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日報078:小さな大使と賢者の森

 辺境に来てから第五十七日目の朝。

 村の新たな日常が始まって二日が経過した。各部門は、俺が指示した通りに自律的に動き出し、村全体が、未来へ向けて力強く回転する、一つの巨大な歯車となりつつあった。だが、その歯車の回転を、さらに加速させるための、最も重要な鍵。それが、セラフィナの『熟成魔法陣』だった。


 その鍵を手に入れるための、最初の報告が、今、俺の目の前でもたらされようとしていた。

 執務室には、俺とセシリア、そして、昨夜、自らの故郷である銀狼族の集落から戻ったばかりのミオが集まっている。彼女のその蒼い瞳には、いつもの快活さではなく、困難な交渉を終えた後の、確かな疲労と、真剣な光が宿っていた。


「……シンイチ。長老たちと、話してきた」

 ミオの報告は、俺が想像していた以上に、厳しいものだった。

「長老たちが言うには、森の賢者――エルフたちは、人間を極度に嫌っている。数百年前、人間たちの裏切りによって、森の聖域を侵されて以来、彼らは人間との交流を完全に断っているそうだ」


 セシリアが、息を呑むのが分かった。数百年前の因縁。それは、一個人の交渉で覆せるほど、浅いものではない。


「私たち銀狼族とエルフの関係も、友好というよりは『相互不可侵』、森の民同士、互いの縄張りを尊重しているだけで、親密な付き合いはない。だから、長老たちは最初、私の頼みを一蹴した。『人間の争いに、我らを巻き込むな』って」

 だが、とミオは続けた。その瞳に、誇り高い光が宿る。

「だから、私も食い下がった。シンイチは、これまでの人間とは違うって。オーガを討伐して、森の秩序を守ってくれたこと。私たち銀狼族と、力ではなく、対等な盟約を結んでくれたこと。そして、村の薬が、私たちの仲間の命を救ってくれたことを」


 彼女の、その真摯な説得が、頑なだった長老たちの心を、わずかに動かしたのだろう。

「……その結果、長老たちは『一度だけ、機会を与えよう』と約束してくれた。彼らが、エルフが定めた境界線である『囁きの川』へ、私達の来訪を、一方的に通達してくれる。ただし、エルフたちが、その呼びかけに応じる保証は、一切ない。……これが、銀狼族たちにできる、精一杯だった」


 僅かな、しかし、確かな道筋。

 俺は、ミオのその働きに、心から感謝した。

「十分だ、ミオ。素晴らしい仕事だった。ありがとう」

 俺は、即座に、エルフと交渉するための使節団のメンバー選定に入った。


「――という訳で、今回の『対エルフ外交使節団』のメンバーは、俺と、セシリア、ミオ、そしてセラフィナの四名とする」

 俺のその選抜に、会議に参加していたエリナが、懸念の声を上げた。

「慎一様、お待ちください。エルフが人間を嫌っているというのであれば、それはあまりに危険な任務です。セラフィナ殿の力はまだ未知数ですし、万が一のことを考えれば、ヴァレリウス殿のような確実な戦力を…」


「その通りだ、エリナ」俺は、彼女のもっともな意見に頷いた。「だからこそ、もう一人、我々の最強の切り札に、同行してもらう」

 俺は、執務室の扉を開け、廊下でフィリアと遊んでいたリズを、中に招き入れた。

「リズ。君に、お願いがある」


「「「子供を!?」」」

 俺のその決断に、その場にいた全員が、驚愕の声を上げた。

「慎一様、正気ですか!? 危険な場所に、リズちゃんを連れて行くなど!」

 セシリアが、血相を変えて俺に詰め寄る。


 俺は、彼女たちの動揺を、手で制した。

「皆の心配は、もっともだ。だが、聞いてほしい。これこそが、俺が考えうる、唯一にして、最善の策だ」

 俺は、自らの戦略を説明した。

「エルフが我々人間を嫌うのは、過去の裏切りからくる『大人の汚さ』への不信感だ。武装した大人たちが行っても、彼らの警戒を、さらに強めるだけだろう。だが、リズは違う。彼女の持つ、この世の理を超えた、純粋で強大な魔力。それも、戦いを知らない、無垢な子供の魔力だ。これこそが、我々が武器ではなく、対話を求めていることを示す、何よりの『大使』となる。これは、賭けだ。だが、最も可能性のある賭けだと、俺は判断した」


 俺の、その常識外れの作戦。仲間たちは、その真意を理解し、驚きながらも、やがて納得したように、頷いた。

 俺は、リズの前に膝をついた。

「リズ。危険な旅になるかもしれない。だが、君の力が必要なんだ。一緒に行ってくれるか?」

「うん! 私、シンイチおじさんの役に立てるの? 嬉しい! 一緒に行く!」

 彼女は、その小さな目を輝かせ、一点の曇りもなく、その大役を引き受けてくれた。


 辺境に来てから第五十九日目の昼過ぎ。

 五名となった使節団は、銀狼族の斥候に案内され、これまで足を踏み入れたことのない、森の最深部へと向かっていた。そこは、空気が澄み、樹齢千年を超えるであろう巨木が、天を覆い、木々の幹や地面の苔が、魔力を帯びて淡く光る、神秘的な空間だった。


 やがて一行は、水晶のように透き通った水が、囁くような音を立てて流れる、美しい川にたどり着いた。『囁きの川』だ。対岸の森は、さらに濃い緑に覆われ、まるで意思を持つかのように、俺たちの侵入を拒んでいる。

「我々が立ち入れるのは、ここまでだ」

 銀狼族の斥候は、そう告げると、森の中へと姿を消した。


 残された俺たちは、川岸でひたすら待った。

 一時間、二時間……。時は、ただ静かに流れ、対岸の森からは、何の反応もない。セラフィナが痺れを切らし、ミオが焦りを見せ始めた、その時だった。


 シュッ、という音もなく、一本の矢が、俺の足元の地面に突き刺さった。それは、金属ではなく、緑色に輝く水晶の矢じりを持つ、芸術品のように美しい矢だった。

 続いて、対岸の森の奥から、男女の区別もつかないほど、凛として透き通った声が響き渡る。

「土足で聖域に踏み入る人間よ。……銀狼の口添えがなければ、その心臓はすでに射抜かれていた。去れ」


 一方的な、拒絶の言葉。

 俺が、外交儀礼に則った挨拶を返そうと、一歩前に出ようとした、その時だった。

 リズが、その声や矢に、全く怯えることなく、川岸に駆け寄った。

「わー! キラキラの矢だ! お水も綺麗ー!」


 彼女は、無邪気に、その小さな手を、川の清流に浸した。

 その瞬間。

 リズの体から、ほんのわずかに漏れ出した、純粋な魔力の余波が、川の水に伝わり、川面全体が、淡い、七色の光を放って、輝き始めた。


 対岸の森が、ざわめく。

 それまで、一切の感情を排していたエルフの声が、初めて、動揺に震えた。

「……子供……? なんだ、この魔力は……。穢れを知らぬ、原初の光……? ありえない……」


 俺の賭けは、想像以上の形で成功した。

 我々は、エルフの、数百年にも及ぶ「拒絶」の壁を、突破し、その「興味」と「混乱」を引き出すことに、成功したのだ。

 敵意とは全く違う、未知との遭遇に、賢者の森は、静まり返っていた。

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