日報079:境界の川の対話と賢者の森の番人
辺境に来てから第五十九日目の昼過ぎ。
賢者の森の境界を流れるという『囁きの川』。その川岸で、俺たちは、圧倒的な静寂と、そして目に見えない巨大な意思の前に、立ち尽くしていた。
リズの魔力の余波で、七色に輝いていた川面は、すでにその光を失い、元の水晶のような透明度に戻っている。だが、対岸の森から放たれる、張り詰めたような警戒の気配は、少しも和らいではいなかった。
(……動くな)
俺は、仲間たちに目で合図を送った。ここで下手に動けば、相手の混乱を、再び純粋な敵意へと変えてしまうだろう。俺の【危機管理EX】が、今はただ「待つ」ことこそが、最善手だと告げていた。
セシリアは、俺の意図を正確に読み取り、いつでも剣を抜ける姿勢を保ちながらも、微動だにしない。ミオは、その獣人の鋭い感覚で、対岸の森に潜む、複数の気配の揺らぎを、じっと探っている。
「……シンイチ様。対岸の森の魔力が、乱れています。まるで、森そのものが、混乱しているかのようです」
セラフィナが、俺の耳元で、魔導士としての分析を囁いた。
その、誰もが息を殺す、重い沈黙を破ったのは、やはり、この場の誰よりも純粋な魂を持つ、俺たちの小さな大使だった。
リズは、対岸の森に向かって、悪意など一欠片もなく、ただ純粋な好奇心から、その小さな手を大きく振った。
「こんにちはー!」
その、あまりにも場違いで、無垢な声が、賢者の森に、こだました。
その呼びかけに応えるかのように、対岸の森の、天を突くような巨木たちが、音もなく、その枝を左右へと分け始めた。まるで、古の舞台の緞帳が上がるかのように。
そして、その奥から、一人の人影が、水面を滑るかのように、静かに姿を現した。
エルフ。
その存在は、俺が想像していたものを、遥かに超えていた。
緑を基調とした、木の葉や蔓を編み込んだかのような、流麗な装束。長く、鋭く、しかし優美な耳。その顔立ちは、人間とは違う、性別という概念すら超越したかのような、気高い美しさを湛えている。背には、まるで生きているかのような、白木の弓。その全身から放たれる雰囲気は、数百、あるいは千年という、人の及ばぬ時を生きてきた者だけが持つ、圧倒的な存在感があった。
彼(彼女)こそが、この境界を守る『森の番人』なのだろう。
番人は、俺たち大人には目もくれず、その翡翠のような、どこまでも深い瞳で、ただ一点、リズを見つめていた。そして、警戒と、それ以上に強い、純粋な好奇心を、その鈴を転がすような声に滲ませて、問いかけた。
「……人間の子よ。あなたの、その身に宿す力は、一体、何なのですか?」
その問いに、俺が答えるよりも早く、リズ本人が、ててて、と一歩前に出た。
「私、リズっていうの! あなたは? お名前はなんていうの?」
その、あまりにも無垢な問い。数百年の時を、人間への不信と共に生きてきたであろう森の番人の、その表情が、初めて、わずかに揺らいだ。
俺は、リズの後に続き、番人に向かって、これ以上ないほど丁寧に、深々と頭を下げた。
「森の番人殿。私は、この子たちの保護者をしている、佐藤慎一と申します。彼女の問いにお答えする前に、まず、あなたの問いにお答えしたい」
俺は、交渉の主導権を握るのではなく、相手に判断を委ねる戦略に出る。
「正直に申し上げます。我々にも、この子の持つ力の正体は、全く分かりません。彼女は、王都で保護した孤児です。我々は、ただ彼女の新しい家族になったに過ぎません」
俺のその言葉に、番人の眉が、わずかに動いた。
「彼女の力は、我々の理解を遥かに超えている。だからこそ、森の全てを知るという賢者である、あなた方エルフに、お知恵を拝借できないかと考え、この地を訪れたのです。この子の力が、この世界にとって、どのような意味を持つものなのかを」
そして、俺は最後の切り札を切った。
「我々が、戦う意思がないことの何よりの証拠は、この無垢で、そして我々にとって何よりも大切なこの子を、武器も持たせず、こうしてあなた方の前に、無防備に差し出しているという、この事実そのものです」
俺の、そのあまりにも誠実で、かつ全てを委ねるかのような、異質な交渉術。そして、リズという規格外の存在。
森の番人は、これまでの人間たちが決して見せなかった、その姿勢に、深く、深く混乱しているようだった。彼(彼女)が、数百年に渡って信じてきた、「人間とは、嘘と欲望に満ちた、野蛮な生き物である」という、絶対的な前提が、目の前で、音を立てて崩れ始めていたのだ。
長い、長い沈黙の後。森の番人は、ついに決断を下した。
「……あなた方の言葉を、信じることはできません。人間が、どれほど巧みに嘘を弄するか、我々は、魂に刻み込まれるほど知っている」
その声は、まだ硬い。だが、以前のような、絶対的な拒絶の色は、消えていた。
「ですが、その子供が、我らの森に害をなす存在でないことだけは、魂が理解できる。……長老たちに、このことを報告し、判断を仰がねばなりません」
番人は、背にした白木の弓から、一本の水晶の矢を取り出すと、それを、俺たちのいる川岸に向かって、静かに放った。
矢は、攻撃的な軌道ではなく、山なりに飛翔し、俺たちの足元に、すっ、と音もなく突き刺さる。
その瞬間。
矢が突き刺さった地点から、無数の光る蔓が、生き物のように伸び始め、互いに絡み合い、編み込まれ、あっという間に、対岸まで続く、一時的な魔法の橋を、架けたのだ。
「この橋を渡り、森の入り口にある『客人の東屋』にて、お待ちください。そこから先へ、一歩でも足を踏み入れれば、その時は容赦しません。……賢明なる長老たちの判断が下されるまで、静かにお待ちいただく」
それは、全面的な信頼ではない。だが、完全な拒絶でもない。
俺たちは、ついに、エルフとの対話のテーブルに着くための、最初の権利を、勝ち取ったのだ。
「感謝します、番人殿。賢者たちの判断を、静かに待たせていただこう」
俺は、その条件を謹んで受け入れた。
俺は、リズの小さな手を固く握り、セシリア、ミオ、セラフィナと共に、その光る橋へと、第一歩を踏み出す。
橋を渡るたびに、周囲の空気が、さらに澄み渡り、濃密な魔力に満ちていくのを感じた。
数百年ぶりに、人間が、エルフの聖域へと足を踏み入れた瞬間だった。
俺たちの、本当の交渉は、まだ、始まったばかりだった。




