日報073:泥中の誓いと森の同盟者
辺境に来てから第五十三日目の昼過ぎ。
静寂が戻った谷間には、セラフィナが生み出した粘着質の沼地の中で、十数名の元騎士たちが胸まで浸かり、なすすべなく立ち尽くしていた。勝敗は、血の一滴すら流れずに決したのだ。彼らの顔には、敗北の屈辱と、自らの無力さへの絶望、そして目の前の規格外の力への畏怖が、泥と混じり合って浮かんでいた。
「さて、と」
俺は呆然とする彼らの前に一人、静かに歩み寄った。
「まずは、そこから出てもらわねば、話にならんな」
俺はセラフィナに向き直った。彼女は、自らが引き起こしたあまりにも巨大な現象に、まだ目を白黒させている。
「セラフィナ」
「は、はいっ!?」
「地面を元に戻してくれ。ただし、今度はゆっくり、慎重にだ。いいね?」
だが、その言葉に、彼女は怯えたように首を横に振った。
「で、でも……私、また失敗したら……皆さんに迷惑が……」
「失敗してもいい。俺が責任を取る」俺は、彼女の目を真っ直ぐに見て言った。「だが、これは君自身の力をコントロールするための、最初の訓練だ。やってみろ」
俺の、マネージャーとしての、しかし有無を言わさぬその言葉に、セラフィナは意を決したようにこくりと頷いた。
彼女が再び魔法を使うと、沼地はぎこちなくその姿を変え始めた。だが、やはりコントロールは完璧ではない。ある場所は急に固まってヴァレリウスの鎧をきつく締め付け、別の場所はさらに緩んでトムの足元を危うくさせた。
「そこまでだ、セラフィナ!」
俺は、彼女の魔力が暴走する前に、しかし穏やかな声で制した。
「よくやった。完璧ではないが、おかげでだいぶ足場が固まってきた。ここからは物理的にやった方が、確実で早い」
俺はそう言って、彼女の努力を認め、フォローを入れるのを忘れなかった。彼女は、自分の魔法が完全に失敗した訳ではなかったことに、少し安堵したような表情を浮かべている。
「トム、ロープを!」
トムが荷馬車から取り出したロープを使い、その手際の良さで救出作業を指揮することになった。俺たちのチームと、先に引き上げられた元騎士たちが協力して、泥まみれの仲間たちを一人ずつ引きずり出す。それは、つい先ほどまで敵同士だった者たちの、奇妙で、しかし確かな「初めての共同作業」だった。
全員が引き上げられ、動けるようになった後、俺は早速「尋問」を開始した。
「最初の仕事だ、ヴァレリウス殿。知っている情報を全て話してくれ」
ヴァレリウスは、もはや抵抗する気力もなく、全てを白状した。彼が仕えていたのはマルクス伯爵であること。伯爵が夜会をきっかけに破産し、その逆恨みから俺を襲うよう命じられたこと。俺は、彼の話から、彼らが根っからの悪党ではなく、忠誠を尽くす相手を失っただけの、誇り高い騎士であることを見抜いていた。
旅を再開する直前、俺は泥だらけの元騎士たちを整列させ、全員の前で宣言した。
「これより、君たちを『村の臨時警備隊』として、正式に我がチームに編入する」
そして、新たな指揮系統を明確にするために、セシリアとミオを前に促した。
「臨時警備隊の総監督官兼指揮官は、セシリアが務める」
セシリアは一歩前に出ると、指揮官としての威厳に満ちた声で初の号令を下した。
「私は王国騎士団第三隊所属、セシリアである。これより、貴官らの指揮を執る。私の命令は、慎一様の命令と心得よ。異論は認めない」
元騎士である彼らは、その明確な指揮系統を示されたことに、むしろ安堵したように背筋を伸ばした。
「そして、斥候および遊撃部隊のリーダーはミオだ。道中の警戒行動においては、彼女の指示に従ってもらう」
その言葉に、ヴァレリウスの副官らしき男が、不満げに口を開いた。
「……我々が、こんな獣人の小娘の指揮下に入れと?」
その侮蔑の言葉が終わるか終わらないかの、その瞬間。
ミオの姿が、男の前から消えていた。次の瞬間、男の首筋に、音もなくクナイの冷たい感触が突きつけられる。
「……もう一度言ってみろ。お前が気づく前に、その喉を掻き切ることもできるぞ」
同時に、ヒュン、と風を切る音。ミオが放った矢が、男が全く気づいていなかった、遠くの木の上に潜んでいた毒蛇の頭を、正確に射抜いていた。
「……あれも見えていなかったお前たちに、斥候の何が分かる?」
その圧倒的な実力差。元騎士たちは完全に沈黙し、ミオへの絶対的な信頼――そして恐怖が、その場に生まれた。
大所帯となった一行が、ついに森の古道へと足を踏み入れる。陽が傾き、森の中は急速に薄暗くなっていく。その瞬間、ヴァレリウスの部下の一人が、ごくりと喉を鳴らし、緊張した声で言った。
「ヴァレリウス様……。ここが、あの『人喰いオーガ』が棲むという……?」
その言葉に、他の元騎士たちの顔にも緊張が走る。彼らにとって、この森は死地そのものという認識なのだ。トムも、あの時の死闘を思い出したのか、わずかに身を震わせた。
その空気を察した俺は、穏やかな、しかし絶対的な自信に満ちた声で応えた。
「ああ、そのオーガのことか」
俺は、馬車の上から、緊張するヴァレリウスたちを見下ろした。
「心配には及ばない。そのオーガなら、俺たちが村へ帰る途中で、銀狼族と協力して討伐しておいた」
「「「なっ……!?」」」
元騎士たちは、信じられないといった顔で俺を、そしてセシリアたちを見上げた。王国騎士団の討伐隊ですら、何度も失敗したというあの森の主を、この少人数で討伐したと?
彼らの驚愕を、セシリアが静かに肯定する。
「ええ。慎一様の完璧な作戦指揮の下、我々は銀狼族と一緒に森の主を完全に討滅しました。この道は、すでに安全です」
ヴァレリウスたちは、もはや言葉もなかった。自分たちが仕えることになった新しい主人が、どれほど規格外の存在であるかを、改めてその身に刻み込まれた瞬間だった。オーガへの恐怖は、目の前の男への畏怖と、そしてかすかな信頼の念へと変わり始めていた。
だが、長年騎士として染み付いた警戒心は、そう簡単には消えない。一行が森の奥へと進むにつれ、ヴァレリウスの部下の一人が、道の脇にある巨大な爪痕を指差し、緊張した声で言った。
「待ってください! これは、ロックベアの縄張りの印では…!?」
その言葉に、元騎士たちが再び身構える。しかし、斥候として先行していたミオは、その爪痕を一瞥すると、鼻で笑った。
「ああ、ロックベアの縄張り“だった”場所だな」
彼女が顎で示した道の先には、彼らが恐れる巨大なロックベアが、喉を食い破られ、無残な骸となって転がっていた。その周りには、銀狼族のものと思しき無数の足跡が残っている。
言葉ではなく、圧倒的な事実が、彼らにこの森の新しい『支配者』が誰であるかを物語っていた。彼らは、慎一たちが築いた『安全』が、ただの言葉ではないことを、その身をもって実感していったのだ。
日が暮れ、一行が野営の準備を始めようとした、その時だった。
森の奥の暗がりで、複数の何かが、ガサリと動く音。それまで鳴いていた虫の声が、ぴたりと止んだ。
「敵襲! 荷馬車を囲め!」
ヴァレリウスが、誰よりも早く反応し、抜剣しながら叫んだ。その号令一下、泥中の屈辱が嘘のように、元騎士たちは瞬時にプロの戦闘集団へと戻り、荷馬車を囲む完璧な防御陣形を敷く。その練度は、セシリアですら感心するほどだった。
暗闇の中から、いくつもの光る眼が、こちらをうかがっている。
元騎士たちの間に、緊張が走る。
だが、その張り詰めた空気の中で、ミオだけが、やれやれと肩をすくめていた。
「……遅いぞ、兄貴」
ミオが、呆れたような声を暗闇へ投げかけると、茂みの中から、ひょっこりとガエルが姿を現した。その手には、狩ったばかりの大きな鹿が担がれている。続いて、彼の部下である銀狼族たちも、次々と姿を現した。
「すまん、すまん。歓迎の獲物を狩るのに、少し手間取ってな」
ガエルはそう言うと、ヴァレリウスたちのその完璧な陣形を見て、感心したようにグルルと喉の奥で低く鳴らした。
「……ほう。シンイチ殿は、また腕利きの人間を群れに加えたようだな」
ヴァレリウスたちは、目の前で繰り広げられる光景が信じられず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
その夜、人間と銀狼族、そして元騎士たちが、同じ焚き火を囲んでいた。
最初はぎこちなかった空気も、俺が振る舞った『森の雫』が酌み交わされるうちに、ゆっくりと和らいでいく。
焚き火から少し離れた場所で、ヴァレリウスとガエルが、リーダーとして言葉を交わしていた。
「……お主も、大変だな。多くの下を抱えるというのは」ガエルが、肉を炙りながら言った。
「ああ。だが、俺はもう迷わない」ヴァレリウスは、焚き火の炎を見つめながら答えた。「仕えるべき、本物の『主人』を、見つけたからな。……あんたたち、森の民も、彼に仕えているのか?」
「仕える、か。少し違うな」ガエルは、誇らしげに笑った。「我々は、同盟者だ。彼は、我ら銀狼族の誇りを尊重し、対等な友として、共に未来を築こうと言ってくれた。……シンイチ殿のためなら、俺たちは戦士の誇りをもって共に戦うだろう。」
その言葉に、ヴァレリウスは深く、何かを噛み締めるように頷いた。
俺は、その光景を静かに見守りながら、自らが作り出した新しいコミュニティの、確かな胎動を感じていた。




