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日報035:王女との交渉と、未来への契約

 月明かりが差し込む王城の西離宮では、ルナリア王女の熱を帯びた、そしてどこか縋るような視線が俺に突き刺さっていた。

「……シンイチ殿。私は……私は、あなたという『未来』に、賭けてみたい」


 その言葉はもはやビジネスの交渉ではなかった。一国の王女が、俺という素性の知れぬ四十路の男に、自らの、そしてこの国の未来を託そうという魂の告白だった。


(……まずいな。これは想定以上だ)

 俺の【危機管理EX】が警告を発していた。だがそれは危険を知らせるものではない。この状況は俺たちの村にとって千載一遇の最大のチャンスであると同時に、一歩間違えれば王家の、そして宰相派閥とのより深刻な政争に巻きわれかねない危険な賭けでもあると告げている。

 だが、総務部長はリスクを恐れない。リスクを管理し、利用し、最大限のリターンに変える。それこそが俺の仕事だ。


 俺は一呼吸置き、彼女のあまりにもまっすぐな瞳を見つめ返した。

「……王女殿下。そのお言葉、光栄の至りです。ですが、私はただのしがない元・総務部長。あなた様ほどのお方がその未来を賭けるには値しない男です」


 俺はまず謙遜という最も安全なカードを切った。


「ですが」俺は続けた。「もし殿下が私という『事業』に投資してくださるのであれば、私は必ずや殿下のご期待を遥かに上回る『利益』をこの国にもたらすことをお約束いたします」


 俺の言葉にルナリア王女ははっとしたように表情を引き締めた。彼女は聡明だ。俺が彼女の個人的な感情と公的な立場を切り離して話を進めようとしていることにすぐに気づいたのだろう。


「……面白いお方、シンイチ殿。分かりました。では、あなたの言うその『事業』について、具体的な計画を聞かせていただけますか?」

 彼女は再び気高い為政者の顔に戻っていた。


「はい。まずこの『ミスリル』についてです」

 俺はテーブルの上の原石を指差した。

「これは我が村から王家への揺るぎない忠誠の証として献上いたします。その上で、今後我が村で採掘される全てのミスリル鉱石の独占的な購入権を王家にご提案いたします。価格は市場価格の八掛けでいかがでしょうか」


「……! 正気ですか、シンイチ殿? それではあなた方の利益が……」


「構いません。我々が必要なのは安定した販路と王家の強力な後ろ盾です。ミスリルという戦略物資を我々が独占的に供給することで、王家の権威はより盤石なものとなるでしょう。これは我々から王家への最初の『投資』です」


 俺の提案に王女は息を呑んだ。これは単なる売買契約ではない。血よりも濃い経済による同盟の提案だ。

「……分かりました。その破格の提案、父上も必ずやお喜びになるでしょう。謹んでお受けいたします」


「次にこの『高品質回復薬』です。これの品質については後日専門家の方にご判断いただければと。その上で殿下にお願いしたいのは、王宮の薬師長様か、あるいは薬師ギルドのギルドマスター様へのご紹介を賜りたいのです」


「紹介、ですか?」


「はい。私はこの薬をただ高値で売り捌きたいのではありません。この薬が本当に必要としている兵士の方々や民の元へ正しく届くための道筋を作りたいのです。そのためにはこの国の医療の最高責任者の方々と直接お話しする必要があります」


 俺の言葉には嘘はない。もちろん利益も追求するが、それ以上にこの薬が人々の命を救うという社会的な価値を俺は重視していた。それこそが持続可能なビジネスの基本だ。


 王女は俺のその真意を見抜いたのだろう。彼女は深く頷いた。

「……承知いたしました。薬師ギルドのマスター・ドミニクは高潔ですが、少し頭の固い所がある人物です。ですが、私が直々に紹介状を書きましょう。そうすれば、彼も無下にはできないでしょう」


「そして最後にこの『森の雫』です」

 俺はあのルビー色の小瓶を手に取った。

「この50年物は国王陛下への献上品です。ですがこちらの10年物、これを王都の商人や貴族に売り込みたい。そのための足がかりとして、殿下のお力でこの王都で最も信頼でき、そして野心のある商人殿をご紹介いただきたい」


「……商人、ですか。それであれば一人、適任がおりますわ」

 王女は少し悪戯っぽく微笑んだ。


「『白帆商会』という大きな商会をご存知ですか?」

「ええ。今日、街でその名を耳にいたしました」


「その商会の若き当主、レオン・バルト。彼は野心家で計算高く、そして新しいもの好き。ですが一度認めた相手は決して裏切らない義理堅さも持ち合わせています。彼であればあなたの『商品』の価値を正しく見抜くでしょう。ただし……」


 彼女は言葉を切った。


「……彼を交渉で屈服させることができれば、の話ですが」

 その挑戦的な言葉に、俺は不敵な笑みで返した。

「望むところです」


 全ての提案を終え、俺は最後に最も重要な要求を切り出した。

「……王女殿下。これら全ての事業を円滑に進めるため、そして我々の村を貴族たちの理不尽な干渉から守るため、最後に一つだけお願いがございます」


「なんでしょう」


「我が村に国王陛下の名の下に、その自治と事業の独占権を保証する『王室勅許状』を賜りたいのです」


 それはこの村を事実上俺の独立した領地として認めさせる最終的な布石だった。

 王女は俺のその大胆不敵な要求に、しかし驚くことなくただ静かに微笑んだ。

「……ふふ。あなたは本当に面白いお方。どこまで先を読んでいるのですか?」

 彼女はゆっくりと立ち上がると、窓の外の月を見上げた。


「良いでしょう。その『勅許状』、私が父上を説得しあなたに授けることを約束します。ただし、一つだけ条件があります」

「……何でしょう?」


「時折こうして離宮に顔を見せ、私にあなたの面白いお話を聞かせてくださいな。……それだけで結構です」

 彼女はそう言うと俺に振り返り、これまでで一番美しい笑顔を見せた。


 こうして、四十路の総務部長の異世界での最初の、そして最も重要なトップ会談は、俺の完全な勝利で幕を閉じたのだった。


 離宮からの帰り道、俺とセシリア、そして俺たちの後ろを、残りの『商品』サンプルが入った鞄を大事そうに抱えてついてくるトムは、しばらく無言だった。王都の静かな夜の空気と、心地よい疲労感が俺たちを包んでいた。


 沈黙を破ったのはセシリアだった。

「……慎一様」

「なんだ?」

「先ほどの王女殿下との交渉、見事な手腕でした。私では到底思いもつかないような、大胆かつ緻密な提案の数々……。改めてあなたのその類稀なる能力に感服いたしました」

 彼女は心からの尊敬を込めた声でそう言った。


 宿屋に戻りハンスとゲオルグに異常がなかったことを確認した後、俺はセシリアを自室に呼び、二人で今日の謁見を振り返っていた。


「それにしても」セシリアが少し戸惑ったように口を開いた。「驚きました。王女殿下が、あれほどまでに、慎一様に個人的な好意をお寄せになっているとは……。最後のあのお言葉は、もはやただの臣下に対するものではありませんでした」

 彼女の表情には、王女のあまりにも明け透けなアプローチに対する驚きと、そしてどこか複雑な感情が浮かんでいるように見えた。


「……まあ、な」俺は少し頭をかきながら答えた。「正直、俺も驚いている。あれが王族の交渉術の一環なのか、あるいは……」

(……あるいは本心か。だとしたら本格的に惚れられたということか……?)

【交渉術S】スキルが、彼女の言葉が本心であると告げている。

(……面倒な、しかし嬉しい課題が増えたな)

 総務部長の人生設計に、また一つ甘く、そして複雑なプロジェクトが追加された瞬間だった。

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