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日報071:束の間の休息と騎士との夜

 辺境に来てから第五十日目の夕方。

 王都での全ての『投資』を終え、二台の荷馬車への荷造りも完璧に完了した俺たちは、宿屋『金獅子亭』のスイートルームに集結していた。窓の外では、王都の喧騒が夕暮れの黄金色の光に溶け始めている。


「これですべての『投資』は完了した。王都での我々の仕事は、今度こそ全て終わりだ。――さあ、俺たちの村へ帰ろう!」

 俺の宣言に、仲間たちが力強く応える。


「ですが慎一様、すでにあたりは暗くなっております」

 セシリアの冷静な指摘に、俺は頷いた。

「ああ、そうだな。今から門を出るのは危険だ。出発は明日の朝一番とする。今夜は今回の出張において王都で過ごす最後の夜だ。これより自由時間とする。ここまでの疲れを癒し、明日の長旅に備えてくれ」


 その言葉に、部屋の空気がぱっと華やいだ。特に若いメンバーは、初めて訪れた大都市での最後の夜に、目を輝かせている。


「本当ですか、慎一様!やったーー!」


「皆、よく頑張ってくれたからな。これは、俺からのささやかなボーナスだ。美味いものでも食べてくるといい」

 俺は全員に十分な額の銀貨を渡しながら、総務部長らしく付け加えるのを忘れなかった。

「ただし、面倒事は起こすなよ。明日の出発に響くような深酒も禁止だ」


「分かってるって!」ミオが、銀貨を握りしめて快活に笑った。

「肉! 王都の美味い肉が食べたい! 分厚いやつ!」


「それなら、安くてうまい店を見つけておきました!」トムが、すかさず地図を取り出して応じる。彼は、この数回の王都主張ですっかり王都の地理に詳しくなっていた。


「でしたら、その後にデザートが美味しいお店にも行きましょう! 私、パンケーキが食べたいです!」

セラフィナも、目をキラキラさせて会話に加わる。三人はあっという間に意気投合し、「じゃあ行きましょう!」「はいっ!」と、賑やかな一団となって部屋を飛び出していった。


 その喧騒の中で、セシリアは何も言わず、ただ静かに頷くと、何かを思うような少し物静かな雰囲気で、一人部屋を出ていった。彼女も、王都にいる騎士団の旧友にでも会いに行くのだろうか。


 一人、また一人と仲間たちが去っていく。やがて、部屋には俺一人だけが残された。

 静寂が戻った部屋で、俺は息をつく間もなく、すぐさま思考を切り替える。机の上には、帰還後の村の運営計画、フィリアやマリーの研究室の拡張案、そしてレオンとの契約履行に向けた生産スケジュールなど、検討すべき課題が山積みだった。俺は、羽ペンを手に取り、早速書類作成に没頭し始めた。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 窓の外はとっぷりと暮れ、部屋の中は蝋燭の光だけが揺らめいていた。凝り固まった肩を回した、その時だった。


「慎一様。今夜は自由時間なのでは?」


 凛とした、しかし、どこか柔らかな声。俺はようやくその存在に気づき、書類から目を離さずに応えた。

「ああ、セシリアか。皆と食事に行ったんじゃなかったのか?」

「……はぁ」

 彼女の、小さく、しかし明確なため息が聞こえた。俺は構わず、思考の海に再び沈み込もうとする。

「俺も腹が減ってきたな。この計画書に一区切りついたら、食事にするとしよう」


 その独り言が、引き金だった。

 ドンッ!

 彼女の手が、俺の目の前の机に、強く叩きつけられた。その音に、俺は心臓が跳ねるほど驚いた。

「慎一様!」


 我に返り、顔を上げる。そして俺は、そこで初めて彼女の姿をはっきりと認識した。

 息を、呑んだ。

 そこにいたのは、俺の知る女騎士ではなかった。


 普段の無骨な鎧は、そこにはない。代わりに彼女が身にまとっていたのは、体の線を美しく見せる、濃紺の上品なワンピース。編み上げられた髪も今は解かれ、柔らかな金色の波となって、その肩にかかっている。蝋燭の光に照らされたその姿は、夜会で見たドレス姿とは違う、もっと自然で、そして、はっとするほど女性的な魅力を放っていた。


「……セシリア……?」

 俺が呆然と彼女の名を呼ぶと、セシリアは、その美しい顔をわずかに赤らめながらも、強い意志を宿した瞳で俺を見つめ返した。

「さ、行きますよ」

 有無を言わさぬその口調で、彼女は俺の腕を取った。その華奢な見た目からは想像もつかない力で、俺を椅子から引きずり出す。

「え、あ、おい!?」

「あなたは、少し、休みすぎることを覚えるべきです」


 セシリアに半ば強引に連れてこられたのは、大通りから一本入った路地裏に、ひっそりと佇む隠れ家のような食堂だった。木の温もりを感じる店内は、静かで、品が良く、心から落ち着ける雰囲気に満ちている。


「おや、セシリアじゃないか。久しぶりだね」

 厨房から出てきた人の良さそうなマスターが、驚いたように目を丸くした。奥から顔を出した奥さんも、信じられないものを見るような顔をしている。

「まあ、セシリアちゃん! それに、なんて素敵な殿方とご一緒だなんて!」

「マスター、奥さん。ご無沙汰しています。……今夜は、静かに食事がしたくて」

「ああ、もちろんだとも。さあ、一番奥の席へ」

 彼らは、俺たちの関係を詮索することなく、温かく、そしてどこか意味ありげな笑みで、二人を迎えてくれた。


 暖かな雰囲気の店内で、素朴だが心のこもった美味しい料理に舌鼓を打ちながら、俺たちは静かに語り合った。

 やがて、セシリアは、意を決したように、自らの胸の内を語り始めた。


「……慎一様。実は、辺境の村への赴任は、当初は左遷だと感じていました」

 彼女は、テーブルの上のカップを見つめながら、ぽつり、ぽつりと、言葉を紡ぐ。

「リリィは前向きでしたが、私は……。そして、あなた様にお会いした時も、正直、戸惑いました。勇者様と伺っておりましたが、そのお姿には、王族のような権威も、伝説の英雄のような特別な力も見えなかったからです」


 彼女の正直な告白に、俺はただ黙って耳を傾けていた。


「ですが、村での生活は、私の騎士としての人生観を、全て覆すものでした。ゴブリンを退けた知恵、見たこともない蒸留器の発見、そして、あなたの知恵一つで、廃墟の村が、日に日に活気を取り戻していく様……。全てが驚きと、新しい発見の連続でした」

 彼女は、そこで顔を上げた。その深い青の瞳は、真摯な光で、真っ直ぐに俺を射抜いていた。


「王都に来てからも、そうです。あなたは、剣を振るうことなく、宰相という巨大な権力と渡り合い、レオン殿のようなしたたかな商人を屈服させた。あなたの戦い方は、私の知る、どの騎士よりも、鮮やかで、そして力強いものでした」

 彼女の頬が、わずかに赤く染まる。


「私は、あなたの傍で、これまで知らなかった世界を、たくさん見ることができました。ただ剣を振るうだけではない、知恵と交渉で、未来を切り開いていく戦いを。……私は、あなたに仕えることができて、心から誇りに思います」


 そして、彼女は、ほんの少しの勇気を振り絞るように、続けた。

「ですから……これからも、あなたの傍で、あなたの見る世界を、私も一緒に経験させてはいただけないでしょうか」


 その言葉は、もはや単なる騎士の忠誠の誓いではなかった。

 一人の女性としての、切実で、そして、温かい願い。

 俺は、その真摯な想いに、どう答えるべきか、一瞬言葉に詰まった。だが、彼女のその潤んだ瞳から、目を逸らすことはできなかった。


「……セシリア」俺は、ゆっくりと口を開いた。「俺の方こそ、礼を言わせてくれ。君がいなければ、俺は、とっくにこの世界で潰れていたはずだ。村で、俺の無茶な計画を、文句一つ言わず支えてくれたこと。王都で、俺が交渉に集中できるよう、完璧な護衛とサポートに徹してくれたこと。……俺は、君という最高のパートナーがいてくれたからこそ、ここまで来れたんだ。本当に、ありがとう」


 俺の、心からの感謝の言葉。

 セシリアの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。彼女は慌ててそれを指で拭う。


「君が、これからも俺の傍にいてくれるというのなら、それ以上に心強いことはない。パートナーとして、これからもよろしく頼む」

 俺は、村の復興も道半ばな状況である今、彼女に「伴侶」としての返事は、できなかった。だが、今の俺にできる、最大限の誠実な答えだった。


 セシリアは、その言葉の意味を、全て理解してくれたのだろう。彼女は、涙に濡れた顔で、しかし、これまでで一番美しい笑顔を浮かべた。


「はい、慎一様。……あなたの騎士として、そしてパートナーとして。いつか、それ以上の存在としてあなたの隣に立てるその日まで、私はあなたに寄り添い続けます」


 彼女はそう言うと、深く、深く頷いた。


 その二人のやり取りを、食堂のマスターと奥さんが、少し離れた場所から、温かな眼差しで見守っていた。


 宿屋に戻った後、俺は一人、ベッドの上で、今日の出来事を反芻していた。

 ワンピース姿の、見慣れない彼女の姿。

 そして、あの真っ直ぐな告白。

 俺という四十路の総務部長の、異世界での人生に、また一つ、大きくて、そして、とても温かい、新たな課題が生まれたことを感じながら、王都での最後の夜は、静かに更けていくのだった。

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