前の絶対的な拒絶ではなく、戸惑いと、強い興味の色が浮かんでいた。
「……長老たちの評議が、終わりました」
ライラは、静かに告げる。俺たちは、固唾をのんで、その次の言葉を待った。
「長老方は、あなた方と、直接、言葉を交わすことをお望みです」
それは、俺たちが勝ち取った、次なるステージへの招待状だった。
だが、とライラは続けた。
「ただし、これより先は、我らの聖域。武器の携行は、一切認めません。代表者であるあなたの護衛、その騎士の剣も、ここで預かります」
「なっ……!?」セシリアが、即座に反発の声を上げた。「慎一様の護衛である私が、剣を手放すことなど、決して……! それは、私の騎士としての誇りが許しません!」
「セシリア」
俺は、彼女の言葉を、静かに制した。
「分かりました。番人殿。それが、あなた方の流儀なのだろう。我々は、その流儀に従おう」
「ですが、慎一様!」
「大丈夫だ」俺は、セシリアの、不安げな瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。「俺が信じているのは、君の剣ではない。君自身だ。剣があろうがなかろうが、君が、俺の最高の護衛であることに、変わりはない」
俺の、その絶対的な信頼の目に、セシリアは、悔しそうに唇を噛み、しかし、やがて納得して、自らの愛剣を、静かに解いた。ライラは、その剣を、恭しく預かった。
「……では、こちらへ」
ライラの先導で、俺たちは、ついに賢者の森の奥深く、数百年もの間、人間が足を踏み入れたことのなかった、伝説のエルフの里へと、歩みを進める。
東屋の奥の木々が、再び、音もなく道を開く。その先には、淡い光を放つ苔に照らされた、幻想的な小道が、どこまでも続いていた。
#あとがき
更新頻度が下がってしまってすみませんでした!
最近仕事が忙しくなってしまって書く速度が遅くなってしまっています。
連休中に書けるだけ書いていきますので、応援よろしくお願い致します!




