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日報059:嵐の前の静寂

 辺境に来てから三十日目の夜。

 宿場町『セブンウォール』は、街道を行き交う旅人たちの、陽気な喧騒に満ちていた。だが、俺たちの拠点である『謳う月亭』の一室は、その熱気から切り離されたかのように、静かで、しかし確かな緊張感に支配されていた。


 作戦会議は終わった。

 明日、夜が明ければ、俺たちはこの文明の光が届く最後の宿場町を後にし、再び、あの危険な森の古道へと足を踏み入れる。『森の主』オーガの討伐。それは、これまでの王都での盤上の駆け引きとは質の違う、剥き出しの生存を賭けた戦いだ。


「……では各自、明日の出発に備え、準備を怠らぬように。今夜は、ゆっくりと休んでくれ」

 俺がそう告げて会議を解散すると、仲間たちは、それぞれの思いを胸に、静かに部屋を出ていった。


 宿の中庭に面した、鍛冶場の一角。

 ハンスとゲオルグは、酒場の喧騒を避け、そこで黙々と自分たちの武器の手入れをしていた。月明かりが、ハンスのその長槍の、鋭い切っ先を、ぬらりと光らせる。


「……おい、ゲオルグ。大将の話だがな……」

 ハンスが、槍の石突きを地面に軽く打ち付けながら、相棒に話しかけた。

「ああ。オーガの討伐だとよ。……こいつは、骨が折れそうだ」

 ゲオルグは、手にした二本の手斧の刃こぼれを、指でなぞりながら答える。


「へっ。だが、面白えじゃねえか」ハンスは獰猛に笑った。「ただの護衛だと思っていたが、とんでもねえ。盗賊団の解体だの、宰相の密偵狩りだの。そして今度は、森の主の討伐だ。こんなスリルのある仕事は、傭兵やっててもそうそうお目にかかれねえ」

「違いねえ。それに、何より……」ゲオルグは、斧を研ぎ石に滑らせる。「あの大将は、俺たちの力を信じて、仕事を丸ごと任せてくれる。口出しはしねえ。だが必要な金と情報は、惜しまねえ。……これほど仕事のしやすい雇い主も、いねえだろうよ」

「ああ。あの大将のためなら、オーガの一匹や二匹、喜んで料理してやらあ」

 二人の百戦錬磨の傭兵は、静かに、しかし確かにその闘志を燃え上がらせていた。


 一方、俺たちがフィリアとリズ、そしてマリーのために用意した、一番奥の静かな部屋。

 そこでは、三人の少女たちが、それぞれの夜を過ごしていた。

 リズは、王都で買ってもらった新しい服を、何度も鏡の前で合わせながら、明日からの旅への期待に、胸を躍らせていた。彼女にとって、この旅はもはやただの移動ではない。新しい家族と共に過ごす、心躍る冒険そのものだった。


 そのリズの隣で、フィリアは、床に大きく広げた羊皮紙の設計図に、完全に没頭していた。俺が渡した、新しい蒸留器の図面だ。彼女の目は、もはや周囲の世界の全てを遮断し、その複雑で、しかし美しい線の集合体だけを捉えている。

「……この冷却管の、二重螺旋構造。……すごい。熱交換率を、極限まで高めている。……だけど、ここの圧力弁の素材。ミスリルを使う事が出来れば、もっと耐久性と精度が……」

 彼女は、誰に聞かせるともなく専門的な言葉を呟きながら、持参した木炭で、羊皮紙の余白に新たな改良案を描き込んでいく。その姿は、もはやただの少女ではない。自らの才能の全てを注ぎ込む、真の天才そのものだった。


 そして、部屋の片隅では。

 マリーが、師であるドミニクから託された大きな革の鞄を広げ、その中身を、一つ一つ丁寧に確認していた。

 色とりどりの乾燥させた薬草。様々な効能を持つポーションが詰められた、小さな小瓶の数々。

「……これは、鎮静効果のある月の雫草。……こっちは、強力な解毒作用を持つ蛇の舌。……すごい。マスターは、これだけの準備を……」

 彼女は、そのあまりにも大きな期待と責任の重さに、押しつぶされそうになりながらも、必死に顔を上げた。

(……私、やらなきゃ。慎一様や、セシリア様、皆さんの命を預かるんだから……!)

 彼女は、小さな拳をぎゅっと握りしめた。そのそばかすの散ったあどけない顔には、ドジな少女の面影はない。仲間を守るという強い決意を秘めた、一人の薬師の顔が、そこにあった。


 その夜、俺は、宿のバルコニーから、静まり返った宿場町の夜景を見下ろしていた。

 背後には、セシリアが静かに寄り添っている。

「……眠れないのか、セシリア」

「はい。……少し、興奮しているのかもしれません。明日からの戦いを前にして」

 彼女の声は穏やかだったが、その横顔には、確かな緊張が浮かんでいた。


「無理もない。相手は森の主だ。一筋縄ではいかないだろう」

「ですが、不思議と恐怖はありません」彼女は俺を見つめて言った。「あなたの計画と指揮があれば、我々は決して負けないと、信じていますから」

 その絶対的な信頼。俺は、その重みを改めて感じていた。


「……セシリア。王都では、本当に助かった。君がいなければ、夜会も、宰相との戦いも、乗り越えられなかっただろう」

「いえ……そんな……」


「君は、騎士として完璧な護衛であり、そして俺の最高のパートナーだった。……だが、同時に、君に多くの無理をさせたとも思っている。ドレスを着て、慣れない社交の場に立つことも、そうだっただろう」

 俺がそう言うと、彼女は、ふっとその表情を和らげた。


「……確かに、最初は戸惑いました。ですが、慎一様。あなたの隣で、あの華やかな世界を見た時、私は初めて、自分がただの剣を振るうだけの騎士ではない、一人の『女性』なのだと、感じることができたのです。……それは、私にとって得難い経験でした。……ありがとうございます」

 彼女は、少しだけ頬を染め、そう呟いた。その普段のクールな彼女からは想像もつかない可憐な姿に、俺は思わず言葉を失った。


「……明日の戦い。俺は後方で指揮を執る。だが、前線でオーガと対峙し、その刃を振うのは君だ。君こそが、この作戦の要であり、我々の『剣』だ。頼りにしている」

「はい。……必ず、ご期待にお応えします」

 彼女のその力強い返事に、俺は静かに頷いた。


 辺境に来てから三十一日目の朝。

 俺たち総勢八名の大キャラバンは、『謳う月亭』の亭主と従業員たちに盛大に見送られながら、宿場町を後にした。

 文明の光が届く最後の拠点を背に、俺たちは、再び、あの深く、そして危険な森の古道へと足を踏み入れた。


 街道から一歩、森に入った瞬間に周囲の空気が変わるのが分かった。

 ひんやりと湿った土の匂い。木々の葉が、風にざわめく音。そして、どこかこちらの全てを見透かすような、森そのものが持つ、圧倒的な生命の気配。

 俺たちは、緊張を高めながら、慎重に古道を進んで行った。


 そして、森の古道へ足を踏み入れてから、数時間が経過した頃。

 俺たちが、古い石造りの祠の前に、たどり着いた、その時だった。


 前方の木々の茂みから、一人の人影が、音もなく姿を現した。

 俺たちは、突然現れた何者かの陰に、臨戦態勢を取った。


 するとそこには、銀色の髪。しなやかな獣の耳と尻尾。そして、その蒼い瞳には、以前会った時よりも、さらに鋭く、そして厳しい光が宿っているミオが現れた。


「シンイチ。……待ってた」

 彼女の声は、低く、そして硬かった。

「銀狼族を、助けて欲しい」


 その一言が、これから始まる死闘の過酷さを、何よりも雄弁に物語っていた。

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