日報055:二つの戦線
辺境に来てから二十八日目の朝。
前日の夜、俺は久しぶりに深い眠りに落ちることができそうだった。だが一度湧き上がった闘志と明確になった作戦計画は、四十路の総務部長の体をベッドではなく机へと向かわせた。気づけば窓の外は白み始め、テーブルの上には俺が夜を徹して完成させた二つの計画書が広げられていた。王都の宿屋『金獅子亭』の一室は、夜明けの光と共に静かだが確かな熱気に満ちていた。
「皆、集まってくれ。これより二つの作戦を同時並行で進める」
俺の声に、仲間たちがテーブルの周りに集結する。
俺はまず、なぜ急いで二つの作戦を進める必要があるのか、その理由から説明した。
「俺たちが二つの作戦を同時に進めるのには、理由が二つある。一つ目は、時間だ。村では新たな仲間たちが我々の帰りを待っている。レオン殿への百本の納品期限も刻々と迫っている。1ヶ月以内の納品と考えると往復だけでも十日は掛かってしまう、森の雫の製造日数を考えると王都での滞在は、無駄に一日たりとも延長できない」
俺はそこで一度、言葉を切った。
「そして二つ目の理由。これこそが、この作戦の肝だ。我々は、今日、王都で、大規模な買い付けを行う。それは、我々が宰相の密偵の存在に気づいておらず、村の発展計画を、呑気に進めていると、敵に思わせるための、最高のカモフラージュになる。我々が、普段通りの業務をこなしていると見せかけること。それが、鼠を、油断させて、穴から誘い出す、何よりの『餌』になるんだ」
俺のその説明に、全員が、深く納得したように頷いた。
「という訳で、作戦を分担する。ハンス、ゲオルグ。君たち二人には、昨日からの任務を続行してもらう。作戦名『鼠狩り』。宰相の放った鼠と、その連絡員の尻尾を、今日中に、必ず掴むんだ」
「応ッ!」「任せとけ!」
二人は、すでに、その顔を、王都の闇に生きる情報屋のものへと、変えていた。
「そして、俺とセシリア、トム。我々三名は、これから、フィリアとリズを、迎えに行く。その後、彼女たちと共に、資材の買い付けを行う」
「フィリアさんたちを?」セシリアが、意外そうな顔をした。
「ああ。工房で使う、専門的な道具は、実際に使う人間が、自分で選ぶのが、一番いい。フィリアの才能を、最大限に引き出すためには、最高の道具が必要不可欠だ。それに……」
俺は、少しだけ、笑みを浮かべた。
「新しい『家族』に、新しい服の一着でも、買ってやりたいからな」
その言葉に、セシリアとトムの表情が、ふっと和らいだ。
ハンスとゲオルグは、夜明け前の、まだ薄暗い街へと、音もなく消えていった。
俺たち三名は、馬車に乗り、鍛冶師街の外れにある、あの、寂れた工房へと、向かった。
工房の前に着くと、中から、小さな、しかし、懸命に何かを片付ける物音が聞こえてきた。俺たちが、扉を開けると、そこには、旅支度を整え、父親の形見である、古い工具を、布で、一つ一つ、丁寧に包んでいる、フィリアの姿があった。リズも、その隣で、小さな金属のガラクタを、一生懸命、袋に詰めている。
「……シンイチ」
俺たちの姿に気づいたフィリアが、顔を上げた。その目には、昨日までの、警戒心や、諦観の色はない。新しい生活への、確かな希望の光が、宿っていた。
「迎えに来た。行こうか、俺たちの村へ」
「……うん」
フィリアは、短く、しかし、力強く、頷いた。
フィリアたちのささやかな、しかし、大切な荷物を馬車に積み込む。俺たちはまず、職人街の奥まった場所にある、専門的な工具を扱う店へと向かった。
店の前で、フィリアが不安げに俺の服の袖を引いた。
「……ここは?」
「フィリア。君が村で開く工房に必要な、最高の道具を買いに来た」俺は彼女の目を見て、はっきりと告げた。「君にはこれから、村にとって、とても重要な仕事をしてもらうことになる。優秀な職人には、最高の道具が必要だ。そうだろ?」
俺がそう言って微笑むと、普段は感情を見せないフィリアの顔が、わずかに綻んだ。その瞳に、期待の光が灯る。彼女は、何かを決心したように、こくりと頷き、自ら店の扉へと向かった。
店の扉をくぐった瞬間。フィリアの纏う空気が一変した。
彼女はもはや、ただの内気な少女ではない。自らの聖域に足を踏み入れた、真の『職人』の顔をしていた。
彼女は、壁にずらりと並んだ工具の一つ一つを、食い入るような真剣な眼差しで見つめている。
「……すごい。この金槌、重心のバランスが完璧だ。……こっちのヤスリ、刃の一本一本が寸分の狂いもなく立っている……。父さんの道具より、ずっといい……」
彼女はまるで恋人に触れるかのように、そっと一つの精密なノギスを手に取った。
「……これ。これ、ずっと欲しかったやつ。これがあれば、もっと細かい歯車が……」
その心の底から嬉しそうな、そして情熱に満ちた輝くような瞳。
俺は、この天才を見つけ出せた自らの幸運に、改めて感謝した。
「フィリア。必要なものは、何でも言ってくれ。予算は気にしなくていい」
俺の言葉に、彼女は力強く頷くと、次々と専門的な工具を指し示していった。その淀みない姿は、もはや俺やセシリアですら、口を挟むことのできない専門家の領域だった。
一通りの工具を買い揃え、夢心地でそれを眺めるフィリアの隣で、今度はリズが、もじもじと、何かを欲しそうな顔をしている。その小さな姿に、俺とセシリアは顔を見合わせ、優しく微笑んだ。
「さあ、次の場所へ行くぞ!」
俺がそう声をかけると、俺たちは商業地区にある、中級だが仕立ての良い衣服店へと向かった。
入店時、汚れた身なりの俺たちを見て、店の主人が一瞬、顔をしかめたのは見逃さなかった。だが、セシリアが、静かに騎士の紋章を示すと、その顔が、驚きと、媚びを含んだ営業用の笑顔に変わったのは、少々、癪に障る。
俺は、そんな店主の態度は意に介さず、二人に告げた。
「さあ、二人とも。好きな服を選ぶといい。これからは、煤と油で汚れた作業着だけじゃなく、たまには綺麗な服も必要になる」
俺の言葉に、リズは目をキラキラと輝かせ、色とりどりの子供服の間を嬉しそうに駆け回っている。
一方のフィリアは、戸惑っていた。彼女の人生に、自分のために服を選ぶという経験は、これまで一度もなかったのだろう。
「……フィリアさん。こちらのワンピースなど、いかがですか? あなたのその美しい髪の色に、きっとお似合いになりますよ」
セシリアが、母親のような優しい笑みで、淡い緑色のワンピースを、彼女の体の前にそっと合わせた。
「わ……」
フィリアは、鏡に映る自分の姿に、驚いたように声を漏らした。その頬は真っ赤に染まっている。
そのあまりにも初々しい反応に、俺たちは思わず顔を見合わせ、微笑んだ。
しばらくして、俺たちは、リズには活発な彼女に似合う、動きやすくて可愛らしい服を、フィリアには、先ほどセシリアが進めていた、あのワンピースを買い与えた。
「二人とも、よく似合ってるぞ」
俺がそう言うと、リズは「ありがとう!」と、その場でくるりと回って、はしゃいでみせた。フィリアは、おずおずとしながらも、消え入りそうな、しかし、はっきりとした声で「……ありがとう」と呟いた。その小さな感謝の言葉が、俺の心に、温かく響いた。
「さて、と」俺は、新しい服を嬉しそうに着ている二人を見つめた。「それじゃあ、村に必要な、他の物資も調達しに行くか」
俺たちは、新たに家族となった二人の少女を連れて、再び、活気のある王都の商業地区へと、足を踏み出した。
そして、その頃。王都の、光の当たらない場所では。
ハンスとゲオルグによる執拗な追跡が、クライマックスを迎えようとしていた。
彼らの予測通り昼過ぎ、金に、そして焦りに追い詰められた博打狂いの鼠が、ついに動いた。
彼は、仲介人であるフードの小男と、中央広場の人混みに紛れて、直接接触したのだ。
「……食いついた」
その光景を、物乞いを装い、広場の隅に座っていたハンスの目が、鋭く光る。
連絡員の小男は、情報を受け取るとすぐにその場を立ち去り、王都の迷路のような裏路地を、巧みに進んでいく。
だが、その背後には、二匹の百戦錬磨の猟犬が、決して逃れられない距離を保ちながら、ぴったりと張り付いていた。
数時間に及ぶ、執拗な追跡の末。
連絡員の小男が最後にたどり着いたのは、職人街の外れにある、何の変哲もない三階建ての古いアパートメントだった。男は、周囲を何度も何度も確認した後、その建物の二階の一室へと、吸い込まれるように消えていった。
「……見つけたぜ。鼠の、ねぐらだ」
向かいの建物の屋上から、その一部始終を確認していたゲオルグが、満足げに呟いた。
その日の夕暮れ。
『金獅子亭』の裏にある馬屋の前には、俺たちが買い付けた山のような物資と、チャーターした五台の巨大な荷馬車が、ずらりと並んでいた。
それは、一つの小さな村が、一年は暮らせるであろう、圧倒的な量だった。
俺たちが、その成果を確認していると、ハンスとゲオルグが、鋭い目をして帰ってきた。
「大将。鼠のねぐら、完全に、特定したぜ」
ハンスが、一枚の詳細な地図を、俺の前に広げた。
俺は、目の前に広がる二つの光景を、見比べた。
一つは、村の豊かな未来を約束する、山のような物資。
もう一つは、その未来を脅かす、敵の心臓部の位置を示す、地図。
攻めと、守り。
発展と、防衛。
その両方を、俺は、このたった一日で手に入れたのだ。
「……皆、聞いてくれ」俺は、仲間たちを見渡し、静かに、しかし力強く宣言した。「王都での我々の仕事は、これでほぼ終わりだ。だが、村へ帰る前に、やらねばならぬ最後の『大掃除』が残っている」
宰相との情報戦は、最終局面を迎えた。
俺は、地図に記されたアジトの場所を、冷徹な目で見つめながら、次なる一手について、思考を巡らせていた。
総務部長の、王都での最後の仕事が、始まろうとしていた。




