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日報031:戦友の証と、森の終わり

 辺境での十五日目の昼過ぎ。

 オーガの、苦痛と怒りに満ちた咆哮が、森の奥へと遠ざかっていく。俺たちは、もはや振り返ることなく、ただ、ひたすらに走り続けた。そして、オーガの縄張りから、十分に安全な距離まで離れた、日の当たる開けた場所で、ようやく、その足を止めた。


「……はぁっ、はぁっ……!」

 全員が、荒い息をつき、その場にへたり込む。トムなどは、緊張の糸が完全に切れたのか、荷車の横で、胃の中身を戻していた。アドレナリンが、急速に引いていき、代わりに、全身を、鉛のような疲労感が襲う。だが、それ以上に、死の淵から生還したという、強烈な高揚感と、確かな一体感が、俺たち五人を、包んでいた。


「……全員、無事か?」

 俺は、息を整えながら、仲間たちの顔を見渡した。

「はい、負傷者は、いません」セシリアが、額の汗を拭いながら、答える。

「見事な連携だった。ハンス、ゲオルグ、君たちの働きで、オーガの注意を完璧に引きつけることができた。トム、君も、あのプレッシャーの中で、よく荷車を支えきった。そして……」

 俺は、木の根元に座り込み、小さな肩で、息を整えている、獣人の少女に向き直った。

「ミオ。君の、あの一矢がなければ、今頃、俺たちは、全員、オーガの腹の中だっただろう。本当に、見事だった。ありがとう」


 俺の、心からの賞賛に、ミオは、ぷいっと顔をそむけたが、その銀色の尻尾が、ぱたり、と、地面を叩いた。


 しばらくの休憩の後、俺は、セシリアに声をかけた。いつもの、総務部長としての、丁寧な口調で。

「セシリア殿、皆の疲労も考慮し、今日の行程を再設定したい。負傷の有無を、改めて、全員、確認してくれ」


 その言葉に、セシリアは、俺の方を、じっと見つめてきた。その瞳には、昨夜までの、部下としてのそれとは、明らかに違う、何か、強い意志が宿っている。

「慎一様」

 彼女は、静かに、しかし、はっきりとした口調で、俺の言葉を遮った。

「え?」


「……もう、『殿』は、おやめください」

「……セシリア?」俺は、思わず、彼女を、呼び捨てにしていた。


「はい」彼女は、その呼びかけに、満足げに、しかし、少しだけ、頬を赤らめながら、続けた。


「昨日の戦いで、思いました。あなたが、私の名を直接叫んでくださった時、不思議と、迷いが消え、剣が冴えたのです。指示が、魂に、直接、届くような感覚でした。ですから……緊急時だけでなく、これからは、いつでも、私のことは『セシリア』と、お呼びいただけませんか? その方が、私にとっては……仲間として、心地良いのです」


 その、真摯な、そして、どこか、熱を帯びた告白に、俺は、言葉を失った。

 そのやり取りを、武器の手入れをしながら、聞いていたハンスが、ニヤリと笑って、口を挟んできた。

「俺たちも、そっちの方が、気合が入っていいぜ、大将」

 ゲオルグも、頷きながら、言葉を続ける。

「ああ。戦場で、いちいち『殿』なんて、付けてられるかよ。家族みてえで、いいじゃねえか」


 彼らの、その、飾り気のない言葉に、俺は、照れくささを感じながらも、深く、頷いた。

(……そうか。「殿」という、一枚の壁が、取り払われた。俺たちは、もう、ただの指揮官と部下じゃない。本当の意味で、背中を預けられる、仲間になったんだ)

「……分かった。セシリア、ハンス、ゲオルグ。これからも、よろしく頼む」

 俺が、そう、呼びかけると、三人は、これまでで、一番、晴れやかな、そして、力強い笑顔で、頷き返した。


 十分な休憩を取った後、俺たちは、王都へ向けて、再び、出発した。

 呼び方が変わったことで、俺たちの間の連携は、以前よりも、さらにスムーズで、打ち解けたものになっていた。

「セシリア、右翼の警戒を頼む!」

「承知!」

「ハンス、前方の視界はどうだ!」

「異常なしだ、大将!」


 森の景色が、徐々に、人の手が入ったものへと変わっていく。鬱蒼としていた木々は、まばらになり、代わりに、なだらかな丘陵が、見え始めた。

 そして、夕日が傾き始めた頃、ついに俺たちは、森を完全に抜け、眼下に、それを見出した。

 王都へと続く、固く、平らにならされた、石畳の主要街道。


「……着いたな」

 俺が、そう呟くと、全員が、心からの、安堵のため息を漏らした。

 トムは、その場に、へたり込み、天を仰いでいる。三日間に及んだ、危険な古道での旅が、ついに、終わりを告げたのだ。


 俺は、ここまで、俺たちを導いてくれた、小さな、しかし、最も、偉大な斥候に、向き直った。

「ミオ。君のおかげで、我々は無事に、この森を抜けることができた。心から、礼を言う。本当に、ありがとう」


 ミオは、街道の、硬い石畳の感触を、確かめるように、足で、数回、地面を叩いた後、俺を見上げた。

「……礼には、及ばない。こっちも、助けられた。……私の役目は、ここまでだ。奴のねぐらと、行動パターンは、分かった。私は、一族に、これを報告に戻る」

 彼女は、きっぱりと、そう言った。


「そうか。分かった。それが、君の役目だからな。道中、気をつけて」

 俺は、彼女を引き止めず、その使命を尊重した。

 そして、別れ際に、こう付け加えた。

「ミオ。もし、一族への報告が終わって、時間ができたら、いつでも、俺たちの村へ遊びに来い。君のような、森の知識と、卓越した能力を持つ者は、いつでも大歓迎だ。君が、望むなら、正式に、村の一員としての『仕事』を用意することもできる」


 俺の、予想外の「スカウト」とも取れる申し出に、ミオは、驚いたように、目を見開いた。そして、ぷいっと、顔をそむけながら、言った。

「……ふん。気が向いたらな」

 ぶっきらぼうな、その言葉とは裏腹に、彼女の銀色の尻尾が、嬉しそうに、ぱたり、と、大きく、揺れていた。

 彼女は、俺たちに、一瞥もくれず、しかし、その足取りは、どこか軽やかに、再び、森の中へと、その姿を消していった。


 残された俺たちは、しばらく、彼女が消えていった森の入り口を、名残惜しそうに、見つめていた。

「……さて、と」俺は、仲間たちの顔を見渡した。「王都まで、あと二日。俺たちの『出張』の、本当の始まりだ」


 セシリア、ハンス、ゲオルグ、トム。そして、去っていった、ミオ。

 この、わずか三日間の旅で、俺は、かけがえのない「戦友」を得た。

 その、確かな手応えを胸に、俺たちは、王都へと続く、開けた道を、力強く、踏み出した。

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