日報051:祝杯と、未来への手付金
白帆商会が所有する迎賓館の最上階に位置するレオン・バルトの私室。そこは彼の性格を映し出すかのように、華美な装飾を排した、機能的かつ最高級の調度品で満たされていた。床には南の国から取り寄せたという手織りの絨毯が敷かれ、壁には王都の歴史を描いた壮大な絵画。そして大きな窓の向こうには、宝石を散りばめたような王都の夜景が広がっている。
レオンが執務机の奥にある戸棚から取り出したのは、「私の秘蔵です」と言って持ってきた、南の国で作られたという最高級の白ワインが、月光を浴びて淡く輝いていた。
「これは、私が当主を継いだ年に、記念に仕込んだものです。あなたという、最高のビジネスパートナーとの出会いを祝すのに、これほどふさわしい酒はないでしょう」
彼が自ら栓を抜き、二つのクリスタルグラスに注ぐ。芳醇な香りが、静かに部屋を満たした。俺とレオンはグラスを掲げ、セシリアは俺の背後で、変わらず警戒を解かずに控えている。
「……シンイチ殿。今宵は、私の想像を遥かに超える、素晴らしい夜になりました」
レオンが、満足げに、そしてどこか陶然とした表情で口を開いた。彼の瞳には、商人としての計算高さだけでなく、純粋に面白いものを見つけた子供のような興奮が宿っている。
「あなたのプレゼンテーションは、もはや芸術の域でしたな。ただ商品を売るのではない。『物語』を売り、『夢』を売る。そして、招待客たちの射幸心と虚栄心を完璧に煽り、狂乱の渦へと叩き込む。私も長年、この世界で商売をしてきましたが、あれほど鮮やかな手腕は見たことがありません」
「お褒めに預かり光栄です、バルト殿。ですが、あなたの舞台装置がなければ、私のプレゼンもただの独り言で終わっていたでしょう。最高の舞台を用意してくださったことに、こちらこそ感謝を」
俺たちは互いの手腕を認め合い、静かにグラスを合わせた。カチン、というクリスタルの澄んだ音が、心地よく響く。
「ですが」レオンは声のトーンを一つ落とし、その目を再び鋭い商人のものに戻した。「……今宵の成功は、同時に、あなたに巨大な敵を作ったことも、お忘れなきよう」
「宰相デューク・バレッタスのことですかな?」
「ええ。今宵のあなたの手腕、実に見事でした。特に、あの衛兵たちを追い払った場面。武力ではなく、法と権威で相手の土俵そのものを崩すとは。あなたの戦い方は、常に私の想像を超えてくる」
レオンは心から感心したように言った。
「あなたこそ。あのタイミングで現れなければ、もう少し面倒なことになっていたかもしれません」
「ふふ。あの程度の蝿を払うのは、造作もないことです。ですが……」
レオンはグラスを置き、その目を再び鋭い商人のものに戻した。
「宰相は、必ず次の手を打ってきます。公的な手段が通じないと分かれば、今度は、もっと汚い、裏の手段を使ってくるでしょう。暗殺、誘拐……あの男なら、やりかねません」
「ええ、そのための準備も進めています」
俺は、ハンスとゲオルグに宰相の身辺調査を命じたことを、レオンに簡潔に伝えた。宰相夫人の浪費癖、建設ギルドとの癒着。俺が具体的な情報を口にするたびに、レオンの目の光が鋭さを増していく。
「……なるほど。すでにそこまで。あなたの情報収集能力も、大したものですな。ですが、シンイチ殿。その情報だけでは、あの老獪な狐を追い詰めるには足りないかもしれない」
レオンは、指でテーブルを軽く叩きながら言った。
「よろしければ、この件、我が白帆商会の『情報網』も使いませんか?」
それは、あまりにも魅力的な提案だった。王都一の大商会が持つ情報網。それは、金で買えるものから、裏社会の人間でなければ得られないものまで、あらゆる情報に通じているはずだ。
「……よろしいのですか? あなたの商会が、宰相と敵対することになる」
「構いません。これは、ビジネスです」レオンはきっぱりと言った。「宰相は、これまでも我が商会の流通事業に何かと口を挟み自らの派閥の商人を優遇してきた。彼を排除することは、回り回って、我が商会の利益にも繋がる。そして何より……」
彼は、挑戦的な笑みを浮かべた。
「あなたという『金の卵を産むガチョウ』を守ることは、私にとって、最優先の投資ですからな」
「……感謝します、レオン殿。心強い限りだ」
俺たちは、もはやただのビジネスパートナーではない。宰相という巨大な共通の敵を前に、互いのリソースを共有し共に戦う同盟者となったのだ。
「さて」レオンは満足げに頷くと、傍らに控えていた老執事のセバスに目で合図を送った。「口先だけの同盟では、意味がない。信頼の証として、お約束の品をお渡ししましょう」
セバスが、部屋の隅から、ずっしりと重そうな鉄製の箱を、カートに乗せて運んできた。その箱には、白帆商会の紋章と、いくつもの複雑な鍵が付けられている。
「今宵の、オークションの売上金。そして、我々からあなたへの未来の『投資』です」
レオンが鍵を外し、重い蓋を開ける。
その瞬間、俺と、そして背後にいたセシリアも、思わず息を呑んだ。
箱の中は、蝋燭の光を乱反射して、目も眩むほどの黄金の輝きに満ちていた。
「まず、こちらが、今宵のオークションで、イザベラ女侯爵が落札された、『森の雫』三十年物の購入権利金。白金貨三枚のうち、あなた方の取り分として大金貨九十枚」
「そして、こちらが、先日の契約の手付金。大金貨七十五枚。合計で、大金貨百六十五枚。お納めください」
レオンが、大金貨の無造作に積み上げられた、金貨の山を指し示す。一枚一枚が、一般市民の数ヶ月分の生活費に相当する。その金貨の圧倒的な質量と価値が、俺たちの成功を、何よりも雄弁に物語っていた。
「……確かに、受け取りました」
俺は、平静を装いながら、そう答えた。だが、内心では、四十年間、中小企業の総務部長として、ちまちまと経費削減に頭を悩ませてきた我が人生とは、あまりにもかけ離れた金額に、目眩すら覚えていた。
(……これが、この世界の富の動きか。この資金があれば、村のインフラ整備、フィリアの工房の建設、そして、今後の事業拡大……全ての計画が一気に加速する)
俺の【予算管理S】スキルが、凄まじい速度で、新たな事業計画を構築し始めていた。
「シンイチ殿。この金は、ただの利益ではない。あなたと、あなたの村の未来を脅かす『火種』にもなり得る。道中くれぐれもお気をつけて」
レオンの忠告に、俺は頷いた。
「セバス。シンイチ殿たちを、宿まで目立たぬよう警護付きの馬車でお送りしろ」
「かしこまりました」
レオンの、完璧な配慮だった。大量の金貨が入った鉄の箱を、そのまま担いで夜道を歩くなど自殺行為に等しい。
俺とセシリアは、レオンに深々と礼を述べ、その私室を後にした。鉄の箱は、セバスと白帆商会の屈強な護衛たちによって、慎重に、そして、人目につかぬよう馬車へと運び込まれていく。
迎賓館の裏口から、馬車に乗り込む。御者も、護衛も、すべて、レオンが最も信頼する手練れの者たちだ。
馬車が、静かに王都の夜の闇へと滑り出した。
車内には、俺とセシリア、そして、俺たちの足元に置かれた、鉄の箱だけ。ゴトゴトと、車輪が石畳を転がる音だけが、やけに大きく響いていた。
俺たちの王都での最初の戦いは、終わった。
そして、その手には、想像を絶するほどの「成果」がある。
だが、俺の【危機管理EX】は、まだ、警告レベルを下げてはいなかった。
宰相の放った牙は、本当に、一つだけだったのだろうか。
俺は、馬車の窓の外に広がる暗い路地を鋭い目で見つめながら、静かに次の戦いに備えていた。




