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日報054:突き止めた鼠と鼠狩りの罠

 辺境に来てから二十七日目の朝。王都の空は、昨夜の緊張を洗い流すかのような、澄み切った青色をしていた。だが、宿屋『金獅子亭』の一室に漂う空気は、依然として張り詰めたままだ。作戦名『鼠狩り』。その静かで、しかし、熾烈な情報戦の火蓋は、すでに切って落とされている。


 夜明けと共に、ハンスとゲオルグは、その姿を王都の雑踏へと溶け込ませていた。昨夜までの傭兵然とした雰囲気は、鳴りを潜めている。一人は荷運びの人足に、もう一人はしがない行商人に。彼らは、それぞれの役割に完璧になりきり、ターゲットである三人の容疑者の監視を開始した。プロフェッショナルの仕事だった。


「慎一様。我々も動きますか?」

 部屋に残ったセシリアが、落ち着かない様子で尋ねてきた。彼女は、じっと待つという行為が、性分に合わないのだろう。その手は、無意識のうちに腰の剣の柄を、何度も確かめている。


「いや、まだだ」俺は、村の復興計画書に羽ペンを走らせながら、静かに答えた。「俺たちの役目は、堂々とこの宿に滞在し、普段通りの業務をこなしていると見せかけることだ。敵に、我々が密偵の存在に気づいていると悟られてはならない。下手に動けば、鼠は警戒して、穴に潜ってしまう」


 俺の言葉に、セシリアはぐっと唇を噛み、しかし、納得したように頷いた。彼女も、この作戦の重要性を理解している。俺が今、書き留めているのは、フィリアに渡すための、新しい蒸留器の改良案だった。王都での戦いと、村の発展。二つのプロジェクトを、俺は同時に進行させていた。


 時間は、拷問のように、ゆっくりと流れた。

 窓の外からは、活気のある王都の喧騒が聞こえてくる。その平和な日常の音と、この部屋に満ちる静かな緊張感とのコントラスト。それが、俺たちの置かれた異常な状況を際立たせていた。


 最初の動きがあったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 ハンスからの簡易的な伝言が、宿のボーイを通して、俺たちの元へ届けられた。

『鼠一匹、穴を出ず。ただし、酷く腹を空かせている模様』


「……博打狂いの男か」

 俺は、伝言の意味を即座に理解した。容疑者の一人である博打好きの給仕が、金に困り、焦っているということだ。

「焦りは、ミスを誘発する。……そろそろ、動き出すかもしれん」


 そして、本格的な動きがあったのは、街が夕闇に包まれ始めた頃だった。

 今度は、ゲオルグからの伝言だった。

『鼠一匹、馴染みの酒場へ。何やら置き土産』


(……さっき俺たちが商会で会った、あの給仕の男だな)

 俺は、脳内で情報を整理する。


「セシリア。少し出てくる」

「はい。どちらへ?」

「こちらも、『餌』を仕込みに行く」


 俺は、トムに鉄の箱の厳重な警備を改めて命じると、セシリアと共に宿屋を出た。俺たちが向かったのは、レオンとの偽の取引情報を漏洩させた、白帆商会の本部が見える、大通りに面した高級なカフェだった。


 俺たちは、わざと窓際の人目につきやすい席に座り、これ見よがしに商談の続きを始めた。

「……それでセシリア。来月、村から輸送する三十年物の『森の雫』だが、輸送ルートは、やはり例の古道を使うのが一番安全だろうか」

「いえ、慎一様。あれだけの高価な品です。念には念を入れるべきです。白帆商会の正規の警備隊をつけていただくよう、レオン殿に改めてお願いしましょう」


 俺たちのその会話。近くの席に座る他の客たちの何人かが、明らかに聞き耳を立てているのが分かった。その中には、宰相派としてリストアップされていた、下級貴族の姿も混じっている。

 餌は撒かれた。あとは、鼠がどの情報にどう食いつくかだ。


 宿屋に戻ると、部屋にはすでにハンスとゲオルグが戻っていた。その顔には、確かな手応えを得た猟師の、満足げな表情が浮かんでいる。

「大将。ビンゴだ」

 ハンスが、ニヤリと笑った。


「まず、俺の方からだ」ゲオルグが報告を始める。「例の給仕の男。奴は、仕事の合間に馴染みの酒場に行くと、勘定と一緒に小さな羊皮紙の欠片を、カウンターの特定の場所に置いていった。バーテンダーは、それに気づかないフリをしていたが、奴が去った後、その欠片を懐に仕舞い込んでいたぜ。間違いなく、連絡員だ」


「次に、俺の方だ」ハンスが引き継いだ。「博打狂いの男。奴は、夕方、賭場で有り金をすべてスッた後、裏路地のゴミ箱の裏にある石の下に何かを隠し、慌てて立ち去っていった。その後、見張っていると、どこからともなくフードを目深に被った小男が現れ、それを回収していった。俺は、その小男の後をつけた」


「追跡は?」

「ああ。途中で見失っちまった。プロだ。だが、顔と格好は覚えた。それに……」

 ハンスは、そこで一度言葉を切り、挑戦的な目で俺を見た。

「……そいつが向かった先。方角と距離からして、おそらく、宰相の第三夫人が贔屓にしているという、あのしがない宝石商の店だ」


 全ての情報が、繋がった。

 俺は、立ち上がり、窓の外の王都の夜景を見下ろした。

「……ご苦労だった、二人とも。最高の仕事だ」


 俺の脳内で、【危機管理EX】と【交渉術S】がフル稼働し、最終的な結論を弾き出す。

「……鼠は、二匹いたということだ」

「なにっ!?」


「ああ。おそらく宰相は、リスクを分散させるため、複数の情報ルートを確保していたんだろう。一人は、レオンの親父の代からいる古参の給仕。こいつは、白帆商会内部の、より機密性の高い情報を手に入れるための、本命の『鼠』だ。もう一人の博打狂いは、金で簡単に動かせる、使い捨ての『鼠』。重要な情報ではなく、俺たちの動向を探らせるための、末端の駒だろう」


「では、大将。どうする? 二匹とも捕まえるか?」

「いや」俺は首を横に振った。「泳がせる。ただし、こちらがその存在に気づいているとは、夢にも思わせないままな」


 俺は、仲間たちに向き直り、新たに、より大胆な作戦を告げた。

「……ハンス、ゲオルグ。明日から君たちには、あのフードの小男……宰相の連絡員の追跡に、全力を挙げてもらう。奴のアジトを突き止めるんだ。それが、この情報戦の最終的な勝利に繋がる」


「セシリア。君には、俺と共に、引き続きレオンとのビジネス交渉を進めてもらう。ただし、これからは会話の中に、意図的に『偽の情報』と『真の情報』を織り交ぜていく。宰相が、どちらの情報に食いついてくるかで、奴の本当の狙いを探る」


 それは、もはや単なる鼠狩りではない。

 敵の情報網を逆利用し、敵の思考そのものをハッキングする、高度なカウンターインテリジェンス(防諜活動)だった。

 俺たちのチームは、今、この異世界で最も危険な情報戦の渦中へと、その身を投じたのだ。


 俺は、羊皮紙に書かれた三人の容疑者の名前を、指でなぞった。

「……罠は完成した。あとは、獲物がかかるのを待つだけだ」


 その夜、俺は久しぶりに、深い眠りに落ちることができそうだった。

 不安ではない。

 明日始まるであろう本格的な知略戦への、武者震いにも似た高揚感が、俺の全身を満たしていたからだ。

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