日報057:王女への『手土産』と宰相との決着
辺境に来てから二十九日目の午後。
王都の職人街の外れに位置する古いアパートメントの周辺は、表向きの喧騒とは裏腹に、水面下で静かに、そして確実に、包囲網が狭められていた。
レオンの指示で動く白帆商会の精鋭部隊が、商人や街のチンピラを装い、アジトとなる建物の全ての逃走経路を完全に封鎖する。その完璧な布陣が完了したという合図を受け、ハンスとゲオルグが動いた。
二人は、「大家から依頼された修理人夫だ」と名乗り、アジトの部屋の扉を、無遠慮に叩いた。
「水道管の点検だ! 漏水が起きているらしい! すぐに開けてくれ!」
ハンスのその横柄な物言いに、中の密偵は油断したのだろう。扉の内側から、用心深く鍵が外される音がした。
扉が開いた、その瞬間。
戦闘のプロである二匹の猟犬が、その牙を剥いた。
突入、そして制圧。
その全ては、わずか数十秒で完了した。部屋の中にいた五人の密偵たちは、悲鳴一つ上げる間もなく、その意識を刈り取られていた。
「……大将。制圧、完了」
レオンの執務室で指示を出しつつ状況報告を待っていると、レオンの用意した魔力通信機から、ハンスの冷静な声が響く。
「これより、『証拠物件』の捜索に入る」
ハンスたちが、アジトの家宅捜索を開始する。床板を剥がし、壁を叩き、家具の裏側まで、徹底的に調べていく。そして、彼らはそれを見つけた。寝台の下に巧妙に隠された、鉄製の頑丈な隠し金庫。
「……大将。ブツはこの中だ。だが、鍵がかかっている。こいつは頑丈だ。壊せねえ」
「問題ない」通信機に向かってそう答えたのは、俺ではなくレオンだった。「セバス。我が商会の最高の『鍵師』を、現場へ急行させろ。どんな鍵であろうと、五分で開け事が可能だろう」
レオンのその淀みない指示。彼の掌の上で全てが進んでいくこの感覚。俺は改めて、この若き商人の底知れぬ実力を感じていた。
現場に到着した小柄な老人の鍵師は、その見た目とは裏腹に、神業のような手つきで、金庫の複雑な鍵をいとも容易く解錠してしまった。
金庫の中にあったのは、一冊の分厚い、黒革の裏帳簿。
ハンスが、その最初のページをめくった瞬間。彼の息を呑む音が、通信機を通して伝わってきた。
「……大将。こいつは、とんでもねえ『お宝』だぜ……」
レオンの執務室に、その黒革の帳簿が届けられたのは、それから三十分後のことだった。俺とレオンは、その帳簿をテーブルの上に広げ、食い入るように、その内容を精査していく。そこには、俺たちの想像を遥かに超える、宰相の長年にわたる悪事の全てが、記されていた。
公的な事業からの、不正な資金の横領。
彼の派閥に属する、貴族たちへの贈賄の記録。
そして、白帆商会内部に潜入させた、二匹の『鼠』への報酬の支払い記録まで。
それは、もはや言い逃れの一切できぬ、完璧な証拠物件だった。
「……素晴らしい。これさえあれば、あの老獪な狐の息の根を、完全に止めることができる」
レオンが、満足げに、そして冷徹に呟いた。
「すぐに、国王陛下にこれを上奏し、宰相の断罪を……」
「いや、その必要はありません」
俺は、彼の言葉を遮った。
「宰相の失脚は、この国に大きな政治的混乱を招きます。それは、回り回って我々の事業にも悪影響を及ぼすでしょう。俺たちの目的は、彼を社会的に抹殺することではない。ただ、我々の村に二度と手出しができないよう、完璧な『首輪』をつけてやることです」
俺はレオンに、この裏帳簿の本当の使い方を告げた。
「この『武器』を、最も有効に使える人物。この国に、ただ一人だけいます」
その日の夜。俺は、セシリアだけを伴い、再びルナリア王女の離宮を訪れていた。
「……慎一殿。このような夜更けに、緊急の謁見とは。一体、何が?」
王女は、不安げな表情で俺たちを迎えた。
「王女殿下。王都を発つ前に、あなたにお渡ししておきたい、『手土産』がございまして」
俺はそう言うと、あの黒革の裏帳簿を、彼女の目の前のテーブルに、静かに置いた。
「これは……?」
「実は、先日、レオン殿が主催した夜会の帰りに私は命を狙われたのですが、その狙った相手の最大の弱点ともいえる物。そう殿下の政敵……宰相デューク・バレッタスの、長年にわたる罪の記録ですよ」
俺の言葉に、王女は息を呑んだ。彼女は、震える手でその帳簿を手に取り、ページをめくっていく。その美しい顔が、驚愕と怒り、そしてやがて、確かな勝利の喜びに染まっていくのを、俺は静かに見守っていた。
「……なんということでしょう。これさえあれば……」
「ええ。これさえあれば、あなたはいつでも宰相の息の根を止めることができます」
俺は彼女に、告げた。
「このあまりにも強力な武器を、いつ、どのようにお使いになるかは、全て王女殿下、あなたのご判断にお任せいたします。我々が望むのは、ただ一つだけ」
「……分かっていますわ」王女は帳簿を固く胸に抱きしめ、俺を真っ直ぐに見つめ返した。「宰相が二度と、あなたの、そしてあなたの大切な村に手出しができないよう、私が、この王都から完璧に見張っておきましょう。……この御恩は、決して忘れませんわ、慎一殿」
彼女のその力強い言葉。
俺は、王都での全ての仕事が終わったことを確信した。
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その頃、王都の壮麗な宰相の屋敷。その一番奥にある私室では。
宰相デューク・バレッタスが、部下からの報告に、その痩身をわなわなと震わせていた。
「……鼠どものアジトが制圧されただと……? 裏帳簿が全て奪われた……?」
信じられない、という表情。
そこへ、第二の、そして致命的な報告が、もたらされる。
「……はっ。たった今、勇者サトウ・シンイチが、ルナリア王女の離宮を訪れたとの、報告が……!」
その言葉に、宰相の血の気の引いた顔が、絶望に染まった。
全てを、理解したのだ。
ガチャン、と彼の手にした最高級のクリスタルのグラスが、床に落ちて砕け散った。
「あの小僧……ッ! 奴の持つ富を、奪おうとしたがために、逆に、こちらの全てを奪われたと、いうのか……! これでは、王女に、完全に首根っこを押さえられたも同然……!」
彼は、その場に崩れ落ちた。
だが、その絶望の淵で、彼の目に、再び冷たい憎悪の炎が宿る。
「……だが、これで終わりだと思うなよ、勇者シンイチ……。そして、ルナリアよ……! このまま、黙って引き下がる、わしでは、ない……!」
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辺境に来てから三十日目の朝。
『金獅子亭』の馬屋の前には、俺たちの凱旋を待つ、六台の荷馬車が、ずらりと並んでいた。
トムが、自信に満ちた顔で、その最終的な準備を指揮している。
フィリアとリズは、王都で買い与えられた新しい服を身にまとい、これから始まる新しい生活に、胸を躍らせていた。
ハンスとゲオルグは、久しぶりに戦場ではない故郷へ帰れることに、どこか安堵の表情を浮かべている。
俺は、活気に満ちた王都の景色を見下ろしながら呟いた。
「……王都での仕事は、終わった。さあ、村へ帰ろう」
四十路の総務部長の人生最大の『出張』は、こうして、完璧な形で、その幕を閉じたのだった。




